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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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暴力と文明、および英雄像について 

 今回は最近学んだ事を元として考えた事を一挙にまとめたものですから、少々長くなってしまいました。
 また、これは暴力と文明、そして青少年の描く英雄像について論じたもので、私の手に余る主題かとは存知ますが、どうかご一読くだされば幸いです。

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【ごく私的経験談】

 私の小学生の頃。
 同級生らと喧嘩になったりしたとき、学校の先生達によくこんな風に叱られたのを記憶しています。

「お前が先に手を出したんだから、お前が悪い」
 あるいは、
「暴力を振るったから、お前が悪い」
 と。

 何回かそういう風に叱られて、私は酷く反発したことがあります。
 私としては、子供ながらに暴力を振るう正当な理由があると思って暴力を振るうわけです。勿論、喧嘩は頭に血が上っているわけですから、客観的に見て正当かどうかは非常に疑わしいのですが、それは別にどうでも良い事でしょう。

 何故なら、例えばもし先生が、
「お前はそれを正当だと思っているようだけど、ぜんぜん理屈になってねえよ。お前が悪い」
 とか、
「手を出すにはまだ早い。もう少し辛抱せんか」
 という風に言ってくれていたら別に良かったわけです。

 つまり、私が反発したのは「お前が悪い」の部分ではなく、
「暴力を振るったから、悪い」
「先に手を出したから、悪い」
 という部分についてなのです。

 もっと言うと、子供というのは世界に存在して間もない存在ですから、自分の経験するこの世界がどのような基準で回っているかについて常に知ろうとして生きているものです。
 そして、もしもこの世界が「暴力を振るったから、悪い」とか「先に手を出したから、悪い」などという基準で回っているのだとしたら、私はこの世界に絶望するしかない。
 だから、これを認めるわけにはいかなかったし、謝りもしませんでした。

(※勿論、上で言ったことはある程度大きくなってからした自己反省ですから、少し過去の自分がもっと過去の自分についてした一つの解釈というものに過ぎません。子供はいちいちそんなことを思考(言語化)して行動しませんので)




【子殺しの構造】

 私の敬愛する先生の言葉を借りれば、これこそ「子殺し」の構造であると私は思うのです。
 つまり、これを言われたら子供の生が封殺されてしまう……そんな種類の言説であるという意味で。
 私からすれば、「暴力を振るったから、悪い」という理屈は、暴力以上に暴力だったのであります。

 ただ、誤解してほしくないのは、私は「子供には、子殺しされないケンリがある」などと思ってはいないという事です。
 というか、大人は子供を殺すケンリがあります。
 しかし、子供にも大人を殺すケンリがあるのです。
 だから、私は私世代から見た大人を殺しにかかっているというだけのこと。




【暴力と性欲、および高尚さ】

 そもそも、暴力の渇望は、性的な渇望に非常に似た所がある。これを踏まえるに、暴力が暴力である時点で否定をする事は、性欲が性欲である時点で否定をするのと同じ種類の事です。換言すると(卑猥な言いようで申しわけありませんが)、牙を抜くというのと、玉を抜くというのは、同工異曲の事なのです。

 私は、「性欲がなければ、人類はいなくなってしまうではないか」という開き直りが大嫌いですが、まあこれにも一理を認めざるをえないとするなら、「暴力がなければ、人間は人間でなくなってしまうではないか」という開き直りが何故されないのか不思議でたまらないのです。

 もっとも、単に性欲を垂れ流す者が『野蛮人』であるのと同様、単に暴力の渇望を垂れ流すだけの者も『野蛮人』だとも言うべきでしょう。
 ただ、性欲に関して言えば、その厄介なる人間天然の性質を、儀式や道徳で『高尚化』しようとするのもまた人間なわけです。その高尚化への意志のあるなしが、野蛮人と非・野蛮人の違いだと言う他ない。
 それと同様、暴力に関しても、『高尚な暴力』への意志のある者こそ文明人であると、とりあえずは考えてみることができます。

 高尚な暴力への意志を持つもの……とは、抽象的に言えば、日本で言う武士とか西洋で言う騎士・貴族の事だと考えてもらってよいでしょう。
 武士や騎士の根本は暴力です。人殺しの専門家です。
 しかし、暴力が暴力として単独にあるだけならば何物をも残しません。彼らの暴力がこれを『大儀』と一体化させようという営みの中にあったからこそ統治や文明が形づくられたのであり、つまり『高尚な暴力』となるわけです。(尚、遠い昔の皇室も、皇室自らの高尚な暴力によって天下をシラしめるようになったに違いないのです)

 そして、現代人も戦国乱世の物語に心を熱くしたりするわけですから、『高尚な暴力』というものを心の一部では渇望しているはずなのです。皆さんは、そこについての一貫性をどう考えているのでしょう? 昨今のごとく、戦国乱世をまるで別世界の浪漫のように捉える仕方は、甚だ卑怯なのではないでしょうか? 少なくとも、戦国乱世……高尚なる殺し合いの時代は、現代の我々と地続きであることを認めてもらわねば困るのです。



