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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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【第7回】永遠のゼロに見える現代大衆人の都合 (後章3―特攻隊の英雄たる所以) 




【後章3―特攻隊の英雄たる所以】

※ネタバレ注意

 前回、『永遠のゼロ』の家族愛の偽善性を見ることによって、現代大衆人は「道徳や規範」というものの感覚が既に融解していて、むしろ「卑俗」が「道徳」とみなされるようにすらなってしまっていることを指摘しました。
 これは、単に現代人が不道徳であるというような生易しい問題ではありません。不道徳が不道徳として礼賛されている内はまだマシで、事は「身体的具体性に終始した卑俗をむしろ道徳とみなしてしまう」という所まできている。
 つまり、かつては「歴史や信仰とつながりを持った上等な階級の振る舞い」が少なくとも「道徳の基準」とみなされていたのに、現代では「平均人の単なる身体的具体性の礼賛」がむしろ道徳とみなされてしまっているのです。ここでは、これを「平成における道徳の価値反転現象」と呼びましょう。
 この「平成における道徳の価値反転現象」は、いわゆる「世俗化」と呼ばれるものの髄で、「歴史や宗教から下ろされる抽象」を不合理とし、「身近な具体的身体性」を合理として、後者を道徳の次元にまで昇華してしまう現象と言い換えることもできます。近代(モダン)というものは「世俗化」を当然引き起こすものだとは言え、この徹底した世俗化は「現代」というものが(とりわけ日本では特に)単なる「ウルトラ・モダン」として「進歩」してきてしまった証拠でもある。

 ところで、この世俗化による「道徳の価値反転現象」を起こした大衆が、テロ(恐怖)とみなすものは何でありましょう?
 それは勿論、「身近な具体的身体性」よりも、「歴史や宗教から下ろされる抽象」に重きを置く人種ということになります。要は、道徳的に死ぬ……という赤穂浪士的な行動基準を持った、例えば特攻隊や9.11自爆テロのような。
 ちなみに、これは特に『永遠のゼロ』だけに限りませんが、「特攻隊は9.11自爆テロと違う」というような小賢しい言説が特にホシュ派から聞かれますけれど、それは単なる都合の良い欺瞞です。しかも、色々と都合の織り交ざった最低レベルの欺瞞です。
 そりゃあ全く同じものと言うつもりはありませんが、特攻は9.11自爆テロと大きく類似した所があります。絶対にあります。それは、「身近な具体的身体性」と「歴史や宗教から下ろされる抽象」の間で縫合不可な葛藤が生まれた時、後者を優先させたという最上級の道徳的振る舞い(テロ)においてです。
 これは注意して欲しいのですが、「身近な具体的身体性」と「歴史や宗教から下ろされる抽象」の間では、亀裂と葛藤が生じることがありえます。故に、後者へこだわるということは、その亀裂や葛藤が最終局面に至った場合の「運命的暴力」や「運命的自死」を前提とすることでもある。そのような暴力精神は、人間の本来性からすれば「道徳」とみなされるものでありました。
 しかし、徹底した世俗化によって道徳の反転現象を起こした現代人の主観からすると、それは「テロ」なわけです。現代大衆人は、「身体的具体性」よりも「歴史や宗教から下される抽象」を優先させる人間のありようそのものに「恐怖」を覚えるのです。
 ですから、現代大衆人にとっては9.11も、特攻隊も、2.26事件も、203高地も、三島由紀夫の割腹自殺も、赤穂四十七士もすべて「テロ」と呼んでいて正解なのでしょう。その意味で、『永遠のゼロ』の中で言えば、悪役のサヨク的記者高山の方がまだ正しいのです。だって、テロをテロと呼ぶところに少なくとも一貫性だけはあるじゃあないですか。
 特攻は徹底的に世俗化された者からすればテロ(恐怖)に違いないですよ。その意味で、特攻は9.11と重なる部分がある……というか、9.11に特攻と重なる部分があるわけです。そして、それを道徳とする共同体は「テロ国家」であり、日本は誇り高きテロ国家であった。
 ただ、この場合の「テロ」の意味は、「具体的身体性よりも、歴史や宗教から下される抽象にこだわって死ぬ暴力」のことですから、道徳の反転現象を起こす前の人間にとっては最上級の道徳なわけです。


