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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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関岡英之先生と産経新聞、および言論について 

 先日、私の拙稿日本国憲法の諸問題を掲載いただいたASREADという言論サイトにて、関岡英之先生が次のような記事を執筆されておりましたので、ご紹介申し上げます。

「移民問題トークライブ」に関わる産経新聞本社の不可解な対応をすべて暴露
http://asread.info/archives/932


 この件に絡め、今日は「表現における大衆からの自由」について。

 新聞、テレビ、大衆メディアが大好き……という方には無理にとはいいませんが、そうでもないという方はどうかランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。




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 関岡先生の件におきましては、まず何よりも産経新聞の編集に真が無いということに尽きると思います。これをやられたら言論人はたまらないのであって、氏の胸中は察するにあまりあるというもの。

 ただ、情報を『大衆』へ大量に販売せしめて利潤とす、という産業ーーつまり、マスコミ産業ーーがすることですので、振る舞いに下賤な所があって当たり前だ、ということも一つ考えておかねばなりません。これは別に、「当たり前だから仕方がない」と言っているのではなくて、「大衆報道産業なるものが正しくなることは永遠にない」という当たり前のことについてのささやかな確認です。
 またこれは、このことをもって「産経新聞までもが、中国共産党の手先と化したのか!」というような一途だが筋肉質で単細胞な議論に堕する事への避雷針でもあります。

 つまり、いくら「保守っぽい」ことを言っていても、産経新聞とはしょせん大衆新聞なのです。

 大衆新聞であるから、『大衆理論』から逸脱したものを書くのを避ける。これは殆ど大衆新聞の習性とすら呼べるもので、つまり彼らの『表現の自由』は、「大衆と利潤」に制限されているということ。

 結論を申せば、『正論』の存在や「移民問題トークライブ」の内容は、「大衆理論」に適合していなかったからこそ、大衆新聞によって大衆理論に適合する形へ歪曲されてしまったのだ……と考えるべきだということです。



 もっとも、正直に申しますと、私は、主催者の『正論』の論調や「移民問題トークライブ」の内容全てに、頭っから論を同じうする者ではありません。(移民についての論考についてはまた後日書きます)
 しかし、大衆理論に屈しないこうした言論は、人に物事を考えさせる一つの切っ掛けに成り得るはず。この場合、移民というものが、人や人の集団にとってどのような事か……ということを想像しはじめる切っ掛けになったはずです。
(特に関岡先生はそうした事を意識しつつ、あえて分かりやすく反日国家からの戦略的移民に焦点を絞って論を展開されたのでしょう。それも、あのように歪曲されてしまっては台無しです)

 私は『表現の自由』という言葉が大嫌いですが、そうした意味では表現は自由であるべきなのです。つまり、表現、言論は、「大衆(および利潤)」から独立していなければいけない、という意味で。

 勿論、「表現の自由」は、金科玉条の価値として崇められるべきものではありません。というのも、いかなる表現も『正統なるタブー』は侵してはならないからです。
 分かりやすく単純に言えば、「皇室タブー」を侵す表現の自由などあってはならんでしょう。皇室タブーだけではなく、国家、社会、共同体には「タブー」があり、中には「正統なるタブー」が存在するのであるから、これを侵す「表現の自由のケンリ」など、何人たりとてありません。

 ただ、表現および言論は、「大衆(多数者)」からは自由であるべきなのです。何故なら、大衆、多数者の雰囲気をそのままで大量に代弁し、流布する言論は、国家、社会に害悪以外の何物ももたらさないからであります。

 マスコミは「表現の自由」を副将軍の印籠がごとく掲げはするけれども、実の所、彼らの表現の自由は『大衆』に雁字搦めに制限されているではありませんか。
 民営報道は、少数派ーーつまり異端言論を歪曲せずに報道してはじめて人に考える切っ掛けを与えます。彼らは、この一時においてのみ天下国家に貢献しうるのであって、単に「これがありました」「あれがありました」という事を大衆目線でしらしめるだけであれば、大衆向け報道機関はすべて官営にしてしまえばよろしい。

 そう、産経新聞を含め、寡占的巨大マスコミ……大量の情報を大量の人間へ報道する巨大な機関というものが、民間の手にあること自体、不健全なのです。何故なら、大量の人間へ向けて報道し利潤とするのであれば、言論が大衆から強い不自由を受けないわけにはいかなくなるからです。

 メディアの寡占化は政府によって『規制』されて然るべき領域でしょう。そもそも、民営報道機関がある程度の規模以上に成長し、報道市場を席巻する事は規制されなければならなかったのです。

 こうしたことを言うと、「表現の自由の侵害だ!」とのたまう輩もおられるでしょうが、そうではありません。民営大規模メディアを規制によって廃止すれば、メディアは『大衆』から解放されるではありませんか。つまり、中、小規模メディアとして。

 言論を大衆の従属下に置かない為……もっと言えば、言論を大衆から保護する為、民営報道機関の規模には制限がつけられて然るべきではないでしょうか。「表現の自由」における最大の敵は、政府ではなく大衆なのですから。



(了)

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# |  | 2014/07/14 13:12 [edit]

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