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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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【第4回】永遠のゼロに見える現代大衆人の都合(前章ー4:日本的人間交際(ソサイエティ)の領域) 






【前章ー4:日本的人間交際(ソサイエティ)の領域】

(※ネタバレ注意)

 前項で、明治以降の日本文明は、外発的開化による「近代模型的組織」と「日本的人間交際」の軋轢や矛盾を縫合し、接ぎ木しながら進んできたということを述べました。また、このことは、外発的開化の矛盾を解消せんとするはずの軍隊組織についても同様であることも述べました。
 つまり、日本の近代軍隊組織の中にも、「近代模型的組織」の部分と「日本的人間交際」の部分があったはずなのです。



 さて、このことを踏まえた上で、『永遠のゼロ』のように、結果論による徹底した司令部批判をもってすればどういうことになってしまうか。
 それは究極的に、組織における諸個人を制限できるのは「近代模型的組織」の合理的部分だけである、というような話になってしまうのです。
 そもそも、一貫して後知恵の、徹底して結果論による軍司令部の戦略批判では、どこまでも合理的な事が言えます。しかし、そのような合理性は、組織を形作る個々人と巨大な近代的軍隊組織との連関すら合理的に成され得るという前提の上でしか成り立ちません。
 そしてこの場合、「組織を形作る個々人と巨大な近代軍隊組織との連関の合理性」とは「アメリカ的人間交際」のことであると、暗黙のうちに前提されてしまうのです。



 ここで、先に述べた7章の姉弟の会話をもう少し詳しくみてみましょう。
 たとえば、

「当時の海軍について調べてみると。あることに気がついたのよ。それは日本海軍の人事は基本的に海軍兵学校の席次――ハンモックナンバーって言うらしいけど、それがものを言うってこと」
「卒業成績が一生を決めるってことだね」
「そう。つまり試験の優等生がそのまま出世していくのよ。今の官僚と同じね。(――以下略)」

(『永遠のゼロ』 第七章 狂気 p.368)



 などで、海軍における発言力がペーパーテストに依居していたことへの批判が強調されている。
 とりあえず言っておくと、これに付随した『永遠のゼロ』のテーマはほとんど中学生級の作文レベルの組織批判であります。と、いうのも、(私とてペーパー・テストなんぞクソったれだと思いますが、)近代軍隊組織や官僚組織といった巨大な模型的組織を形成する際(いや、遡れば律令制の昔から)、ペーパーテストに頼らざるをえない部分はどうしてもあるに決まっているからです。
 ただ、『永遠のゼロ』とて、さすがにこの程度の反論は織り込み済みらしく、同じように近代軍隊組織を形成していたはずの(つまり、ペーパーテストに頼る部分があったはずの)アメリカ軍を引き合いに出して、こう言ってもいる。

「アメリカはどうなの?」
「そこまでは詳しく調べてないけど、出世に関してはアメリカも同じみたいね。海軍大学の卒業次席が大きくものを言う。ただしそれはあくまで平時の場合で、いざ戦争になったら、戦闘の指揮に優れた人物が抜擢されるらしいの。(――以下略)」

(『永遠のゼロ』 第七章 狂気 p.369)



 なるほど、確かに『永遠のゼロ』全体でも、アメリカ軍というものはそのように描かれている。
 つまり、個々人の競争による評価がなされるような「アメリカ的人間交際」は近代組織を柔軟に運用していた、と。対して、没個的な「日本的人間交際」は近代組織を硬直的にしか運用できていなかったので、テストだけできて愚かな輩が威張るはめになって実践的な戦争ができず兵隊はいっぱい犠牲になった……という話になっているのです。

 しかし、これにしたって実に幼稚な理屈ですよ。

 まず、「戦闘の指揮に優れた人物が抜擢される」といったって、ならばそれを抜擢する人物を抜擢するのには一体どんな体系があったというのでしょうか。そりゃあ勝った方の軍の「抜擢された人物」のほうが、結果的に「戦闘の指揮に優れていた」ということになっているのは当然のことであって、それで日本的人間交際よりアメリカ的人間交際のほうが柔軟性があったみたいな言われ方をしても、納得がいきません。

