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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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現代日本の開化、および没落 

 これは、前回の「自由放任と民主主義のジレンマ」の補論として書いたものが、書くにしたがって随分と深く掘り進め過ぎてしまった散文です。

 また、今回は少し難しい事を言うかもしれませんが、なるべく易しく書きますので、どうか一読くださればと存じます。


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表紙6


 まず、私は何も安倍首相の就任の時点で「日本がもうだめ」になったとか、そういう事をいっているのではないことを是非とも分かっていただきたいのです。
 日本がもうだめ……というのは、我々の天下が「近代=モダン」なるものを受け入れている以上、国家は必ず「没落」に向かっているという意味なのであります。


 近代=モダンというのは、元々「文化圏」ですとか「共同体」ですとか、そういった土着の歴史感覚を引き継いだ民(ネイション)が、道具(ステイツ)として使う分には、「進歩」をもたらしてくれます。
 何故なら、この世代の人々は、近代的な道具の諸々を使う『常識』というものを保持しているからです。
 しかし、世代を越えるにつれ、ステイツ(道具)の方がネイション(人)の原理原則を方向付けるようになってゆく。それは、共同体における常識を「保守」させることよりも、道具の発達による「進歩」が求められてしまうからです。
 そうなれば、「近代」は道具としての意味合いすらなくなってしまう。そして、常識(コモン・センス)を失った民々を救う手だては基本的にない……という意味で、「日本はもうだめ」なのです。
 これは、ほぼ運命的予定調和論と言って良いかもしれません。

 つまり分かりやすく言えば、我々は江戸時代まで我々の「天下」において「常識」を育んできた。ですから、明治以降、その常識に基づいて近代という道具を操ることができました。
 或いは、大東亜戦争まで、我々は何とか共同体の歴史や常識を保持しようという努力をしてきた。ですから、戦後の体制……つまり、日本国憲法という非常識な道具(ステイツ)であっても、歴史的に残された常識でもってそれを運用する事ができた。

 しかし、そうした中で、世代を越えるたび、元々道具であった「法」や「システム」や「科学」といったものが、常識の方に浸食してくる。


 たとえば、同じ「民主主義」という言葉ですら、現在の日本人が用いるそれと、五十年前の日本人が用いるそれでは、圧倒的に違う。
 民主主義という言葉を、「民に政治決定権がある」と捉える仕方は、戦後においてはタテマエだったのです。(尤も、当時の人々はタテマエだとか自覚して振る舞ってはいないでしょうけれど。)
 そもそも常識的に考えて、政治における民の具体的な意見など、政治決定に反映されたら大変な事になるでしょう?
 そんなこと、誰しもが分かっていたから、民主主義とは
「民の為の政治」とか
「国民が生活の中で育んだ常識を政治に反映させる」とか
「国民の道徳的判断を重んじる」とか
「民が、人柄をもって代表を選出する」
という事だと、本音では思っていた。
 つまり、世論ではなく、輿論。共同体の歴史という土台に乗った民の論を活かす……という姿勢を民主主義だと、皆思っていたのです。
 だから、戦中世代が引退するまでは、民主主義も市場経済もそこそこ上手く行っていた。

 でも、今言われている民主主義は、これとは違うでしょう?

 いわく、政治家や官僚が馬鹿だから、民の政治的意見を啓発して、高尚な世論を形成して、正しい政治を行うべし……といった調子でしょう。
 でも、本当に常識的に考えていただきたい。
「民の政治的意見を啓発して、高尚な世論を形成して、正しい政治を行う」
 なんて事が、(どのような方向であっても)できるわけないじゃないですか。何故、この事を誰も口にしないで、綺麗事ばかり述べ立てるのか。


 ですから、たとえば「自由放任の経済体制が問題である」と言うことを国民一般に広く政策的知性として啓蒙したとしても、絶対に上手く行くはずはないんです。
 何故なら、そもそもそうした政策知性を一般に共有しようとすること自体空理空論甚だしいし、そうした政策知性を用いる共同体の常識の方が既に失われているからです。

 また、もし「自由放任の経済体制が問題である」という政策知性が世間一般に広まったとしても、世間一般に広がるという時点でそれは致命的に単純化されているはずでありますから、そうした世論に従属した政策論も必ず致命的に単純化されたものになります。
 これは、反民主党が単純化されれば自由放任となり、反小泉が単純化されれば民主党になるといった手合いの出来事によく現れているでしょう。

 そうした政権へのアンチ、またはアンチのアンチ、といった指向から、何ら有意義なものが生まれなかったのは、それがつまりは道具(ステイツ)の問題だからです。
 そもそも、道具を使う母胎であるところのネイション(共同体の網の目)が損なわれているのが問題なのに、いくら道具としてのステイツを改善しようとしても空回りするのは必定でしょう。

 このことが分かられた上で、安倍首相がどうとか、政策がどうとかといった話がされているのであれば、私は文句を言いません。道具の議論も必要は必要なのですから。ただ、それはネイションをステイツに活かす為の、プラグマティックな実践として議論される限りにおいて価値づけられるものです。

 逆に、有機的な共同体や文化圏を強靱化せねばならぬという問題意識なしに、いくら首相や政権や政策について緻密に議論しても、それは目的なき方法であり、プラグマティックにならんでしょう。



 尤も、日本のネイション……歴史的、有機的な共同体や文化圏を取り戻すというのは、ほとんど不可能なことです。一度失われた共同体は、覆水盆に返らず、あとの祭りなのです。
 また、先ほども申した通り、それは近代を受け入れざるをえなかったという時点で、没落の運命的予定調和に陥っていると認めざるをえない。

 私の言う「日本はもうだめ」とはこの事です。

 しかし、没落が運命的予定調和である事を自覚した上で、「運命を拒否する」という立場はとりえるのであります。それは、意志の問題なのです。
 逆説的に言えば、没落の運命を自覚し、それを拒否する意志を持った者が一人もいなくなった時、日本は滅びた事になるのでしょう。
 また、そうした自覚と意志を携えた者がたとえ少数でもいる限り、運命はバタフライ効果的に変わるはずです。そして、この事だけが私の信じられる唯一の事なのであります。



 今回は、だいぶ抽象的な事を言っていると思われた方も多いかもしれませんが、抽象的だからといって「あやふや」なものだと思ってもらっては困ります。これは抽象的ではあるけれど、確かな事なのです。



(了)
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