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父子DNA鑑定訴訟について 

 デフレと賃金についての話の途中でしたが、気にくわないニュースがあったので予定を変更します。
 気にくわないニュースとは、父子DNA鑑定訴訟についてであります。

 最高裁の父子DNA鑑定判決にどうしても賛成だ……という方には無理にとは申しませんが、そうではない方はランキングにご協力ください。お忘れにならぬよう、押してから読んでいただけると嬉しいです。





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 父子DNA鑑定訴訟というのは、つまりこういうことです。

 ある夫妻がいて、その婦人が妊娠したとする。
 この時、そのお腹の子は「妊娠時点で夫だった男」の子だとすることを『嫡出推定』と言います。
 しかし、後からDNA鑑定で、その子が夫の子でないと分かった。つまり、婦人がよそでこさえて来ちまった子だと判明したわけです。
 この度の最高裁での判決ですと、それでも嫡出推定が優先されるという話になってしまいました。
 つまり、夫は、「妻がよその子種で孕んできた子供」を、養育する義務が生じるというわけです。


 勿論、そもそもの嫡出推定そのものは、頷かざるをえない部分もある。
 つまり、まず『一家』があり、この時婦人が妊娠したならばその『家』の子だ、という考えにおいて。
 そもそも父は生物的特性上(お腹を痛めないという意味で)、おおよそ子を「子」だと推定しているに過ぎませんから、そのあたりは妻を信用する事にする他ありません。その前提の上で、ある家の中で妻が身籠もれば、それは夫の子であると考える……というのは基本的に常識でしょう。こう考えないというのは、「この子は俺の子じゃあないはずだ」と父親が主張すれば、簡単に子供は追ん出されてしまうという事になります。そして、男というのは確かにそういう疑念を抱きがちなしょうもない生き物であるらしい。

 しかし、そういった考えは、女子に『姦通罪』があった事とセットだったはずです。
 つまり、『嫡出推定』と『姦通罪』の倫理観はセットなのです。
 そのことを無視して、『姦通罪』が女性蔑視であるといったような話が、まずをもって私にはよく理解ができない。



 まあ、百歩譲って、嫡出推定があって姦通罪のない事を認めたとしましょう。(私とて、今さら姦通罪の復活を主張しようとも思いませんし。)

 それでも、だからと言って、「妻がよそでこさえて来た子であっても、子供のケンリを保護する為に、彼の生まれた時に母の夫だった男が父である」という風に捉えるのは、あまりに拡大解釈というもの。
 そもそも『嫡出推定』は、「一家の妻は、よその子を孕んできたりしないだろう」という信用を前提としている事を、忘れてもらっては困る。
 別に、「誰の子であっても、子供が子供として生まれてきたそのケンリを保証する為」にあったわけではないのです。
 強いて言えば、「その夫婦の子供であると『推定』される子が、よその子だと疑われないようにする為」くらいのものだったはずです。

 そして、だからこそ嫡出『推定』なのです。何を推定しているかと言えば、「夫と妻の子である」という事を推定しているのであって、そうでなければ一体何を推定しているというのでしょうか?
 つまり、これが水掛け論になりうる状況下においてはじめて、推定は推定の意味を成すのです。
 DNA鑑定は百パーセントではないとは言えど、明らかにこの「推定」が覆される場合では、「推定」は不可能でしょう。言葉の論理的として当然の事です。



 とは言えど人間ですから、時にはそういった腹に重たい事情の諸々が起こる事もあるでしょう。誰もが規範や道徳に従順ではないし、どうしようもない状況がある場合だってあるかもしれない。

 その上で、もし、後よりその子に父の血が流れていないことが判明した場合は、それはもう基本的に、『家』の問題として内々に解決してもらわなければ困ります。(事実、『調停』などの手段で解決している場合の方が多いのです)
 また、どうしてもそれが無理で裁判にならざるをえない場合は、裁判官がめいめいの各種各様複雑な事情を勘案し、別個に判断する……という事で何が問題なのでしょう?

 最高裁は、こうした事に対する判決に、具体的かつ一般的な意味を付与しようとしすぎではないでしょうか? 
 昨年の、婚外子相続の問題もそうです。
 いわゆる『天賦人権』を保護するという名目のために、法律が基準を示すべきではないごく具体的な場合についても基準を設定しようとしすぎなのです。

 要は、法律や判例として予め規定されて良い領域には限りがあるということ。裏を返すと、そうした領域があるからこそ「裁判官」が必要なのであって、予めの法律が全ての具体的状況を網羅しうるのであれば、裁判官はパソコンで良いということになってしまいます。予めの法律というのは、抽象的であってよいのです。


 ところで、最も分かりやすい天賦人権とは、「罪のない子供」というやつでしょう。そりゃあ子供は慈しまれるべきものでしょうが、子供とは『王様』とか『神様』なのですか? ただ生まれてきたというだけで、何故も全ての基準を「子供のケンリ」とやらに合わせねばならぬのでしょう。しかも、そんな虚飾のケンリは、子供をすら何人も救わないはずなのです。

 我々は、「男と女」という厄介な天然の性質を、『家』という偏見の体系でもって制御してきたわけであります。
 その歴史的英知を、『天賦の人権』などというさっぱりワケの分からんモノサシで裁断すれば、ワケの分からん事になるのは当たり前でしょう。



(了)
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