 また、何を言っても、我々は日本人なのです。日本人が「アメリカ的人間交際」を範としてしまえば、これはもうおしまいでしょう? 何故なら、「アメリカ的人間交際」をやったらばアメリカが一番すごいに決まっているのであり、さすれば日本がアメリカをやっつける日の来る可能性は永遠に0ということになってしまうではありませんか!
 先に述べたように、日本において近代的模型的組織は外発的開化によって発展したかもしれませんが、人間交際の方にまで外発的開化を延長させてしまっては元も子もないのです。そうやって、どんどんどんどん外発的開化の領域を拡張して出来上がるのは、良いところアメリカのレプリカなのですから。そして、アメリカのレプリカがアメリカを倒す事はできないのです。アメリカのレプリカは、いいとこアメリカのサーヴァントと成り下がって、時間制限付きの平和と飽食を享受することくらいしかできないでしょう。

 もし仮に、我々日本人の人間交際が封建的で、犬儒的で、恥の文化的で、没個的で、それが近代的模型的組織を硬直的にしか運用できていなかったのだとしても、我々は日本的人間交際の上でしか生きて行けないし、日本的人間交際にこだわるべきなのです。何故なら、これは運命と呼ぶべきものだからです。我々のできることは、「日本的人間交際の中にありながらそれを内発的に発達させ、近代模型的組織を使いこなそうと志向すること」なのであって、「近代模型的組織に合致するような人間交際を目指すこと」ではないのであります。

 また、没個的な日本的人間交際が、大東亜戦争においてすべてマイナスにしか作用しなかったという見解はあまりにステレオタイプ過ぎはしまいか。
 例えば、『永遠のゼロ』は大東亜戦争で良しとされるような部分……つまり、真珠湾以来の航空機で戦艦を沈める「艦爆」「艦攻」といった戦法の独創性や、零戦の性能などの功を、おおよそパイロットや技術者の「根性」に集約しています。つまり、大東亜戦争における良き部分についてだけは「一人一人が頑張ったから」という話にしてしまっているのです。
 しかし、もしかしたらこれは日本的人間交際の中にこうした独創的戦法を成しうるある種の実践性があったことを示している……のかもしれないでしょう? たとえば、桶狭間の信長のような戦国武士の実践性が、大東亜戦争時においても日本的人間交際の中に残されていたから、かもしれないのです。
 そうした日本的人間交際の功を旧日本軍組織の方にも認めるならば、一見没個的で、権威主義的で、硬直的に見える日本的人間交際の中にも、「良き」ところを見いだせる。というか、そもそもこれだけ永く愉快な歴史と伝統をもった文明の人間交際に、独創性や柔軟性がないはずはないのです。
 さすれば、その良き部分の方を発達せしめようとする志向も生まれてくるはず。しかし、それを『永遠のゼロ』のように、大東亜戦争の「良き」部分だけはパイロットや技術者の個々人の「頑張り」に押し止めてしまえば、日本的人間交際にはおおよそ悪しき部分しかなかったという話になってしまうのです。



 負けた戦争の反省というのは本当に難しいものです。
 なるほど、近頃では「反戦としての反省」や「自虐史観からの反省」などのサヨク的な反省が責め立てられてはいる。朝日新聞の謝罪等の出来事も記憶に新しい事でしょう。これを便宜的に「朝日新聞的な戦争の反省」と呼んでおきましょうか。
 そうした「朝日新聞的な戦争の反省」がナンセンスであることは異論なしです。朝日新聞がどうしようもないというのは諸手を挙げて賛成ですよ。
 が、そうした「朝日新聞的な戦争の反省……への反発」の大部分は、単にそれが「日本人一人一人のDNA的民族性を、スゴいと思う事を邪魔する反省」だから責め立てているだけなのかもしれません。
 事実、「朝日新聞的な戦争の反省」を責め立てる者でも、民族性礼賛の都合を邪魔しない反省……つまり、「政治家や司令部や軍組織による不合理的抑圧が、戦争を負けに導いてしまった」とか「そうした上からの抑圧に唯々諾々と従う日本的封建性が不合理を助長した」とか「近代的自我が欠如していた」とかいう反省については、嬉々としてやってみせるではありませんか。それは、「日本人一人一人は頑張り屋さんなのである」という自愛的民族性礼賛を邪魔しない反省だから、反省しても腹は痛まないというわけです。