 さて、この「テロ(最上級の道徳)」を、素直に特攻隊のものとして考える為には、当時の人々の「具体的身体性」と「歴史や宗教から下ろされる抽象」の間の亀裂と葛藤を解釈してみる必要がありそうです。要は、大東亜戦争当時の人々の「戦争観」についての解釈です。
 まず、本論前章の3にて、大東亜戦争の大義を「日本人の生命と財産の自衛」ではなく「百年スパンの文明の自衛」と解釈したそれを思い出してください。言い換えると、それは「ナショナリズム戦争」ということですから、(すべてとは行かないまでも)当時も多くの国民の内の中にあった感覚であったとも言える。つまり、この「百年スパンの文明の自衛戦争」という大義は、何も単に私が後付けでそう言ってみせているだけの話ではなく、当時の人々の「私」の領域にとっても無視できない大義であり、皮膚感覚であったに違いないということ。
 事実、1930年代とは、近代(モダン)や資本主義やグローバリズムがもたらす亀裂と鬱屈に、人々がたまらなく滅入っていた時期でもある。つまり、国境を越えて動き回る金融資本の不安定さと資本主義の行き詰まりに国民統制経済への大転換が、また、モダニズムによる疎外の絶望に精神的な「国民」への統合が求められていた時期なのです。
 これは、先に引用した、漱石の言う外発的開化による「近代(モダン)」と「日本人の心と人間交際」との乖離による日本人の潜在的絶望が最終局面に向かった時期、と言い換えてもいいでしょう。そもそも、そうしたモダンと心の乖離も、「楽」と「享楽」が実現されているあいだは何とかごまかせるものですが、パワーの問題や資本主義の行き詰まりの問題によって「楽」や「享楽」さえも実現されている風でなくなってくると、近代(モダン)への反発は大々的に表面化してくるに決まっているのです。すると、人々が「日本の心と人間交際」に価値と歴史的正統性を想うようになり、日本の世界観からできるだけ近代(モダン)を排除しようと思うようになるのも当然です。
 要するに大東亜戦争前夜とは、一般国民の心の前面においてもナショナリズムの時節であった。
 そして、大東亜戦争とは、(他にも参戦国はあったが主に)そうした日本のナショナリズムとアメリカのナショナリズムの衝突であったが故に、「単なる物質的な国益の衝突」に留まらない、「日本の世界観とアメリカの世界観との衝突」とも言うべきものでもあったわけです。また、世界観の衝突とは歴史の衝突であり、宗教の衝突であり、道徳の衝突であるが故に、明瞭にそれぞれの「私」の心の問題でもある。

 このような世界観の衝突というような戦争で状況が切迫すれば、それぞれの「心」には果たしてどのような「戦争観」が共有されるでしょうか?

 いろんな文献から引いてくることはできるのでしょうけど、ここでは、山田風太郎の『戦中派不戦日記』というものを引いてみたいと思います。
 山田風太郎という人は、戦後に時代物の小説で人気を博した大衆作家です。これは、彼が医学部学生時代につけていた日記で、「不戦日記」は丁度終戦の年の記録にあたります。
 山田は相当の才能のあった人らしく、当時23歳という若さで戦局、政局に対する凄まじき慧眼の持ち主であったことがテクストからありありと読み取れます。ほんとうならそれを一つ一つ現代人に突き出してやりたいくらいですが、ここ強調したいのはその慧眼ではなく、人々についての描写力です。つまり、周りの日本人たちの雰囲気というものが、その日記における描写から読み取れるということ。

 まず、当時の日本人も、今の日本人と同じように流されて戦争をしているような大衆的部分があったことは確からしいです。そのことに、山田はしばしば不満を記している。つまり、口では勇ましいことが流布されているが、多くは本気で勝つつもりで言っていない、と。
 しかし、山田自身も、またその学友たちや、東京で世話になっている夫妻、叔母などなど、個々人の言説を見てみると、ごく一般の人々もだいたい以下のように思っていたことだけは確かなようですよ。



