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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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【第6回】永遠のゼロに見える現代大衆人の都合 (後章―2 国家と家族)  



※ネタバレ注意!

 前回でも少し触れたように、まずここでは「家族」と「国家」の相対について論じる必要があります。
 というのも、『永遠のゼロ』におけるかくも都合の良い特攻論は、ある種の「家族愛」が盾にされているからです。
 さらに、前項で述べたような大衆の都合の正当化のために「身体的具体性としての家族愛」が楯にされてしまうと、その家族愛ですら何がなにやらわけのわからないものになってしまう。そのことを『永遠のゼロ』はその薄っぺらさをもって見事に体現しているわけであります。

 それでも、こんな風に……つまり、『永遠のゼロ』では常に「家族愛」という副将軍の印籠が掲げられているから、ちょっとすると世間ではほぼ無敵なわけです。というのも、「永遠のゼロを批判するものは、サヨクか、または家族愛より国家全体を優先せしめようとする極右だ」みたいな、中道を気取った小賢しい雰囲気が醸成されているでしょう?
 本当ならこんな話は、「特攻隊は平均人なんかではなく、精神的武士であった」とだけ言えば済むはずなのですが、一見整合するかのように見える「家族愛」を盾にしたこの厄介なる多数派の雰囲気を切り刻んで燃やし尽くす為には、もっと緻密な論考が必要でしょう。





 家族愛。なるほど大切なものです。本当にそう思うのですよ。これは理屈ではなく、経験則で。
 しかしこれもまた、「どのような家族愛でも良い」というわけにはいかないのです。とりわけ、昨今は「家族愛」さえ出てくれば、どんなに薄っぺらな話でも「泣いた」のなんだのピーピーいう輩が多すぎて、気持ちが悪いったらしょうがない。
 とりわけそれが、「身体的具体性としての家族の大切さ」が何よりも高い価値であると前提されてしまうような「家族主義」にまで陥ると、「個人主義」の抱える欠陥と同じような問題が出てきます。

 平凡な話をするようでなんですが、個人というものが「回りの世界」に応接することで存在しているのと同様、家族にも「回りの世界」というものが多分に含まれています。そうであらねば「家族」とは真空に浮かんで生じるものではないですから、存立不可でしょう。
 例えば、婚礼などまさにそれです。男女関係を「家族」というシンボル体系へ結びつける為には道徳や規範というものが不可欠です。普通、その道徳や規範は「共同体の歴史的慣習」や「信仰」から来ると考える他無い。すると、家族とは人間の身体的具体性としてのみ形成されるものではなく、(例えば日本ならば)日本という天下や地域共同体といったより広域な共同体における、道徳や規範、世界観と不可分にしてあるとみなされなければならない。

 要するに、「家族の集まりとしての国家」という認識と同時に、「国家に埋め込まれた家族」という認識もなければ、「家族」も「国家」も説明がつかないということです。



 例えば、「国家観」というものについて、こう言ってみせれば現代でもおおよそ総員の賛同を得ることができます。

A「我々は個人の利己のみではなく、個人を取り巻く家族というものを知っている。故に、家族を取り巻く地元を知り、地元を取り巻く日本を知るのである」

 と。
 つまり、個人、家族、地域、国家……といった風に、小集団から大集団、具体から抽象、形而下から形而上といったベクトルの解釈で捉える国家観というものなら、現代であってもおおよそ誰しもが頷くところではある。ホシュであろうがサヨクであろうが頷く。ただ、ホシュはこれを自慢げに頷き、サヨクは不満げに頷くというだけのことです。

 だのに一方、以下のようなベクトルについては誰もが都合よく無視を決め込んでいる。

B「我々は、日本の形を知るからこそ、日本の中に埋め込まれた地元の形を知る。故に、地元に埋め込まれた家族を知り、それらに埋め込まれた『私』を知るのである」

 というような。
 つまり、国家、地域、家族、私……といった風に「大集団に規定される小集団」という捉え方は、ホシュであろうがサヨクであろうが認めようとしないのです。ただ、ホシュはこれに対する否定を「中道」の根拠とし、サヨクはこれを自慢げに否定するというだけのことです。



 しかし、実際のところAのベクトル――つまり「家族から想起される国家」というようなベクトルのみではコトが不完全なのです。Bのベクトル――つまり「国家観(世界観)から規定される家族」というようなベクトルがあってはじめてAのベクトルも成り立つ。
 換言すると、国家を想起するのに「身近な家族との身体的具体性」が必要なのであれば、家族を想起するのには「国家(運命)によって予め規定される抽象の体系」が必要だということであります。何故なら、上で述べたように「家族」が成り立つためにも道徳、規範の体系が必要不可欠だからです。よって、こうした「身近な身体的具体性」と「予め規定される抽象の体系」は、実存としての「私」の中で相互依存関係として成り立っていると考えられていなければならない。