 しかも、その反省の根拠はおおよそ、「負け」という結果を根拠にしているに過ぎない。そうした輩の多くは逆に、日清・日露など勝った戦争については結果論として合理性を強調し、民族性礼賛の根拠とするのです。
 こういった種類の歴史観を、俗に「司馬史観」といいますでしょう。司馬遼太郎の『坂上の雲』をはじめとする歴史小説に見える歴史観のことです。
 結局のところ『永遠のゼロ』も、司馬史観を踏襲してしまっているわけです。しかも、より単純化され、純粋化されて。
 そして、司馬史観的な歴史観こそ、戦後日本における歴史観の癌なのです。



 結果論の戦略批判は、結果論ゆえに合理の明瞭なる範囲が過大に見積もられがちです。また、近代的組織を活用する主体は、結局のところ人間交際なのであり、またそうした人間交際は文明の歴史的共通感覚の上でしか活用されえないということも忘れられがちになります。何故なら、結果論の合理性は、軍隊組織における人間交際の現実性など度外視にして考えられるからこそ楽しめてしまうものだからです。それは、あたかもファミコンゲームのごとく。

 勿論、そうした種類の戦争の反省から、日本的人間交際の「発達」の必要性が論じられるならば、その範囲においてのみ肯定されるべきなのかもしれません。
 しかし、それは日本的人間交際の発達の議論が先にあって、「その発達をもって近代合理性を使いこなしてみせる」という志向から起きなければなりません。逆に、これで「近代合理性に合致するような人間交際」みたいなものが求められては絶対にダメなのです。繰り返しますが、それでは人間交際における「日本的」なるものを排除していくことが光の指し示す方向であるかのような進歩主義に陥ってしまう。また、戦後においてその光はアメリカ的人間交際のことであると無意識的に捉えられていたわけであります。

 そう。これは、そうした転化の起こりやすい、非常に微細な議論なのです。ましてや、『永遠のゼロ』のように終始乱暴で一方的な軍隊組織批判を繰り返していたら、物語の筋は「近代合理性に合致するような人間交際」を求めるよう筆が向いていくのはほぼ必定なのであります。



 頭の良い人間は、そうした小賢しい結果論の反省によって、「だから日本的人間交際は合理性に合致しない」という進歩主義的組織観に陥っていきがちです。それならば、戦争の反省など一切しないバカの方が百倍マシなのです。

 むしろ、我々が本当に反省しなければならないのは「戦争」ではなく「戦争の反省」の方ではありませんか?
 進歩主義的組織観に陥るような結果論的反省は、戦後一様に蔓延し、平成に至るやこれは常識化され、平成の諸改革というものを引き起こしてしまった。
 我々は、「戦争の反省」というものを真摯に反省し、「平成の諸改革という過ちは繰り返しません」と銘肝すべきなのです。


 さらに言えば、「日本的人間交際の発達」についての議論も、別に「戦争の反省」から行われる必要などないかもしれないのです。
 確かに、日本的人間交際にはある種の愚鈍さがあることも認めます。しかし、それは「平成」の歴史を反省しさえすれば充分事足りることなのです。平成日本人の人間交際は、どう考えても当時より議論力不足で愚鈍なのですから。


(前章「永遠のゼロに見える平成の諸改革」おわり)
※後章「特攻について」へ続く

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