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日本が日本であるために

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【第2回】永遠のゼロに見える現代大衆人の都合(前章ー2:軍隊組織へ適用された行政改革的組織破壊理論) 






【前章ー2:軍隊組織へ適用された行政改革的組織破壊理論】

(※ネタバレ注意)

 そもそも、戦争はファミコンゲームとは違うのですから、「軍略」の一方で「軍略を運営する組織」の問題が常にセットとして胚胎します。

 これは当然、『永遠のゼロ』でも同じです。「戦略の糾弾」と「組織の糾弾」は連なって提示されている。そして、『永遠のゼロ』の最も問題なのは、その「組織の糾弾」の仕方なのです。というより、戦略の結果論的糾弾が問題なのは、それが安易なる組織の糾弾を許してしまうから、と言った方がよいでしょう。

 私からすると、『永遠のゼロ』のこうした乱暴さは、平成におけるいわゆる「改革」の禍々しき精神が爛々と映じているように見えるのです。ここでいう「改革」とは、とりわけ行政改革、政治制度改革、郵政改革、構造改革……といった平成になって以降次々と断行され、そして次々と失敗していった諸改革のことであります。
 つまり、こうした現代の「改革」を喜ぶような大衆の心映えが、大東亜戦争や旧日本軍に対しての解釈まで延長されれば、ちょうど『永遠のゼロ』のようなものになるということ。


 このことが最も象徴的に表されているのは、七章の後半における姉弟の会話です。
 そこを全部引用するわけにはいきませんから、筋をまとめてみますとこうなります。


1「一般兵や下士官は、軍司令部の愚かさの犠牲になった」

2「軍司令部の愚かさの所以は、軍組織の硬直的な『官僚的』体質にあり、穿った見方(?)をすれば、軍略が無能な上層部の出世競争の具にされていた」
(※永遠のゼロで言う「官僚的」というのは、「ムラ社会的」くらいの意味で使っている節がある)

3「そうした官僚的、ムラ社会的体質と、没個的な体質が、軍隊における能力による評価を阻害していた」

4「アメリカの軍隊にも階級の厳しさはあったが、そちらには武功の競争によって個が能力を発揮できるような柔軟性があった」

5「日本という国は昔っから組織の体質は最悪であるが、名もない一般の人々はいつも頑張っていた。組織の体質に足を引っ張られながらも、そうした人たちの頑張りによって日本という国はやってこれたのである」


 と、七章後半でされるこのような姉弟の会話の筋が、話全体における扇の要となっているわけであります。
(というのも、お話が登場人物たちの「語り」で進行していく構造上、必然、聞き手である姉弟の総括がテーマの骨格となっているのです。そして、作中でこの姉弟が出した1つの大きな結論がこの会話なわけです。尚、この七章後半部については後にもまた取り上げます)


 つまり、何の事はない。
 『永遠のゼロ』は、行政改革の請求で官僚組織をバッシングするように、軍隊組織をバッシングしているに過ぎない作品なのです。
 行政改革とは、90年代後半から00年前半に実行され、そして大失敗をしながらも未だに根強い人気のある愚かな「改革話」のひとつです。
 これは要するに、「日本の政治は高級官僚の手に握られていて、その官僚組織は硬直的でエリート主義で民主的ではなく、穿った見方をすれば政策論が出世競争の具にされて合理的ではないので、官僚組織から権限を剥奪して広く民衆へ解放せねばならない」といった調子の改革話であります。そして、一時的に大衆の熱狂的人気を勝ち取った「維新の会」「民主党」「小泉純一郎」などなどは、左右を問わず(マニフェストから石原慎太郎に至るまで)「悪しき官僚から権限を剥奪する」という幼稚園級の理屈を述べ、そしてその度に喝采を受けてきたわけであります。もちろん、名前だけは「政治主導」(民主党)ですとか「船中八策」(日本維新の党)といったように張り替えられて提示されはするのですけれど。
 こうした現代の官僚バッシングの場合は「まるで旧日本軍のようだ」と言って中傷が行われるわけですが、『永遠のゼロ』の場合は「まるで官僚のようだ」と言って旧日本軍への中傷が行われている。