【暴力と権力】

 さて、戦乱の世や野蛮の世の中では、暴力と大儀は直接的に結びつくものですが、しかし、次第に大儀が収束していくに従って、暴力を「次善の策」にすることへの価値が生まれてきます。

 これが『権力』です。

 権力とは、暴力を次善の策とする営みなのです。乱世も、当初はその暴力の最も効率なるを突き詰めるわけですが、次第に鎧は装飾華美に、城は絢爛さ纏い、武将はシンボル化していきます。
 こうして暴力と権力が体系化されて文明的な『政府』ができる。この場合、徳川時代がそれでしょう。

 エドマンンド・バークは、「文明とは、暴力を最後の手段とするもの」であり「フランス革命のそれは、暴力を最初の手段とした野蛮である」と言ってフランス革命を論難しています。

 ただ、ここで気をつけてほしいのは、バークは「暴力が最後の手段としてはある」と前提していることです。
 文明を形づくる権力の体系の背後には、必ず暴力がある。逆に言えば、暴力を背景にしない権力はない。当たり前です。権力とは暴力を次善の策とするものなのですから。そして、権力の複雑化により、暴力が手段として後方へ押しやられていくのが文明化なのです。さらに、その権力は長い時間の効力によって、『権威』付けされていきます。これが『時効』と呼ばれるものであって、統治された文明国家に産み落とされた人々にとって「予め規定されてきたもの」であり、相続された財産と呼ばれるべきもの……ではある。

 しかし、権力も、権威も、時効も、元々は『高尚なる暴力』を背景にしている事を忘れてはなりません。
 何故なら、この事の忘れ去られた権力や権威は、酷い欺瞞と評されるべきものだからです。つまり、元々暴力的なものであるものを、暴力的ではないものと虚飾して、まるで単なる仲良しの理屈でのみそれらが回っているかのような人間観、世界観は、嘘っぱちにもほどがあるという意味で。こんな嘘っぱちの理屈で人の暴力への渇望を制限しようとするのは、暴力権という人権を踏みにじっているとしか言いようがない。

 表立って言われる必要はないかもしれませんが、あらゆる権力も権威も時効も、そもそもは暴力を含めたものの延長線上にあるものだという事をどこかで認めた上で文明を捉えなければ、自分たちの文明についての文明観に致命的な欠落を抱える事になるはずです。

 私は、以前民主党の仙石元官房長官が自衛隊を「暴力機関」と評したそれに大賛成です。加えて言えば、政府も暴力機関なのであって、司法も、立法も、皇室も、国民共同体すら暴力機関なのです。
 ただ、私はそれらが暴力機関であることを肯定的に見ます。何故なら、暴力が機関としてあることは、文明であることと同義だからであり、また、私は広義の意味での『文明』は肯定的に考えているからです。



【暴力の健全さ】

 一方、このことはやはり『最後の手段としての暴力』を認める事と表裏一体です。
 つまり、文明とは、戦争や内乱といった非常事態を常に孕んでいるものだということ。何故なら、文明の平常時が暴力を機関化して営むことなのであれば、機関の亀裂からいつ直裁的な暴力が顔を出すかは分からないはずだからです。言い換えれば、暴力は姿を変えただけで、消えて無くなったわけではないということ。

 現代の日本人はこの緊張感に欠けています。圧倒的に欠けています。

 この暴力への緊張感は、『高尚なる暴力』への意志を育むはずなのです。日常を一皮捲った所には暴力があるという緊張感がなくて、どうして『高尚』とか『高貴』ということに思いが及ぶでしょう。

 この緊張感のない非暴力的な大衆人は、野蛮かつ不健全です。
 勿論、殺人鬼とて野蛮な存在ではありますが、しかし、少なくとも健全ではある。その意味で、大衆人よりは殺人鬼の方が人間として幾分マシだとさえ、私には思われるのです。



【力での現状変更を目論め】

 ですから、例えば、「力による現状の変更は許されない」といったような言説は、教育上極めてよろしくない。

 そもそも、この世のあらゆる『現状』が暴力を下に確立されたものであることを鑑みれば、この「力によった現状」の『力』についてはどう申し開きをするのか。
 つまり、現状が力によったものであるならば、力による変更が「力による」というだけで何故許されなくなるのか、という問いです。

 もっと具体的に問いましょう。(ロシアやクリミアや尖閣や中国云々の前に、)我々は、アメリカに対して「力による現状の変更」を一切想定しないのですか?
 国際政治上のタテマエだという風に限りなく好意的に取ったとしても、どこかで「現状の変更は力に関係する形でしか行われない」という前提を手中にしておかなければ、アメリカに対する「力での現状の変更」の方も倫理的な次元で手放さざるをえなくなってしまうではないですか。