一、大本営がなんと言おうとも戦況が著しく苦しいのは誰の目にも明らかである。
(※山田は当時にあって、いわゆるこうした「大本営発表」にすら半分の寛容を示しています。現代大衆人は山田の爪の垢でも煎じて見習うべきではないでしょうか)

二、しかし、いま降伏をすれば、日本はアメリカに二度と立ち上がれなくされるのも明白である。

三、それでも、日本が「不撓不屈」の構え……つまり、五年、十年と戦い続けても屈しないというのであれば、アメリカは無際限の殺戮戦に耐えられず、どこかで絶対に音をあげる。



 山田はさらに、8月14日の未明、あと三年戦争を継続すればアメリカが音をあげると信じ、戦意の事切れかかっている国民をあと三年戦争に駆り立てる大扇動運動を行うことを学友と共に決意します。
 勿論、誰もが山田の8月14日のような凄まじい精神状態に至ったとは言いませんが、上の一から三までの事はおおよそ一般の人々にとって共通した戦争観であったようではあります。

 つまり、「滅びを覚悟で戦う」=「勝つか、日本民族全滅か」というような構えで本土決戦を決行し、相手が折れるまで死に続ける……そうしなければ日本という世界は終わる、と。

 ここで注意してもらいたいのは、「滅びを覚悟で戦う」=「勝つか、日本民族全滅か」という構えは、実のところ極めて理にかなっているという事です。
 だって、それなら理論上「負けはない」ことになるでしょう。例えば、ベトナム戦争やイラク戦争を見てください。「滅びを覚悟で戦う」というのはこの理にあるのです。
 逆に言い換えると、戦争の未来というものがその時代にある者にとって不確実であることに注意を払えば「二、いま降伏をすれば、日本はアメリカに二度と立ち上がれなくされるのも明白」という前提に立つのが当たり前であって、その前提にある以上、「勝つか、日本民族全滅か」という構えが理論上最も理にかなっていたということになる。

 勿論その理は、「日本文化圏(=世界)」を続けるというところを基準として前提した場合の理であるから、「国民の生命と財産を守る」というところを基準と前提した場合は降伏の方に理があったと言えるかもしれない。原子爆弾の脅威がありましたから。また、そういう風に考えていた庶民もいたのかもしれない。
 しかし、少なくともそんな考えは誰も「道徳」だとは思っちゃいなかったのです。この時、道徳は「滅びを覚悟で戦う」方にあった。



 そして、その前提と道徳を解釈してはじめて、「特攻隊の英雄たるゆえん」が解釈できる。

 というのも、「滅びを覚悟で戦う」=「勝つか、日本民族全滅か」という戦争を成り立たせる為には、その構えを示すために「先に死んでみせる」という事がどうしても必要なのです。それは二つの意義においてどうしても必要なのです。

 一つは、いくらこちらに「不撓不屈」の精神があろうと、その想いが相手に伝わっていなければ、相手は音を上げないからです。そうした真心を相手に伝える為には、「身体的具体性」より「歴史や宗教から下される抽象」の方を優先させるテロ精神のあることを行動で示さなければなりません。何故なら「歴史や宗教から下される抽象」を優先させて死ぬ者たちを屈服させることは誰が見ても不可能だからです。例えば、イスラミックステートを暴力によって屈服させることが不可能そうであることは、誰の目にも明らかでしょう。

 もう一つは、「勝つか、日本民族全滅か」という戦争を想起した場合、誰でも考えるのはその死ぬ順番のことであります。つまり、理論上明らかに、死ぬ順番が後の方であるなら滅びを覚悟で戦っても生き残る可能性が高いわけです。このことは誰にでも分かることですから、「滅びを覚悟で」と口にしていても皆が後の順番で死ぬことを想定することはありうる。それでは、「滅びを覚悟で」「勝つか、日本民族全滅か」ということが成り立たなくなってくるわけですから、先に死ぬほうが偉いに決まっているのです。

 少なくともこの二つの意義において「先に死んでみせる」ということは最上級の道徳であり、英雄的振る舞いになる。 
 特攻隊を「英雄」として認めるということは、当時の人々にとっても、特攻隊員自身にとってもそういうことだったのです。





 このように当時の人々の戦争観を紐解いてみると、『永遠のゼロ』にはケシカランという以前に「奇妙な点」があることが分かるでしょう?

