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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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ある種の安倍首相批判にかんする考察 

 経済政策においてアベノミクスが言われるようになってずいぶんの月日がたちました。これによって、デフレやデフレ容認の経済縮小路線の雰囲気が広く問題視されるようになっていったのは確かであります。反面、その変遷において別の問題が明らかになったり、再発したりなどしたのも事実でしょう。一言で言ってしまえば、新自由主義的、親米グローバリズム的な方向へ向かってしまったという意味で。

 ですが、多くの人々による、昨今の「安倍内閣の新自由主義的色合いへの批判」は、どこか的を外しているようにも思われる。もっと言えば、節度や包括的把握に欠いているようにすら見えます。今日は、そうした「ある種の安倍首相あるいは内閣への批判」にかんして疑問視して、そこからさらに包括的に新自由主義を批判する態度を模索してみたいと思います。



 新自由主義がどうしても好きだ……という方には無理してお願い致しませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいっていただけると嬉しいです。




ドゥオーモ



 たとえば、安倍内閣における経済政策の新自由主義基調へ批判が強まると、
「安倍首相以外に誰がいる? 代案を示せ!」
 という事を言う輩が確かにいます。
 勿論、このような盲目的言説は甚だ愚かな事であると思いますから、揶揄の一つでも飛ばしてやるのが適切な対応というものでしょう。つまり、「盲目的な安倍首相支持を前提に経済政策の是非は面倒な端論として真剣に向き合おうともしない(あるいは、しばしば反共でありさえすればよいと思っている)似非保守言論人」をコケにする意味においてのみ、安倍首相の首相の座に疑問符を投げかける言説が節度として許されうるということ。

 しかし、一方で、一般の国民には首相に向かって退陣を請求したり、内閣の打倒を望んだりするケンリなど付与されていてはならないという事も分かられていなければならない。これは別に安倍内閣に限った事ではなく、民主党政権であったとしても、小泉内閣であったとしても、です。一般の国民(公の立場にあるわけでもなければ国会の議席を持つでもない平民の一人一人)に、内閣のリコールを請求する権限は与えられていてはならないのです。
 反対に、一般の国民には首相へ直接的に権限を付与する権利もありません。つまり、盲目的支持によって「世論」の信託を直接与えるというのは、それが無自覚的行動にせよ害悪以外の何ものでもないということ。

 そもそも、内閣を構成する大臣を選出する権限をもつのは首相のはずだし、その首相を選出するのは代議士のはずです。また、内閣の信任・不信任の権限を持ち、論じられるのもその国会のはずだし、そのことに責任を負っているのも国会のはずです。或いは、政府関係者や官僚にまでなら、その権限と責任は拡張しうるでしょう。
 そして、その一連の「中央政府機構」は「一般国民」の領域から何らかの独立性を保持していなければならないはずです。もし、内閣の構成について一般国民の言説が通用してよいと考えるなら、中央政府機構とは一体なんであるか。一般国民の世論が内閣の振る舞いを決め、それが国民一般を支配するのであれば、それは「無政府状態」の野蛮に近しいものではありませんか。また、そうした場合でも、一般国民というやつが「責任」をとった例は一度だってないのです。それどころか、どれだけ「一般国民の世論」によって内閣や国会議員が支配され、それによって治世に失敗しようと、「政治家が悪い」と「官僚が悪い」とやるのが一般国民世論というヤツの常套手段なのです。つまり、一般国民の世論とは、「自分が正しい、正しい」と言っては統治者の行動を支配するが、その結果の責任は統治者に取らせるという、我侭放題、唯我独尊の栄えある主権者様というわけです。この暴君(一般国民世論)を政府機構から徹底的に排除しようとする姿勢があってはじめて、政府は政府らしくあることが出来、国家は文明らしくあれると言って言い過ぎではないでしょう。

 しかし、政府を構成するのも、国民の誰かがやらねばならないというのもまた事実です。神様が降ってきて統治を行ってくれるというわけにはいかないのですから。よって現状、平民は「中央へ送り込む代表(特に中央へ送り込む『地域』からの代表)」を選出するという間接的な参政にのみ「義務」を追っている。民主主義とかいうものに何らかのプラスの意味を持たせるとするならば、そうした「義務としての民主主義」においてのみなのであります。
 おおむね、民主主義を人間の権利であるとするような「ケンリとしての民主主義」を前提にしているから、政治家に対して正しく請求すれば正しく社会が調和するなどという勘違いを起こすのです。

 私が気になってしょうがないのはこのことで、経済において反・新自由主義主義の立場をとる人々も、何か「新自由主義が弱者イジメの強者優遇でよろしくない」ということを啓蒙的に人々へ知らしめれば、正しい政治家が登場して、正しい政治が行われ、正しい秩序が形成されるはずだ……という人間性の楽観があるように思えてならないということです。
 そして、これには重大な矛盾がある。
 というのも、もし政治においてそのような啓蒙的な民主主義が通用するのであれば、経済においての新自由主義的な市場理論だって整合すると言えるはずだからです。

 尤もこれは、その反・新自由主義の心根が、「弱者が可哀想だから」とか「自分が弱者で、金持ちが妬ましいから」などという唾棄すべきキレイ事でなかったとすれば、ですよ? もし、そうした心根から反・新自由主義主義が伸びているのであれば、政治的にも啓蒙的な民主主義は整合するでしょうよ。