 この、国家観(世界観)から規定される家族=予め規定された抽象の体系というものが、特に現代大衆人の理解の範疇を超えるのは、それが否応もなく「ナショナルな信仰の体系」というものを考えざるをえなくさせるからでしょう。
 ホシュ派にすら多いのですが、よく「日本人は宗教的におおらかであいまいだった」という言い方がされ、またそのことをさも素晴らしいことのように言う輩がいます。しかし、「歴史的な宗教感覚」というものの希薄な文化圏は野蛮国と呼んで差し支えないのです。
 勿論、日本文化圏には神仏集合に見られるがごとく宗教的寛容さもありますし、これは一つの徳であると言ってもよい。ある種の宗教的寛容さが「徳」として考えられ得ることは、たとえばイングランドの「寛容法(1689年)」などに見られるがごとく人類普遍の感覚でもありましょう。
 しかし、そうした寛容や集合の仕方という所までに立ち至れば、日本の人間交際の中に強固な「信仰の体系」が歴史的に編まれてきたことは疑いようもないことです。一言で言えば、神々の宿る「天下」という世界観に「正統性」というものの根拠があり、その超越的世界観と我々の現実性を繋ぐものとしての天皇が超時代的にあらせられる……これが、「日本文明において予め規定されている抽象的な信仰の体系」というものでしょう。

 戦後、たとえば吉本隆明は、これを共同幻想と呼んで脱すべき偏見と見なしました。が、共同幻想から脱した近代的自我(疎外者)たちが身体的具体性にのみ基づいていくらアウフへーベンを繰り返し、「矛盾」や「偏見」を解消しても、「私」の永遠性はちっとも救われないのです。何故なら、「私」の身体的具体性はいつか必ず終わるし、残酷なことに人間はそのことを知っているからです。そう。我々は、自分がいつか必ず100パーセントの確率で死ぬ事を知っているのです。さらに言えば、身体的具体性の中で身近な愛する人のことを想起しても、その愛する人とて100パーセントの確率で死ぬし、また、人間はそのことを理解できてしまうのです。もう一つくどく言えば、愛する者の、愛する者の、愛する者……と身体的具体性から価値をいくら拡張してみせても、いつかその身体的愛の連続は途絶えてしまうし、その有限性すら人間は容易に把握できてしまうのであります。つまり、「身体の具体性」の中だけでは、人間は永遠性において絶望の状態にある。

 哲学者、神学者のキルケゴールはこうした絶望の状態を「死に至る病」と呼びました。勿論、キルケゴールは身体の具体性を無視しているわけではありません。抽象的永遠性の中へ潜って、身体の具体性をまったくの二次的なものと考える仕方もまた「有限性についての絶望」と呼んでいるのですから。しかし同時に、身体の具体性の中だけでは「無限性についての絶望」があるという命題も対比的に提出している。

 すると、運命的に与えられた抽象の中に身体の具体性というものが埋め込まれてある……というような「主観」の獲得によってしか「実存としての私」の絶望が解消される道はないことになる。しかし、これは非常に困難な精神的解釈作業だし、この解釈作業が必要となる状態というのはその時点で不幸なことなのかもしれません。
 何故なら、永遠性と身体性は「主観」の中でしか統一されないのに、その主観を客観してしまう「疎外者」は、論理上、予め規定された主観の中に直接いることができなくなるからです。ようするに、「主観を客観する私の主観、を客観する私の主観、を客観する……」という風に際限がなくなるのです。私は、このことを考えるといつも気が変になりそうになります。

 例えば、ハーバード・スペンサーの言う社会有機体説――魚群をその群れ単位で一つの有機体と見なすように、農村共同体を一つの有機体と見なすという見方を用いてみましょう。すると、一つの有機体としてある共同体の中に完全に埋め込まれた個人の主観は、彼自身としてはその主観で完結しているはずだということが分かるはずです。つまり、その抽象的信仰も、具体的身体性も、客観で区切れ目を付けるということがないので、信仰と身体は主観の上に統一されているはずなのです。
 しかし、その共同体における個が「埋め込まれ性」を失って「疎外」の状態に陥ると、自分の主観を客観するということが否応なしに行われてしまう。そうした疎外者たちは、主観性の中にあった矛盾をアウヘーベンによって解消することはできても、矛盾を含む世界観の中にあった主観性は失っているが故に絶望者でもあるのです。また、疎外者一世、二世は、その絶望性に気づかないことがままあるわけですが、これはキルケゴール風に言えば、第一の絶望――つまり、絶望の状態にあることに気づいていない種類の絶望――なのです。そして、疎外者たちが有機的共同体を再興しない限り、疎外者の子孫も引き続き絶望の状態にあることとなる。