 それは、戦争の最中にあった人たちに、「戦争が終わったら、このようになる」という想定がそれなりに立てられ得たかのように前提されていることです。
 なるほど。現代人は、戦争の結末と戦後の成り行きを妙ちくりんなサクセス・ストーリーとして思い描いていますから、どうしてもこれを一般的な「戦争後において考えられる結末」として前提しがちです。しかし、降伏、占領体制、冷戦勃発、逆コース、朝鮮戦争、吉田ドクトリン、日米安保、高度経済成長……という軽武装商人国家への移行など、どう考えても異例で、全然一般的なんかじゃないわけです。
 私としては、こうした戦後のあゆみが「良かったこと」とされていること自体気に食わないですけど、まあそれは置いておいたとしても、少なくともこの時点の人にとって予測不可、イメージ不可なヴィジョンであったことだけは確かです。勝つか、日本民族全滅か……つまり、日本という世界が終わるか、堂々たる自立を勝ち得るかという戦争観が大東亜戦争終盤であったのだから、仮に敗戦というもののイメージがあったとすれば、それは日本の廃墟であり、世界の終焉であった。
 その中で、「敗戦後の安定の」ようなものを予測し、前提するなどということは、タイム・トラベラーにしかできないのです。当たり前すぎてつまらないことのように聞こえるかもしれませんが、このことはしばしば忘れられがちなことでしょう。

 そして、その当たり前のことを踏まえれば、永遠のゼロで言う「家族を守る為と意義付ける特攻」はタイム・トラベラーの所業だということになる。
 何故なら、特攻が「自分の家族を守るため」と意義付けられるためには、特攻後の世界(日本)が家族の生命と財産の守られるような安定したものに収束していくという予測ができていなければ成り立たない。しかし、「滅びを覚悟で戦う」をイメージするにしろ「降伏」をイメージするにしろ、そんな予測が成り立つはずがない。特攻隊にそういう予測をさせる為には、予知能力かタイム・トラベルが必要なのです。

 さて、このことが詳らかになった今、もう一度この部分を見てみましょう。




「岡部さんは、どのようにして特攻を受け入れたのですか」
「受け入れた、とは?」
「特攻に際して、どのように自分の死を納得させたのですか」
「難しい問題ですな」
 岡部は腕を組んだ。
「死を受け入れるからには、その死を上回る崇高な目的がなければ出来ないと思うのです。岡部さんにとって、そのような高次な目的とは何だったのでしょうか」
 姉の質問は意外だった。もしかしたら、前もって用意していた質問かもしれなかった。
「綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、自分が死ぬことで家族を守れるなら、喜んで命を捧げようと思いました」
「死ぬことでご家族が守れると思いましたか」
 岡部は黙って姉を見つめた。
「特攻隊の死は犬死にとおっしゃりたいのですか」
「いいえ」
 姉は少し慌てたように首を振った。岡部は言った。
「少し違う話をしていいですか」
(略)

(『永遠のゼロ』 第八章 桜花 p.411,412)





 どうです!
 ひどい誤魔化しでありましょう。欺瞞でありましょう!
 同時に、この部分が『永遠のゼロ』における致命的綻びであるともいえる。

 だって、姉の、

「死ぬことでご家族が守れると思いましたか」

 という問いは、まさに的確なのです。
 タイム・トラベラーか予知能力者でなければ、特攻が「自分の死の犠牲によって家族の生命を守ること」になるかどうかなど知れないはずなのですから。

 それを、岡部はなんと言って返していますか?

