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日本が日本であるために

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西部邁からーー経済論における帰納と演繹 

 まったく、私の意見というものは、いくら心血を注いで書こうと所詮は何の背景もない若造の戯言ですから、便所の落書きに毛の生えた程度のものなのでしょう。その事に文句はなく、むしろ世の中が正常であることに胸を撫で下ろすというもの。

 が、今回の事は私が考え出したことではなく、西部邁氏が随所で書きつづけているエッセンスの一つで、それを私なりに要約したものです。
 ですから、その分だけ信用していただけるに違いないと思っています。

 実を言えば、私の記事はそういうのの複合が多いのですが、「この部分を誰々のエッセンスを用いて、あそこの部分を云々」と一々体系立てるのは至難の業だし、ほとんど記憶している事しか用いないから、引用というものが苦手なのです。(でも、題名とか、言葉とか、そういう所に文献のパロディを入れたりしているのですが、もし、こういった事に気づいてくれている人がいたならば嬉しいです。)

 とは言え、今日は西部邁氏のエッセンスの一つでお気に入りなものを、自分の言葉で変換して纏めただけだという事を白状しておきます。


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表紙8


 経済学に限らず、社会科学の領域では、「仮説ーー演繹」という営みか、「事実ーー帰納」という営みの、どちらかを方法論として採択しています。
 これはどちらが良くて、どちらが悪い、という種類の話ではありません。不完全なる人間が、かくも膨大で複雑なる「経済」なるものを捉えようとした場合、この二通りの切り取り方でその深淵を垣間見ることくらいしか出来ない、ということなのであります。



 仮説ーー演繹の営みは、仮説を立て、前提というものをモデル化した上で、「その前提の上では必ずこうなる」という事を理論化する仕方です。
 この方法論は、演繹という特徴からして、確かに「普遍性」があるでしょう。しかし、仮説の上で、前提をモデル化(単純化)しているから、しばしば現実と食い違う事があります。
 また、この演繹が人の仮説から始まっている以上、何らかのイデオロギーの介入は不可避的であるとも言える。


 事実ーー帰納の営みは、実際に社会経済の上で起こった事を観察し、その因果を模索する仕方です。この方法論では、帰納という性質上、現実と食い違う事はありません。
 しかし、経済を事実として観察し、帰納的に理論化するというのは、極めて普遍性に欠く方法であります。まず、「膨大なる経済からどの事実を選び取るか」という問題があります。そこにイデオロギーが入り込む余地があるでしょう。
 また、ウィットゲンシュタインのパラドックスーーつまり、「一つの事実に対する法則立てが無限に存在可能である以上、事実を法則立てることは不可能」という問題がある。特に、自然科学ではない、社会科学の領域において、それはより深刻なものと考えられなければなりません。


 西部氏は、この「帰納」と「演繹」を、あるいはロゴスとミュートスと言いかえたりもします。
 そして、この「事実ーー帰納」と「仮説ーー演繹」において双方の均衡を模索する態度を持たねば、人間の経済活動を包括的に捉える事は出来ないという事を口を酸っぱくして説いているわけです。



 私は、こういうほんとうの事を言ってくれる年長者が存在すると、実に安定した心持ちになります。

 しかし、私は単にイチ西部邁ファンとして西部邁思想を紹介するためにこの事を持ち出したのではないのです。
 では何のために持ち出したかと言うと、この事を前提に「藤井聡教授V.S.リフレ派」の構造を分析できないかと思って提示したのです。


 ただ、今日はもう遅いので、それは明日やってみます。



(了)
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