 こうした実存のことを我々日本風に考えてみれば、「共同幻想という抽象的世界観の中に、身体の具体性というものが埋め込まれてあるという主観性」と言うことができます。しかし、こうやってその主観を客観的に述べ立てている時点で、私はその主観性を失っているという証拠でもある。

 例えば、ここで柳田国男を引いてみましょう。柳田国男の民俗学というものは、有機的共同体の中にある者達の主観性を、柳田という疎外者が客観したものなのです。たとえば、『遠野物語』を見れば、当時の遠野の人々がその信仰と、世界観と、家族との身体的具体性と、はたまた動物や妖怪までを一緒くたにした主観性の中にいたことが伺える。ですが、そうやって彼らの主観性を伺うということは、柳田も(我々も)その主観性の中にはいないということも意味するのです。当時の遠野の人々は、「自分は信仰と身体的具体性を一緒くたに暮らしているなあ」と自覚して生活していたわけではないのですから。ただ運命的に生まれ落ち、その主観性の上で生きていただけなのです。その主観の上には身体的な幸福も、暴力も、悲惨もすべてありますが、同時に永遠性もあるのです。多少の矛盾や不便や悲惨や夭折があろうと、その主観性の内にあるということは柳田にとって至極羨ましいことであったに違いありません。私も羨ましくってしょうがありません。

 つまり、私は、近代的自我を獲得してしまった疎外者として、「共同幻想」の主観性の中にいることができていない。これが、私にはツラくてツラくて仕方ないのです。でも、いくらツラくても自分の「疎外者としての浮遊した主観」をやめることは死ぬまでできません。そうなると(発狂するのでなければ)解決方法は次の二つしかない。

乙案:「身体的享楽を突き詰め、その最大値と見積もられる時点で自殺する」

甲案:「疎外者としての主観の上で共同幻想を客観的に解釈して、さらにその客観的解釈の上で具体的身体性と抽象的世界観の縫合の本質をも自覚的に解釈した上で、それを主観し、その状態を維持する」

 私を含めた憐れむべき近代的自我(疎外者)の前には、この二つの道しか開かれていないという事は、私にとってはごく人生の初期から感覚的に察知されていたことだったように思われます。しかし、乙案の方も、実のところ「永遠性についての絶望」を所与のものとして諦めたものに過ぎないことも次第に分かってくる。ドラクロワの絵の『サルダナパロスの死』みたいにはいかないのです。すると、甲案のようなほとんど救われる見込みのない極めて困難な道しか、近代的自我を持った疎外者が救われる方法はなくなります。
 ですから、理論上、現代人が救われる可能性というのは、まずその絶望に気づくかどうかで減り、次に乙案が結局のところ絶望状態を脱していないということに気づくかどうかで減り、そして、甲案の道が成功するかどうかでさらに減ります。つまり、現代人で近代的自我を持ってしまった疎外者は、ほぼ救われる見込みがないのです。
 それでも、救われる見込みのない疎外者がその主観性を獲得しようと志向するには千の意思が必要なのであって、こうした意志をもった者はその時点で少なくとも精神的武士、精神的貴族と呼んでふさわしい。ですから、武士的、貴族的な「非・大衆人」というのは、別に「家柄が良く財産がある」ということを意味するのではなく、その千の意志を持っているかどうかで決まるのです。(※勿論、「家柄が良く財産がある者」の方が千の意志を抱く可能性が高いということは言えるでしょうけど。)
 ただ、千の意志を抱く精神的武士であることは尊いこととは言えど、彼が絶望の状態を脱する主観を獲得できるかどうかは別問題です。千の意志は必要条件であり、実際にひとたび近代的自我を獲得してしまった疎外者が「絶望」の状態から脱しえる唯一の道である甲案は、ほとんど不可能といっていいほど困難なのですから。

