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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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プレ・「藤井教授V.S.リフレ派」分析――もう少し確認しておくべき前提 

 前回の事を補足しつつ、「藤井教授V.S.リフレ派」の分析に取りかかる前に確認しておくべき事をもう少し。
 なかなか具体的な所にたどり着きませんで恐縮ですが、どうかお付き合いくださればと存じます。
 また、この主題は本当に思い入れがあって、丁寧にやりたいので、想像以上に長くなるかもしれません。回を幾度も重ねると思いますから、間に他のテーマを論じる回が挟まって、飛び飛びになるかもしれません。
 ですが、ご関心のございます方は、どうかこの主題の回を追っていっていただければ嬉しいです。


 リフレが好き……という方には無理にとはいいませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。




朝顔


 「仮説――演繹」と「事実――帰納」の営みは、経済を捉えるのに双方不完全さを持ち合わせています。しかし、そもそも人間そのものが不完全であるから、帰納と演繹を越えた超越的な経済分析などというものが人間に可能なはずもありません。
 ならば、せめて経済を包括的に捉える為に必要なのは、演繹と帰納の均衡だという事になってくる。前回展開したのはここまでだったはずです。
 しかし、帰納と演繹の方法を「均衡させる」という営みにも、また、そこには「思想」が入り込むはずでしょう。

 「思想」は、イデオロギー、パラダイムと言い換えても良いです。

 そう。経済を論じる以上、パラダイムからは逃れ得ないのであります。が、少なくともその事を自覚し、常に自分自身の方法論者であらなければ、経済を論じるという意味すらあやふやになってきます。
 それでも、その人のパラダイムと方法論とに関係性を構築できれば、そこにスタイルやフォームが確立されるのであって、「仮説ーー演繹」と「事実ーー帰納」の均衡に整合のようなものがとれる……かもしれない。その可能性の限りにおいて、経済論は単なる「お洒落」に堕するを回避できる。
 経済論というのはそういった綱渡り的危うさを抱いているのです。


 もっとも、私は経済学者ではないし、経済学部にいた事もありませんから、自分の経済理論を打ち立てようなどとは思わないし、その能力もありません。
 今やろうとしているのは、「藤井聡教授V.S.リフレ派」の分析です。
 そして、その分析においても、分析をするのが「私」である以上、パラダイムの自覚と方法論との関係においてスタイルを形作らねばならない。



 そのスタイルを提示する為にも、まず、私が何故「藤井聡教授V.S.リフレ派」という具体的な「対立」に焦点を当てようとするのかを確認しておきます。というのも、経済論が「パラダイムと方法論の整合」であり、「帰納と演繹の均衡」だというのなら、それぞれのそれらを直接論じれば良いではないか、と思われる方もきっとおられるはずと思うからです。つまり、いたずらに対立など論ぜず、良いと思う側のナマの思想を提示すれば事足りるのではないか、と。

 しかし、おおむね「パラダイム」とは、高度に抽象化された観念の段階では霞をつかむようなモノです。それは、人が具体的な状況に対してどう具体的に振る舞うかという段に至ってはじめて発揮されるものでしょう。

 つまり、抽象を詳らかにする為にも具体が必要であり、具体を捉える為にも抽象が必要となるということ。
 それは、花の「美しさ」というものはなく、美しい花があるだけだ……というのと同じように、人の言動の「正しさ」などというものはなく、正しい人があるだけだからです。
 いや、これはかなり難しい事かもしれませんから、私の筆力不足でうまく伝えられていないかもしれません。別な言い方をすれば、我々が経験している世界では、人の思想、言動、事象は不可分に「ただある」ということ。それでもそうやって言葉によって「分かられて」いるのは『解釈』の為で、(そして解釈はとても重要なことではあるけれど)ほんとうは不可分にあるはずなのです。その事が分かられていないと、思想は思想、言動は言動、事象は事象で別々に論理が完結すると錯覚してしまうことがあります。

 しかし一方で、私が今していることは、世界を文字として『解釈』していることであるから、「思想、言動、事象」をいっぺんに表現する事はできません。それは、世界のあらゆる事を直接に経験する事ができないのと同時に、提示することもできないという、人間の文才の限界についてのささやかな確認です。
 それでも、人間の文才の臨界点に挑戦するためには、思想、言動、事象をそれぞれに分けて論じつつも、それらの糸をさながら綿糸のように織り込み、関連付けて、世界を出来るだけ包括的に論じようとする態度が必要なのであります。

 今回確認したのはつまりこうです。
 ここで私が、「藤井聡教授V.S.リフレ派」を論じようとして、「藤井教授の考えはこうで、リフレ派の考えはこうである」という風に展開しようとすると、それは私の中にもあるであろうパラダイムなり世界観なり知識なりを前提とした論になる。
 その事自体からは逃れられないのでありますが、それら前提をできるだけ自覚して、提示しつつ論じなければならない。また、私の文章に一人でも読み手というものが存在するならば、そのことを白状しておかねばならない。


 ほとんど私自信に言い聞かせるような話でしたが、この態度を私が確認しているという事を提示しておくのは、繊細な論を展開する為に必要な事なのだと思います。



(つづく)
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