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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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我々の、共通の事業といふこと 

 とどのつまり、私がリフレ派を嫌うのは、彼らが常に「大衆の代弁者」であるからです。そもそも私は、リフレ派そのものが嫌いなのではなく、大衆が嫌いなのでありました。
 そして、リフレ派は、「大衆の選好」の都合に沿う……という事を大前提として経済政策を論じるから、これが『欺瞞』であり、『害悪』であるので「黙れ」と申し上げているだけなのであります。

 対して、私が藤井教授とその「国土強靱化」を良いと思うのは、それが『共通の事業』の提示だからです。



 リフレが好きでたまらない……という方には無理にとはいいませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。




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 大衆は、おおよそ「共通の事業」という『感覚』を理解しません。
 いや、共通の事業という感覚を理解しない者達が「一般人であることのケンリ」を請求する現象を『大衆』と呼ぶのであって、別に「教養と財産の無い者」を大衆と呼ぶのではありません。教養と財産の無い者でも、「自分の仕事や、生活の中で得た常識」でもって、大衆の予定調和から距離を取ろうとする者は「賢者」であり、また、そういった人々は概ね沈黙を良しとするもの。

 ただ、「教養と財産のある者」は、家柄の良い場合が多く、家柄の良い者は「共通の事業」を解す者が比較的多いという事は言えるでしょう。「共通の事業」においては、方向を指し示す意志を持った高貴なる階級が必要であり、家柄よろしき人々は生まれもってそうした義務を強制的に課されてきたのです。あるいは、「自分にはそうした義務が強制的に課されているのだ」という自負のある者の家が、よろしき家柄と呼ばれるようになるのか。いずれにせよ、「良識ある人は貴族を好む(キケロ)」のです。

 また、いくら財産があろうと、しょせん下賤な出自の成金には、「共通の事業」といった高貴なる感覚は芽生えない事が多いものです。勿論、十把一絡げにはできませんが、ふつう、成金にろくな奴はいない。
 もともと、資産家は三代もってこそようやく世間に『良家』と認められたものらしいです。このような社会的偏見はまったくもって正統で、未だ金を儲けただけという成金に大した発言権など与えられて良いはずがないのです。されど、この成金の言葉をありがたがるのが現代の日本人の習俗であるから、(私を含め)もはや日本人は日本社会の常識を失ってしまったのでしょう。


 ところで、最も力強く、正統なる「共通の事業」とは何でしょう。
 それは、陛下の歴史的権威の下にある中央政府による「公的支出」であります。
 その意味で、「議会」「行政府・省庁」「軍事」「公共投資」「社会保障」などなどの予算は、すべて「日本共通の事業」なのです。ほんとうにこの事を分かっていれば、「日本共通の事業」はすべて『強靱』であらねばならぬはず。

 しかし、リフレ派……だけでなく、大衆迎合がほとんど無自覚的に思考回路へ組み込まれている経済論者、政治評論家は、これを個々人の『効用』にまで還元させようとします。(要素還元主義)
 そして、個々人の効用にまで還元できない政府予算を「無駄」と断じるわけです。そこには、個々人へ数的に還元できない『国家共有の効用』というものは想定されていません。

 例えば、「チャイナの脅威によって軍事安全保障に対する理解が得られるようになった」と人はいいますが、大衆にとっての自衛隊とは「税金を納めている自分たちの生命と財産を外国から守る用心棒」というくらいなものでしょう。「再び国家の独立を勝ち取ろう」という『日本共通の事業』など、誰も抱いていない。ましてや、「アメリカが滅びるまで、我々は意地でも滅びない」とか、そういう『国家共有の目標』を抱く高貴なる者などほぼ皆無でありましょう。

 つまり、大衆にとっては、軍隊でさえも「個々人へ数的に還元できない」のであれば「無駄」ということになっている。
 いやこれでは語弊がある。言い方を変えます。
 大衆は、「個々人へ数的に還元できる範囲(生命と財産の保全)においてのみ、軍隊へ金をかける用意がある」と……実はこう思っているわけでしょう!


