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日本が日本であるために

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日本国と保守的態度の考察 三 

 保守主義とはなにか。
 当たり前のことだが、『保守主義』といって常に「天皇及び皇室を保守する」という話にはならない。
 その意味は、
「保守主義が皇室を保守するという話になるのは、日本においてのみである」
 ということである。
 例えば、アメリカにおいては「天皇を保守することこそ保守主義である」とは言えない。南北朝鮮も、中華も、イギリスも、ドイツも、フランスも、ギリシアも、ブラジルも……地球のどこを探したって、天皇を保守することが保守主義であるという国は、日本以外にありえないのである。
 では、イギリス王室を保守することが常に保守足りえるのか。ありえない。イギリス王室を保守するのが保守主義であるのは、イギリス及びカナダなどの旧大英帝国統治国においてのみである。
 アメリカ合衆国憲法の理念を保守することが常に保守足りえるか。足りえるはずがない。アメリカ合衆国憲法の理念の保守は、アメリカにおいてのみ保守主義足りえる。
 イギリス人が、「天皇陛下万歳」とやったり、アメリカ合衆国憲法に忠誠を誓ったりすることが、保守主義といえるか。言えるはずがない。
 日本人が、イギリス女王に忠誠を誓ったり、アメリカ合衆国憲法の理念を謳って保守主義といえるか。これもまた、言えるはずがないだろう。

 俺は、いつもあまりに当たり前のことを言うから、「ひょっとしたらこいつは馬鹿なんじゃないだろうか」と思われるかもしれない。
 その疑惑自体はひょっとしたら的を得ているのかもしれないが、「当たり前のこと」というのは実は大切で、その積み重ねが建設的な思考となると考えている。

 上で何が言いたかったかというと、『保守主義』とは『主義』であり、「物事に対する態度そのもの」を指す概念であるということだ。
 では、それはどのような態度のことを言うのか。
 答えは簡単で、書いて字がごとく、「保ち、守る態度」のことを言う。
 何を「保ち、守る」のか。これも簡単だ。「大切なの」を守り、保つのである。
 そして、その「大切なもの」とは何か?
 この問いがなかなかに難しい。だが、確かなことを一定程度述べることができる。
 「大切なもの」という概念もまた、個人一人では認識不可だということ、だ。人が何かを大切に思う気持ちは、あらゆるレベルの共同体、「関係性の枠組み」の中でしか起きないのである。
 大切、という概念があるということは、大切な物とそうではないものに「分けて」いるわけであり、それはつまり価値の体系があるということである。
 言っておくが、人間という生物が完全なる個人で感じる絶対的な価値などというのは存在しない。全知全能の神が本当に物理的に存在して、「これこそが価値あるものです」と規定し、知らしめてくれない限りない。全知全能の神など、おそらく存在しないので、つまりはありえない。
 ちなみに、善と悪の体系も、価値の体系同様に絶対的な基準などなく、常に相対的であるから、集団に拠る。というか、善と悪の体系は価値の体系のイチ分類だ。故に絶対的な善悪というものも、存在しない。何が正しく、間違っているか、といういわゆる『倫理観』は、集団の枠組みの中で共有する倫理体系が存在しなければ認識しようがないのである。

 その「集団で共有された相対的な価値の体系、善悪の体系、といったようなものを保ち、守ること」が『保守主義』の根幹の根幹であることをまずは認識せねばならない。

 いや、そんなに難しいことは言っていない。極めて当たり前のことである。神という観念は極めて重要なものではあるが(国家と宗教については後に語ろうと思う)、実際のところ物理的な神(ゴッド)は存在しない。今も、未来も、千年前も、一万年前も、それよりもっと前も、地球にも、宇宙にも、ゴッドなど実は存在しないのである。
 現代の日本国籍をもった多くは、宗教に興味がないとか、無宗教とか言っている割には、『絶対的な価値』『絶対的な倫理』というものがあたかも存在しているかのごとく振る舞う。倒錯も良いところである。
 「物理的な神がいない」ということは、価値や倫理の体系なるものは天から降ってこないし、地球上に予め設定されてなどいないのだ。
 当たり前だろう。何が大切か、何が正しいか、なんて事が予め規定されているだなんて、そんな楽ちんなことがあってたまるものか。
 だから、価値体系や倫理体系が、集団の『共通認識』であることは至極当然、自明の理、なのである。

 そして、その共通認識であるところの価値体系や倫理体系の構築というものは、一朝一夕では成し得ない。
 そりゃあそうである。
 何が価値あるもので、なにが正しく、なにが悪いかなんてのはそりゃあ複雑で、簡単に共通認識など構築出来たら苦労はしない。
 極めて少数の集団、例えば家とか親類とか仲間とかの中では、年単位で可能かもしれないが、十世帯、百世帯という村のような集団となるだけで複雑さは跳ね上がり十年や二十年では構築不可となる。それは構成員が増えるごとに複雑さも、構築にかかる年月も、膨大なものとなる。
 まして、国家における価値体系や倫理体系の構築にかかる年月などは、気遠くなるというものだ。(それは大体において、集団そのものの形成と、複雑に絡み合って進んでいくのだろう)
 さらに厄介なことに、巨大な集団におけるその構成員は世代を越える。当たり前だ。人間という生物は、生まれるし、死ぬのである。
 故に、構築にはどえらい時間と労力がかかるのに対して、世代を越えると共に雲散霧消と忘れ去られたり、一時の気分を持って軽く打ち破られたりするのだ。
 勿論、「何もかも変わらずにはいられない」のは当然である。そもそも、「構築する」時点で「変わる」ということはしてはいるのだから。
 それでも、価値や倫理の体系に何とか連綿性を持たせて世代を越えないと、集団そのものの存在があやふやになり、世代を越えるごとに離散の危険をはらむ。何故なら、価値や倫理の共通認識が薄まると、個人のレベルまで「何を基準に行動すればよいか」が分からなくなるからだ。そうなると当然、各々は個人の快楽を基準に行動するようになるから、集団の秩序は世代を越えるごとに離散していく、ということである。
 集団に、価値や倫理が体系付けられている状態は、「当たり前」ではない。今生きている者より前の先人達が、何百世代もかけて、血を吐く思いで紡いできた財産なのである。
 だが、たまたま世の安定した時代に生きる世代は、往々にしてそのことを理解できない。何故なら、苦労して体系を構築する過程を経験していなかったからである。(だからこそドイツを統一した名宰相ビスマルクの言うとおり、「経験に学ぶは愚者」なのである)


 本来、今生きる者は、先人らが積み重ねた価値や倫理の体系を致命的には損ねないように次の世代へと受け渡す、という運命的な義務を背負っているはずである。
 保守主義、「大切なものを保ち守る態度」が何故必要かというのは、こうした理由からだ。



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