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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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国家意識の欠如 

 俺の子供のころってちょうど90年代後半だったのだけれど、少なくともそのあたりの日本には、根本的にどこかあまりに無理やりな理論が横行していたのだと思う。だって、子供ながらに「これはない」と思うような理屈で溢れ返っていたのだから。
 大きくなって、それなりに文字を解し、勉強し、思考するにあたって、その根本問題は「徹底した個人の権利の追及と絶対視」というものにあると思うようになった。


 人間は社会的生物であるという意味で「一人では生きていけない」から、集団を作って、その集団単位で生き残るということをどうしたってしなければならない。個体では、他の生物にすぐさま蹂躙されてお仕舞いなほど、身体的には脆弱な生物だからだ。集団を形成し、言語を操るようになって初めて人間は他の生物を圧倒できるようになったのである。
 これが人間の生物としての根本であり、この中では、個人ではなく集団として連続性をもって生き抜いていくということが、至上命題だったはずだ。

 現代でいうならば、国家がその集団の最たるものである。
 たとえば、我々日本人が、他の生物あるいは、他所から来た外国人に蹂躙されないのは、日本という強大な集団に帰属しているからだ。
 もし、日本に帰属しておらず、裸一貫で世界に佇むこととなれば、不遜にも現在日本人が与えられて当たり前だと思っているあらゆる権利は存在しないのである。というか、すぐ死ぬと思う。


 つまり、個人の権利だとか、生命だとかうものが先にあって、そのために国家が存在しているというのが、まず幻想なのだ。
 個人としてある人間に、生まれ持った尊厳や権利なんて立派なものはないし、人の生命にそこまでの価値なんてないのである。
 「人間は思考をするから他の生物より生命が重い」だなんて論理も全くおかしい。生命は思考をしようがしまいが同質であるはずだし、人間の生命は牛やアリと同価値である。人間の生命が重いように見えるのは、人間が強いからであって、偉いからじゃあない。
 もし、本当に人間個人個人に無条件にそこまでの価値を認めるとなると、それこそ唯一絶対神という存在が必要になってくるが、幸か不幸か絶対神なんてものは実は存在しない。

 そうなると、個人の生命や権利より、「国家全体が連続性をもって強さを保持する」ということがまず至上命題となるのは当然のことだ。

 しかし、集団というものが個人なくしては成り立たないのも、また真理である。
 当たり前すぎるが、集団とは、個人の集まりであるからだ。

 すると、集団の中で権利や物質を割り振り、束ね、統合していかねばならない。これが政治だ。
 また、国家において、その構成員に権利を与えることは、国家が連綿と続いていくためにも必要なことなのである。何故なら、構成員に全く権利を与えなければ、国家自体が離散してしまうからだ。もっと言えば、国家というものは、その構成員の定義にも、イデオロギーに基づいた厳格な立場というものを保有していなければならない。


 つまり、「個人の権利のために国家がある」のではなく、「国家があるからこそ、その構成員たる個人に権利というものが備わる」のである。
 



 さて、国家、と一言で言っても世界には様々なイデオロギーと体系を持った国家が存在する。それぞれが、歴史と文化を背負った集団であり、主体性を持っている。
 それなのに、現代日本の大人達は「人類はひとつ」だとか、「愛と平和」だとか、「飢餓で苦しむ世界の子供達に募金を」とか、狂人の寝言のようなことを言うのである。こっ恥ずかしくてたまらない。
 挙句の果てに、自分達に国家的な遺産を残してくれた、先祖達の苦心の歩みには文句をつけるのである。

 人間は、個人単位であればどのような文化背景をもっていても解り合う可能性はある。動物とだって解り合うことができるのだから。
 しかし、集団と集団、国家と国家は決して解り合うことはできないのだ。不可能なのである。
 何故なら、国家と国家が本当に解り合ってしまうと、どちらかの国家がその国家であるというイデオロギーであったり、体系であったりに、致命的な変容をきたすことになるからだ。
 つまり、吸収である。「分かり合おう、分かり合おう」といって吸収、あるいは消滅していった国家は山ほどあっても、分かり合った複数の国家など歴史上無いのだ。


 別に、国家が国家を吸収することを否定するわけではないが、自分の国が吸収されるのは我慢できない。




 日本の失われた国家意識の上では、個人と人類という突拍子も無い意識が氾濫して、どんどん国家の国家たるゆえんが薄まってきていると思う。
 ただでさえ国家とは、放っておけば世代を超えるうち気づかぬ間に消滅していたりするものなのに、みんな本当にそれでよいと思っているのだろうか。



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 俺の子供のころってちょうど90年代後半だったのだけれど、少なくともそのあたりの日本には、根本的にどこかあまりに無理やりな理論が横行していたのだと思う。だって、子供なが...

まとめwoネタ速suru | 2012/03/19 20:13

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