 さて、ここでリフレ派を例にとりましょう。
 確かに、彼らは「公共事業を否定しているわけではない」とは言う。しかし、それは、国民の個々人へ、具体的に「効用」をもたらす支出の場合においては……と言うのです。
 つまり、政府支出は国民の税金(経済活動)によって賄われるわけだから、その納税者たる国民の効用とならねばならない、というわけです。

 勿論、もし、この意味を広義に取るなら、私とて反対ではありません。
 広義に取るというのは、その『効用』が人間によっては決して基数化できない事を認めたうえで、「現在、過去、未来における全ての国民の効用とならねばならない」という意味で言うのであれば……という事。

 そう、リフレ派の経済論における最も卑怯なところは、「公共事業」においては、「その『効用』を基数化できる」という前提を、密かに織り交ぜている所なのです。
 そして、彼らは、基数化できない公共事業による効用の領域を「無駄」とし、基数化できる公共事業による効用の領域だけは「否定していない」というだけなのであります。

 さらに卑怯なのは、公共事業については「コスト&ベネフィット」で、その効用を計算によって導きだそうとするくせに、民間消費、民間投資については、「市場価格=効用」という前提が、あたかも経済論の前提であるがごとくのたまう態度であります!

 そもそも、市場価格=効用なのだとしたら、何故、「効用関数の無差別曲線」などといって、わざわざ効用を相対化する必要があったでしょうか。そりゃあ、簿記では「資産の増加」を市場価格で借方に記入しますが、それは経済学の前提ですら決してないはずです。

 この事の最も問題なのは、「市場価格=効用」の前提を取り、「公共投資による効用を計算する」となると、それは必然的に「公共投資は、市場価格として立ち現れる領域についてのみ、効用として基数化される」という前提に立つ事となります。

 さすれば、実にスマートな公共投資で結構……という事になるでしょうよ。ある一定方向(市場価格を基準とした効用)から見れば、政府はおおよそ単純な仕事をしていれば良いという風に見えるのですから。

 しかし、単純な政府というのは、精一杯悪く言わないとしても根本的に欠陥があるものです。もしも、たった一つの観点だけから社会を観想するのであれば、こうした単純な政府はすべて限りなく魅惑的でしょう。ですが、気に入った部分に対してだけ過度に注意が払われ、他の部分が全く無視されてしまうよりは、不完全で凹凸はあっても全体にわたって手が打たれる方が望ましいのです。(※バーク)


 この、「市場価格=効用」の前提は、とどのつまり『大衆の選好』を社会の最終価値としておく論理の仕方であります。
 そもそも、市場価格は市場価格というだけで、市場価格としての「意味合い」があるはずです。しかし、そこへさらに「市場価格=効用」という形で価値を付与しようとするのは、大衆の選好に対する媚び以外の何モノでもありません。
 そして、大衆への媚びから政府の支出を制限しようとする傾きを、巧妙に隠蔽しつつ提示するのがリフレ派であるから、卑怯だと申し上げているのです。


 そもそも政府の支出とは、大衆に媚びたり迎合したりしてするものではありません。
 政府が、政治的に「共通の事業」としてやるべきと思った事を全てやればいいのです。
 むしろ、何故、政府の提示した「共通の事業」を『正統』なるものと見なそうとしないのか? わざわざコスト&ベネフィットとして効用を基数化せねば気が済まないのか?

 国家共通の事業……このことが、日本列島にいる人間を『大衆』ではない『国民』へと統合せしめる唯一の方策なのです。そう、国の事業が民をファッショ(束ねる)するのです。
 ですから、アベノミクスにおける国土強靱化とは、『大衆』に対する呼びかけでもあった。大衆などというツマらんものでいるより、日本国民として共通の事業を思い描く方がよっぽど楽しいはずだ、というような。

 しかし、多くの日本人は、「国家共通の事業の活力と循環による正統な配分」よりも、「日銀が金を刷って、それが自分の給料へ回ってくる」という論理の方を好んだのです。その後、その論理の延長線上で弱者イジメの経済政策が行われても「自業自得」と言うほかありません。



(了)
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