 しかし、私はこの種類の反・新自由主義者が新自由主義者と同じくらい大嫌いなのです。理由は簡単で、双方偽善だからです。
 一体、「弱者が可哀想だから」とか「自分が弱者で、金持ちが妬ましいから」という心根から伸びた反・新自由主義者は、「強者である取り分が欲しいから」とか「弱者に足を引っ張られたくないから」という心根から伸びた新自由主義と、どこがどう違うのか。前者は弱者の代弁として世を啓蒙せしめんとし、後者は強者の代弁として世を啓蒙せしめんとするでしょう。この時点で、啓蒙の光の先は一つではなくなってしまっているではないですか。当たり前で、それは神から示された光ではなく、人の描いた光なのですから。あらゆる種類の「啓蒙」などという新興宗教が、人の世を調和せしめる事など永遠にないのです。

 さらに、そうした輩は、反・安倍、親・安倍についても節度を逸していると、私からは見えます。
 つまり、「弱者が可哀想だから」とか「強者である取り分が欲しいから」といった種類の理想を描く者達は、そうした理想像が社会を調和せしめると考える回路を前提としているが故に、啓蒙的、民主主義的になる。そして、啓蒙的、民主主義的な発想を前提とすれば、「首相」という主題が社会そのものであるかのような錯覚を起こすのです。たとえば、「安倍首相はとにかく正しくて、自民党や官僚の閉鎖性を打ち破ってくれる」などと盲目的空想へ走ったり、「安倍首相はとにかく愚劣で、日本を破滅に導く」などとむき出しの怒りをぶつけたりする。
 しかし、私にはそうした連中が社会を一ミリだって良くできるとは、どうしても思えません。

 言っておきますけれど、安倍首相が新自由主義的な経済政策を選びがちなのは、国力を弱めようとしてやっているわけはないのですよ。これは別に「悪気はないのだから」という擁護をしようというわけではなく、「悪気がないからより厄介」という話でもあるのです。また、この種の厄介は、新自由主義批判で果敢にも安倍首相批判にまで及ぶ小市民らにも当てはまる場合が多い。つまり、新自由主義批判においては仰々しく安倍首相を批判していても、他の部分で「悪気のない厄介」を抱えている者は多いはずだということ。或いは、そういう可能性があることを恐れもしない、あまりにも大胆不適な輩が多すぎるということです。




 新自由主義的諸政策への批判は、それが人間性の解釈において甚だ楽観的であることに欺瞞を発見し、これを詳らかにしていく方向で成されていくべきです。
 さすれば、少なくとも経済についての政府の役割として「再分配」以外の議論も、もっとされるはずでしょう。勿論、適正な再分配機能というのは政府の大きな役割の一つです。が、それ「ばかり」が意識されているというのは、強者も弱者も多くは請求の事しか考えていない証拠です。

 政府の果たす経済への役割は、「統制」や「計画」といった長らく人々に忌み嫌われた所にも存在します。自由、自由と馬鹿の一つ覚えで人間性を楽観しているから、政府の統制も計画もない「素裸の市場」が均衡するという空理空論を吐けるのです。
 例えば、最近閣議決定された国土強靭化基本法。国土強靭化に基本法が必要だというのは、政府による「計画」の要素が、市場経済の機能の為にも不可欠である事を明瞭に意味しているでしょう。つまりこれは、「中央による全体のヴィジョンや方向付けというものがなければ、数値や市場からの請求だけで国土が強靭になることはない」ということを一方で認めている事にもなるわけです。
 或いは、四月に可決した公共事業の品確法は、自由で開かれた素の競争入札によっての価格決定に致命的欠陥があることを示しているのですから、つまり何らかの政府による「統制」が人間社会にとって必要不可欠であることをも象徴的に示しています。
 また、「規制緩和の是非」というのは、政府による経済の「統制」がどの程度必要であるかというヴィジョンに左右される話です。規制緩和、規制緩和……と口やかましく罵る連中は、弱者をイジメようとしているというよりは、「政府による経済の統制など一切なくても市場は均衡するし、むしろ自生的に発展する」という純粋進化論的ヴィジョンがあるからこそそう言うわけです。そして、そのヴィジョンが間違っているのが最大の問題であることが分かられていなければならない。これが、人間に対する楽観とか反政府のキレイ事の偽善であるから、私は新自由主義が嫌いで嫌いでたまらないのです。

 私自身は、「首相批判」などというげにつまらない事をする気は起きません。また、イチ平民である自分に、そういうことをするケンリがあるとも思いません。
 しかし、こうした種類の肝の部分に触れた上で尚、安倍内閣を批判する論客であれば、それはきっと筋も狙いも整然としたものであるはずです。節度もあるでしょう。そしてそれが政府関係者や官僚や国会議員といった「立場ある者」によるものであれば何の文句もない……というより、豊潤な議論のために是非喚起されるべきであるとすら思います。

 ただ、小市民の多数が、単に大雑把に「安倍首相、新自由主義、弱いものイジメ」みたいな批判の流れを作るのは大反対です。これは単におセンチになっているに過ぎないのであって、新自由主義の批判すらも包括的になされていない事になってしまうからです。それではまた、再分配を基点とした自由と平等のシーソーゲームが繰り返されるだけでしょう?

 立場の無い私のような小市民は、首相批判なんぞより、政府による「計画」や「統制」についての話をもっとすべきなのです。また、「再分配」の話にしても、自由や平等などという眠たい観点ではなく、これが「正当」の話であることを認めてからはじめてもらわねば困ります。
 正当、計画、統制……こうした話のほうが、首相や内閣の批判ですとか自由とか民主主義などといった話よりも、断然面白いはずなのですよ。



(了)
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