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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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漫画やアニメは日本道徳の精神を現しているのか? 

 この記事は、前回の問題意識から一部を引き継いで書いたものですが、ここから読んでも大丈夫なように書いています。
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表紙7


 昨今、保守派を称する言論人が、

「漫画やアニメをご覧なさい。日本の道徳的精神は脈々と若者に伝わっていることが分かるはずだ。そして、これは世界中に受け入れられているのだから、日本の道徳精神は世界のスタンダードとなりうるのだ」

 といった種類の事をのたまうことがありますが、これは嘘です。


 実際、この類の「若者への媚び」ほど気持ちの悪いものはありません。いや、別に漫画だから、アニメだからといってこれを軽視するような狭量な姿勢で言っているのではないのです。

 そもそも「大衆娯楽」というものが提示する道徳観念は、ほとんどが至極薄っぺらで、大量の人々に受け入れられる、都合の良い種類のものです。これは、漫画やアニメに限らず、映画にせよ、小説にせよ、です。
 たとえば、百本の映画を無作為に抽出したとして、その内の何本が見られる質のものでありましょうか。さらに、そこで「日本の道徳的精神」などという日本の内ですら千差万別で、複雑で、繊細なものを、仮に断片でも描写する事に成功した作品など、どれほどありますでしょうか。

 勿論、そうした「優れた作品」の存在する事を知らぬわけではありません。人の心にある世界観を豊かにするような名作の価値は、貴賤や媒体に限らず絶対であると認めます。

 が、しょうもない筋の物が大量に消費される場合の方が圧倒的に多い、というのが「大衆娯楽」の本質なのであります。何せ大衆は、大量に消費されていると喧伝されているものであれば、光っているだけのハリウッド映画、韓流ドラマやKpopにでさえ飛びつくのです。
 それは、自分の身の回りの小さな社会が、既に大量に消費されているものを消費する事を前提して回っているから、自分もそのように消費し、そのように感動したような気になっているだけだからです。
 こんなものを、私人の感動や共同体の精神と捉え違える仕方には、本当に我慢がならない。


 穿った見方ですが、「漫画やアニメをご覧なさい」などと媚びを売る年長の保守派は、「若者のネット右翼には漫画好き、アニメ好きが多いようだから、媚びを売っておけば彼らからの人気を獲得できるかもしれない」という下心を持って言っているだけなんじゃあないでしょうか。
 もし、真に何らかの作品に感動したというのであれば、作品を批評をする精神が出てくるはずです。少なくともその類の事を言う輩がこれだけいるのだから、具体的に作品論でもやりたくなる者がでてこなければおかしいのですよ。


 まあ、保守言論人の媚びを糾弾するというのは実際どうでも良いことで、ここで私が言いたいのは、「大衆なるものの性質」と「国民なるものの性質」が、混合されてしまっているという危惧のことであります。
 つまり、人々が「日本の精神」と言っているモノは、本当に日本の精神なのか。単なる、「大衆の予定調和」を「和の精神」と捉え違えて楽観しているだけではないのか。そういう強い疑念を、私は抱くのです。


 たとえば、若者でも日本の自然や社や寺院を美しいと言う者はいますが、それは外人が感じるように美しいと思っているに過ぎないのかもしれない。私は、そこにあったはずの信仰や儀礼や土地の神秘性を文献等で知るに過ぎず、具体的な生活と関連づけて感じることはできないのです。自分の心で共有する事ができない。これでは、日本好きの外人とどう違うのか分からない。

 果たして、私は日本人なのでしょうか?

 両親は日本人で、日本で生まれ、日本国籍を持ってはいるが、ひょっとしたら外人なのではないか。
 これは恐ろしい事です。
 もし、私が外人なのだとしたら、私はまるっきりの「自由」ではありませんか。何処へ行くのも自由ですから何処にも行くところがなく、何をするのも自由ですから何をする価値もない。

 私は、私の自由を制限してくれる、確かなる土台が欲しいのです。つまり、私の心の中にも微かにあるかもしれない、ほんとうの日本とか、ほんとうの故郷とか、そういう正統なるものに縛られたいのです。
 そうでなければ、私は外人として、大衆として、めまぐるしく移る流行の波に溺れる地獄を味わい続けなければならないではありませんか。
 ですから、この地獄を地獄と認めず、「日本だ」と虚飾する態度には本当に我慢がならない。それは「蝶だ」と言って蛾を提示されたがごとく話ですから。


 我々は、圧倒的に失っているのです。
 ただ、「大衆としての日本」を礼賛しているから、日本人の中の日本が消え失せている事に気づかないだけなのです。

 もし、そうであれば、「国民の輿論」はことごとく「大衆の世論」といったシロモノに履き違えられ、「国民の生活」は「大衆の欲望」に履き違えられるでしょう。平民の「政府に対する請求」が政治決定権を握り、それは流行によって自由放任にも弱者救済にも振れるでしょう。


 我々がすべき最初の事は、「大衆の性質」を「日本の精神」と取り違える事を恐れる……という事なのではないでしょうか。



(了)



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