 ここで問題なのは、こうした類いのバッシングが、常に「旧来的な組織構造の性質」そのものを排除していこうとする、進歩主義的な組織破壊の志向へ走って行く所にあります。
 その証拠に、こうした「組織の体質への改革的志向」は、軍隊組織や官僚へ対してに限った事ではありませんでした。とりわけ軍隊組織のように官僚組織がバッシングされ、官僚組織のように公共事業が、土建産業が、郵政事業が、族議員が、政治家の派閥が、地方が、農産業が、労働組合が……バッシングされてきたわけです。 この志向が延長された果てには、およそ1億が大衆に放逐されるという、ワケのわからない話になってくる。というのも、官僚バッシングの場合は農業従事者は「下士官」であるが、農産業バッシングの場合は農業従事者は「海軍」ということになるからです。おそらく貴方も、今は大衆平均人として「下士官」側にいられているかもしれませんが、いつかは「海軍」役のお鉢が回ってくることでしょうよ。

 大衆は、結果や現状に不満があると、どこかに悪いヤツ等がいると考えます。穿った見方をすれば、「自分はこんなに頑張っているから悪いはずはない。全体が上手くいかないのは他のどこかに悪いヤツらがいるからだ」と思うわけです。そして、悪いヤツらが悪いヤツら的に存在していられる「組織の体質」の方を抜本的にぶっ壊せば、自分達の「頑張り」はもっと報われているはずなのに……と結論付ける。
 なるほど、こうした精神の持ち主達が戦争を振り返るとつまりこうなる。「一般の日本人ひとりひとりは真面目で道徳的な民族性をもっていたはずなのに、たくさん人が死に、戦争にも負けたからには、どこかに悪いヤツがいたはずだ」と。そして、そういう悪いヤツが悪いヤツ的にいられたのは、組織の旧来的体質が悪かったからだ、という話になる。まさに瓜二つの論理であります。

 さて、その上で、この場合の「組織の悪い体質」というものの説明には、おおよそ「日本的旧来性」が用いられてきたことに注意しましょう。最も分かりやすいのが、「日本的経営はよろしくない」といったような流行り言葉で、そうした日本の旧来性を引き継いだ組織運営を「不合理な既得権」と見なし、この不合理を「改革」によって排除すれば合理的進歩が実現されるはずだ……という考えこそ、平成の「改革」の根本精神なのです。(そして、私がこの世界で最も気にくわない精神がこれなのです)

 また、そうした「組織の日本的旧来性」を「悪しきもの」として否定するのに、常に「旧日本軍の軍隊組織の否定」が引き合いに出されて来たことも忘れてはなりません。(例えば、ルース・ベネディクトの『菊と刀』などが引用されて)
 言い方を変えると、ある種の「戦争の反省」は「平成の諸改革」に連なるのです。
 いや。というより、戦後、日本人は阿呆のように毎年毎年八月には戦争を反省し、黄色い猿のようにアメリカをお手本にしてきたのでありますが、平成に至るにこれがごく純粋化、単純化され、常識にまで昇華されて、結果として平成という改革による没落の時代が来るべくして来た、と言った方が的確なのでしょう。



 ……この種類のことを言うと、「それでは、組織の日本的旧来性というものに対しては何ら批判が許されないのか?」と問われることが多いです。
 勿論、これに対する正当な批判というものもありうるでしょう。
 しかし、逆に不当な批判というものもありうるのです。そして、私が言いたいのは、大衆支配の元では「組織の日本的旧来性に対する不当な批判」が社会的にごく容認されやすくなっているということであり、『永遠のゼロ』をその証拠として提出しているのであります。

 その上で、この「組織の中の日本」というものについて、議論が必要であることについては全力で認めます。また、漸進的な発達の必要なことも認めます。とは言え、こうした見極めは、あらゆる場合において非常に難しいのが常ですが……
 よって、少し遠回りにはなりますが、一旦「近代軍隊組織」や「大東亜戦争」とはそももどういった経緯の上にあったかを論じ、せめてその腑分けによって、永遠のゼロ的ではない「組織観」も考えうるということを提示してみたいと思います。

(つづく)
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