 だからこそ私は、身体的具体性のみで物事をはかる連中、またその事を「近代的自我を獲得して矛盾を解消する正気」として前提する手合いがムカついてしょうがないのです。そういう身体的具体性についての楽観を見ると、「そんな社会的矛盾の解消なんかじゃあ俺は救われねえぞ」と怒鳴り散らしてやりたくなるのです。そういう前提で進歩主義、民主主義、自由主義が前提とされるのが嫌で嫌でたまらないのです。また、そんなものを「正気」として前提する現代大衆人……つまり、それぞれの身体的具体性だけを価値の大前提とすることを「正気」とみなすほとんどの大衆平均人は、自分たちが永遠性において絶望の状態にあることに気づいてすらいない第一の絶望者なのです。

 そうなると、一般的に「死に至る病に陥っているキチガイ」は現代大衆人の方であり、キチガイの目から見れば特攻隊という正気の若者たちはキチガイに見えるというだけのことなのではないでしょうか。しかし、だからといってキチガイの現代大衆人が、キチガイの論理で特攻隊を正気と見なせば、それは特攻を真の意味でキチガイ扱いしているということになるのです。このことは前項で明らかにしました。






 話を『永遠のゼロ』に戻しましょう。

 どんなに好意的に解釈しても、『永遠のゼロ』における「家族愛」「愛国心」というものは、上で述べた「家族愛から立ち上る愛国心」の一方通行であります。つまり、「国家(世界観)に規定される家族」のベクトルについては一縷の価値も置かれていないのです。
 これは、「身体的具体性」の価値から無矛盾な社会というものが構築されえるという合理性が前提されているという点で、前章で明らかにしてきたことと符号します。
 そして、「私を規定する抽象的世界観」の矛盾や不合理を「キチガイ」の尺度として用いているという所とも符号します。このことは前項で明らかしました。つまり、高山も武田も、「国家や天皇にこだわる」という「正統かつナショナルな信仰」を、キチガイとする尺度として採用していたのに変わりはないのですから。

 このことについては、色々問題があるのでしょうけど、ごく明瞭なことが一つあります。
 それは、「私を規定する抽象的世界観」を単なる「矛盾」と見なして捨て去ると、その世代は「身体的具体性」のみで独立して回っていけているように見えますが、次の世代ではその「身体的具体性」すらも溶解してくるということであります。
 この場合の「その世代」というのは戦中派とそれ以前の世代についてであり、「次の世代」というのは戦中派世代以降の世代のことを指しています。

 戦後、日本人はほとんど一夜にして日本の抽象的世界観を捨て、世界というものをグローブ(地球)と見なす自然科学的世界観に属したかのようにも見えます。しかし、一億民が一斉に入れ替わったわけではないのですから、戦中派世代まではそれまでの世界観が常識として残されているに決まっているのであって、その残された常識観の上で「家族」という身体的具体性が発揮されていたわけです。
 そりゃあそうですよ。先にも述べた通り、家族という身体的具体性であってもそれは「道徳」「規範」が枠組みとしてあってこその家族なのです。その道徳や規範がどこからくるのかと言えば、「歴史的偏見」からくるとしかいえないのであって、歴史的偏見は抽象的世界観……つまり正統なる信仰の体系にによって価値付け、基準付け、序列付けがされるのです。
 ですから、戦中派世代までが家族、あるいは擬似家族としての「日本的経営」などを成り立たせていたのは、戦前から引き連れた常識というものが残像として残っていたからです。

 しかし、「私を規定する抽象的世界観」が常識の中に組み込まれていない世代……つまり、その残像を引き連れえようのない戦中派以後の世代は、ナマの「身体的具体性」だけで家族というものを知覚しているに過ぎないのです。ですから、家族における道徳や規範が融解し、その「身体的具体性」すらも溶けて流れて、何がなにやら分からなくなってくる。厄介なことにそうした融解は、「分からなくなっている」ということすら分からないというシロモノであるから、この融解、離散には歯止めが利かない。

 その証拠に、昭和の終わりに戦中派世代が引退すると平成となったわけですが、平成を主導してきた団塊以降の世代は、価値あるものを何一つ生み出さなかった上に、改革によって日本の国を没落させることしかしなかった。
 それは当たり前の話で、正統なる信仰や抽象的世界観から歴史的に降りてくる道徳や規範が融解すれば家族感覚すら融解するに決まっているのです。家族感覚というものが身体的具体性のみで保ちうるというのは、それこそ家族主義の幻想なのです。そして、家族感覚が融解するのであれば、日本経済を支えていた「家族的経営」というものの感覚や、産業、生産者、消費者、労働者、事業者、組合、政治家、官僚、中央、地方などなど様々な人間交際における感覚が融解するのは当たり前であり、それらが融解するのであれば経済的な没落もまた必然なのです。何故なら、経済ですら、それは人間交際に埋め込まれた一側面だからです。
 つまり、「私を規定する抽象的世界観(ナショナルな信仰の体系)を排除すればするほど矛盾をなくすことができる」という戦後の進歩主義的理論というのは、前時代の常識を引き連れた戦中派世代が引退するまでの、時間制限つき理論だったわけです。