 ここで注意して欲しいのは、逆に「力ではない現状の変更」というものを割り増しして考える思考回路の上では、市場原理主義的グローバリズムの世界観は極めて都合が良いということ。
 そもそも、非暴力の前提の上では、市場原理主義的グローバリズムか、共産主義的コスモポリタニズムかに帰結せざるをえなくなるという論理的関係がそこにあるのです。何故って、世界の経済体制がそのような合理性の下統一されうると考えておけば、「現状の変更」は経済でもってなされればよい……という話にできるからです。
 この意味で、経済においても暴力が前提とされていなければ、非常に常識外れな結論を導いてしまう、とも言えます。



 ですが、ここで言いたいのはそのことではなく、浪漫の話であり、青少年の抱く『英雄像』の話です。

 人間が高尚さについて理想を抱く根元は、青少年期に抱く英雄像です。このことは人類普遍の性質であるといってよいでしょう。
 英雄とは、暴力的なものであり、そして正しいものです。つまり、『高尚な暴力』を行う者が英雄と呼ばれる。

 そして、日本の青少年にとって、あらゆる意味で最も根源的で高尚な暴力とは「アメリカにたいする、力での現状の変更」であるはずなんです。
 これが言い過ぎなら、少年が現実世界での理想的英雄像を構築する際に、「アメリカにたいする、力での現状の変更」について、これをどう位置づけるかが深刻な問題になりうる……とでも言っておきましょう。これなら明らかでしょう?

 だって、この現実世界を前提とした場合、真剣にイマジネーションを広げれば、そこには最終的にアメリカがいるのです。すると、自分の想定した英雄像がアメリカと対峙した時にどうするか……という問いは避けて通れないはずなのです。
 少なくとも私はそうでした。

 また、子供たちも、日本がアメリカに負けて、その後の大人達がこれに屈服して生きているらしいことは、何となく知っているわけです。8月になると阿呆のように敗戦の話がテレビで流れるので当然しょう。
 しかも、この屈服が自由だとか民主だとかと呼ばれているものだから、この現状を力によって変更する事は許されないような気分になってくる。

 ここで、少年の英雄像に深刻な妥協が生まれるわけです。

 さすれば、その英雄像は、現実世界を離れてしまうでしょう。
 つまり英雄を、宇宙人とか妖怪とか怪獣とか怪人の跋扈する空想の世界に想定せねばならなくなる。
 戦国乱世への憧憬が、どこか別世界のもののように捉えられているのもこれと同種のことであるように思われます。

 現実世界の中に英雄像を描けなくなってしまうと、現実は現実、理想は理想だという風に理想と現実を完全に分離せねばならなくなる。要するに、理想や英雄像といったイマジネーションを現実に活かすということができなくなるのです。


 ですから、我々は、どこかで「アメリカに対して、暴力による現状の変更」を目論んでいなければならない。
 なんだったら嘘でもいいので、大人たちはそうした意志のあることをどこかで織り込んで、子供達に見せる義務があるのですよ。



【必死や決死】

 私が神風特攻を肯定するのは、特攻隊の少年兵が抱いたであろうその英雄像に共感するからです。
 そう、私は特攻隊には『共感』するのであって、感謝なんかしてません。また、我々は彼らに感謝なんてできる身分でもありません。

 自分が本当に神風特攻隊員になったつもりになってみれば、隊員は英雄になろうとしたんだということが分かるはずです。理想を現実に活かすということをやったんです。
 イマジネーションを駆使して、その心映えに共感してみるというのは極めて重要なことで、さすれば「自分も神風特攻隊になりたい!」という高尚な暴力への意志を持つことができるはずなのです。


 神風特攻をはじめとして、203高地や、白虎隊、忠臣蔵など、決死、必死の英雄談に共感するという心は、青少年が現実を前提とした理想を抱く上で重要な事だと思うのです。どこか別の世界へ遊離し切った理想ではなく、現実を前提とした上で高尚な暴力という理想を描く為にも。

 勿論、理想ばかりを抱いていても駄目だということはあります。
 激烈な理想の上に、平静な現実感覚が必要です。
 荒海の上に、巣を作る鳥のように。
 ウォームハートだが、クールヘッドでいなくてはなりません。

 しかし、クールヘッドでクールハートでは、それは死人なのです。死人であることが現実を生きる大人であるかのような誤解が、現代では多くされているように思えてなりません。

 さらに言えば、この死人の発想を自由で民主的などと虚飾する仕方は、これこそ本当に許し難いです。
 自由で民主的……という語句は、人を生きながら死人にする語句です。

 我々は、生の為にも、もう少し命を粗末に考えてみる事さえ必要なのではないでしょうか?



(了)
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