「特攻隊の死は犬死にとおっしゃりたいのですか」

 と返しているのです。
(※私なら「いぬじに」は名詞ですから「犬死」として送り仮名をつけませんが、底本に「犬死に」と珍妙な送り仮名が付けられていたので、それに準拠して引用しています)

 おそろしく卑怯でしょう?
 これは、特攻が「自分の死の犠牲によって家族の生命を守ること」と意義付けられえないとするなら、特攻を「犬死に」と言っていることになるんだぞ……という脅しじゃあないですか。
 姉だけが脅されているんじゃないですよ。読者も同時に脅されているんです。そして、特攻を「犬死に」と言うわけにはいかないから、「自分の死の犠牲によって家族の生命を守ること」の理屈も飲み込んでおかなくちゃならないと思うわけであります。

 しかし、そんな脅しは、実のところ次の言葉を頭に浮かべるだけで容易に打ち破ることができるはずなんです。すなわち、

「特攻は、自分の死の犠牲によって家族の生命を守ることと意義付けられなくても、犬死なんかじゃない」

 と。

 でも、この単純なる言葉を思い浮かべるという事ができないのは、これを言ってしまうと現代人にとって極めて都合の悪い事を考えなくてはならなくなるからです。
 というのも、「特攻は、自分の死の犠牲によって家族の生命を守ることと意義付けられなくても、犬死なんかじゃない」という風に言うと、「なら、特攻隊にとってその意義はなんだ?」と自問せざるをえなくなる。

 すると、上で言ったような「特攻隊の英雄たるゆえん」を考えざるをえなくなるわけです。
 これは現代大衆人にとって都合が悪いでしょう。

 何故なら、特攻隊の「先に死んでみせる」ということの意義を認めるとなると、それは「結局本土決戦に至る前に降伏した」ことによって裏切られていると認めなければならなくなるからです。要は、先に死んでいった者たちは「勝つか、日本民族全滅か」の大前提の上で先に死んでいったのだから、それは後に生き残ったものの「不屈」を信用しているということでもある。にもかかわらず、後から死ぬはずであったものたちは結果的に「屈した」のであって、その屈したものの上に戦後が成り立ってきたばかりか、屈することの更新によって冷戦構造という時間制限付きの平和と飽食を享受して、平成にいたってはその残滓にしがみ付く為にまた屈しているわけあります。つまり、特攻隊の「先に死んだ」という英雄性を認めると、先にも述べた珍妙な戦後のサクセスストーリーがすべて裏切りの上で成り立っていたと見なさねばならなくなる。また、この裏切り性を解消しようとすると、「アメリカへの屈服」を解消しようとしなければならなくなる。これが、現代大衆人にとって都合が悪いのです。(※去年の八月の記事「英霊に対する恩義……という誤魔化し」で言いたかったことはこういう事なのです)

 勿論、こうしたことをいちいち考えて「都合が悪い」と自問する者は皆無でしょう。が、現代大衆人は、今の自分たちのあり様を肯定するためなら極めて狡猾に、無意識的に、反射的に、「特攻隊の英雄たるゆえん」を認めないで済むように、「岡部」の脅しに屈しておくわけであります。

 ですから、多少その不自然を感じても、

「少し違う話をしていいですか」

 と流されてしまえば、それがブツ切りの話題転換でも気にも留めない。




 つまり、現代大衆人は特攻隊に感謝するような素振りを見せておきながら、実のところ、「特攻隊の英雄たるゆえん」なんてどうでもいいと思っていやがるのです。今の自分たちのあり方が肯定されうる範囲においてのみ、また、そういう自愛的な理屈の上でのみ、都合よく特攻隊を用い出すことが第一のことであり全てなのです。だから、簡単に憐れんだりできるのです。

 『永遠のゼロ』とそうした大衆の狡猾な「欲情」は見事な蜜月関係が成り立っているというわけであります。




(つづく)





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コメント

なるほど!

山田風太郎及び他の一般国民の当時の考え、大変興味深いです。
当時の日本社会がそういう空気だったのだとしても、現在はまるっきり「なかったことにされている」ようですね(^_^;)

ちなみに戦中派であるうちの母親(昭和8年生まれ)は当時の社会のそういう空気をわかっていなかったか、もしくは認めたくないようで、
「たくさんの兵隊さん達が『天皇陛下万歳』と言って死んでいったので昭和天皇には恨みがある」
というようなことを最近も言っていました。
だから今上陛下に対してさえも、意地でも「陛下」という敬称を付けずに「天皇」と呼ぶことにしているそうです。
何だか恨みを向ける対象がずれていると思うんですけどねえ(^_^;)

kappa #NbShkeg2 | URL | 2015/01/21 10:34 [edit]

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