 そして、その「家族」における道徳、規範の融解というものが『永遠のゼロ』にははっきりとあらわれているのです。

 『永遠のゼロ』は最終的に、特攻で死んだ宮部の妻松乃を、宮部に特攻を邪魔されて生き残った大石が、宮部の代わりにこれを養い、恋に落ち、宮部の代わりに家族となる……という話でケリがつきます。視点人物の健太郎は、元々慕っていた血のつながらない祖父大石と、特攻で死んだ血の繋がった祖父宮部、そして祖母松乃の物語を知って、なにやらポジティブシンキングになるというわけです。

 しかし、良く考えれば、この話は完全に「家族の道徳」は逸脱していませんか?

 勿論、現実の人間には身体的具体性がありますので、そういう家族の事情というのもありえるとは思いますよ?
 しかし、「特攻隊員の身代わり夫」のような堕落的な話が、「現実問題として生きてゆくために仕方のない堕落」として描かれるならまだしも、「感動話」として描かれのは常軌を逸していますでしょう。でも、多くの読者は、その「感動話」に唯々諾々と感動して、縷々と涙を流している。

 誤解しないで欲しいのですが、私は別に小説の登場人物が不道徳を犯すということだけで怒る狭量で言っているわけではないのです。近代自然主義以降の小説の登場人物なんてたいてい不道徳ですしね。どれだけ不道徳かどうかを競い合ってきたのが小説というものだと言っても過言ではないでしょう。また、先に申したとおり、私とて歴史的主観性を失った疎外者ですから、道徳を引き受ける主観性を失っています。故に、不道徳を糾弾する資格も能力もない。
 私が怒っているのは、「その不道徳が、不道徳として取り扱われてすらいない」ということなのです。

 普通に考えて、戦争未亡人というものは独りを通すのが第一の道徳です。もしかしたら、夫の戦死と共に自刃するという道徳もありえたかもしれません。また、その方が絶対的に美しくはある。ただ、一方、人間には身体的具体性があるので、戦争未亡人が「新たな面影を胸に宿す」という堕落もありえることではある。
 これは、坂口安吾の「堕落論」の論理を引いているわけですが、確かに安吾は「生き残ってしまった」ものとして、こうした堕落を認めてはいる。しかし、この「堕落論」の論理では、前者が「抽象的世界観から降りた道徳」、後者が「現実的な堕落」であるという基準は手放していないのです。確かに、こうした基準を手放していない者たちならば、その「堕落」にはキリがあるのでしょう。何故なら、堕落を堕落と呼ぶためには、その一方で道徳の次元も前提されていなければ不可能だからです。逆説的ですが、道徳の無い堕落というのは観念的に存在しえませんでしょう。

 しかし、永遠のゼロの場合、この道徳基準そのものが反転している。
 つまり、従来の「現実的な堕落」が最早「道徳」として取り扱われてしまっているのです。

 この道徳の反転現象は、とどのつまり、かつての道徳が「道徳の系譜(つまりクラッシック、古き上等な階級の振る舞い)」を基準として考えられていたのに対し、現代の道徳が「大衆平均人の身体的具体性」を基準として考えられるようになっているからです。
 ですから、戦中派までの「卑属」が、現代人にとっては「道徳」となってしまっているのです。

 これが、今回指摘する『永遠のゼロ』の現代大衆人への迎合なのです。
 迎合しているでしょ? だって、「大衆平均人の卑属性がむしろ道徳的だ」という話が前提とされているのですから。大衆平均人は安心して大衆平均人を続けていられるというわけです。
 しかし、このような「道徳の反転」は、上で述べた「永遠性」において絶望しかもたらさないのです。それが気にならないのは、現代大衆人のほとんどがその絶望状態に気づいてすらいない、第一の絶望状態にあるからなのであります。



(つづく)


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コメント

初めまして。

以前からチェックさせていただいております。

今回のお話、非常に大きなテーマなのでどれだけ理解できたか心許ないのですが、概ね同意いたします。

ところで・・・柳田国男の著作は「遠野物語」ですね!
(遠野で働いている知人がいるもので、気になりまして)

kappa #NbShkeg2 | URL | 2015/01/13 06:59 [edit]

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