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【第3回】日本国憲法の諸問題(基本的人権尊重主義と国民主権主義) 




【基本的人権尊重主義と国民主権主義】


 再び、三章の「国民の権利及び義務」を見てみましょう。さすれば、日本国憲法の言う「日本国民」とは「単に日本列島という場所に生きている、その時々の人間」の事を言っているに過ぎないことが分かるでしょう。

 概観するに、三章は二段階に分けてみるのが捉えやすいと思います。まず一段階目は、第10条から第13条まで。この段階は国民の権利及び義務についての『理念』を語っている部分であることが分かります。二段階目は、第14条以降ということになります。これは第10条から第13条で展開された理念を具体的に列挙して、その態度をより鮮明化していったモノと捉えるべきです。(故に、これは『人権カタログ』とも呼ばれます)
 つまり、前文で言われる「主権が国民にある」という事について三章の第10条から13条で理念として連絡していて、三章の第14条以降とそれ以降の章においてこれを具体しているわけであります。
 ここでは、前文の国民主権と連絡した理念であるところの、10条から13条を見てみましょう。


 三章では、まず先に見た第10条で「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」という風に提示した後、


【国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
(日本国憲法・第11条)】



 と、こう来るわけです。
 すると文脈上、『国民の権利』の根拠は、『基本的人権』にあるということになってしまう。換言すれば、「人間の権利の保障の為に、国民たる要件が法的に定められている必要がある」とこういう風に捉える他なくなってしまうのです。
 しかし、人間の権利とは一体どのような権利の事を言うのでしょう?


【この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 (日本国憲法・第12条)】



 この条文は、これを単体で見れば尤もなことのようだけれども、「この憲法が保障する自由及び権利」とは、人間の権利の事なのであります。つまり、これではまだはっきりしない。


【すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 (日本国憲法・第13条)】




 ここでこの憲法の言いたいことの根幹がようやく明瞭になってきます。
 その『国民の権利』(人間の権利)とは、
「人間個人の自由な選択が、政府機構によって制限されないこと」
 なのです。
 そして、まずそうした人間諸個人の自由な選択があって、けれどそうした中では「公共の福祉に反する事」が生じるであろうから、そこにおいてのみ「人権」は制限される……というまとめ方がされているのであります。
 要は、諸個人の自由な選択という『人権』の尊重と、『公共の福祉』との均衡が、『国民の権利及び義務』であると、そういう理念なのです。





【基本的人権尊重主義と国民主権こそ、日本国憲法のガンである】


 前節で示した、前文と三章における『基本的人権の尊重』と『国民主権(人民主権)』の文脈を、今日、否定的に言う人はほとんどいないように思われます。それは九条を否定して改憲を主張する者であっても、ほとんど同じでしょう。

 しかし、日本国憲法におけるほんとうの問題は、上記の「基本的人権の尊重と国民主権(人民主権)」の文脈にあるのです。これを言い換えて、「自由と民主主義(リベラル・デモクラシー)の文脈」としても良いでしょう。

 誤解してほしくないのですが、私には「人間」を尊重する用意はあるのです。ただ、「人権」を「国民主権」の根拠に据えるという仕方がインチキだと申したいだけなのであります。それは、先に申し上げた「国民不在の国民主権」が、「人民主権」とか「平民主権」とか「大衆主権」などといったシロモノとすり替えて提示される巧妙なレトリックなのです。

 また、それは近代主義をごく純粋化して無批判に引き受けようとする姿勢でもあります。
 日本国憲法には、「人間諸個人の自由な選択」と、「人間諸個人の選択による民主主義で導き出された公共の福祉」が均衡しうるものであるという、人間性礼賛とか人間性楽観ともいうべきヒューマニズムが赤裸々に横たわっているのです。
 これは、始原状態を想定した社会契約を根拠とした自然法的世界観が参照されていると分析するのが妥当でしょう。そうした社会契約の世界観は、ホッブズ流に主権を委託しようと、ルソー流に人民の一般意志に主権を想おうと、歴史的流れを持つかくも複雑な国家……文化圏といったものをとらえるには単調かつ画一的すぎなのです。
 それでも尚、確かに国家は一種の社会契約であると認めても良いでしょう。近代主義が、社会にただならぬ恩恵を与えてくれている事も認めないわけにもいかない。ただ、そうした社会の一側面を切り取って観察する仕様は、この膨大なる現実世界を包括的に捉えられていないのではないか、という懐疑の姿勢を持って迎えられなければならないはずなのです。

 例えば、確かに、個人の自由な選択は大事でしょう。尊重せらるるべきです。しかしそもそも、個人の自由な選択とは一体何なのでしょうか? 個人は、環境と時間の流れのなかで行動し選択するわけであるから、どこからが純粋な個人から発した行動で、どこからが環境に支配された行動であるかを区分けする事は実はできません。何故なら、主体としての個人と、個人に内面化された客体は、不可分に存在しているからであります。
 また、そういった諸個人の選択による民主主義で導き出された公共の福祉が、その具体的な運用に際して(平均的にであっても)ベターなものである為には、人間が公共の福祉なるものを至極明瞭に数値的に算出することが出来るという前提がなければなりません。しかし、公共の福祉の基準は「倫理」に関わるものであるはずだから、数値にて明瞭かつ合理的に算出できると考える方が狂っているのです。民主主義は抽象的な段階であれば平均的にベターを導いても、具体的運用にかんしてはことごとく最悪の結論を出すという事もありうるのであります。

 こうした自由と民主主義という近代主義への懐疑が僅かでもあれば、日本の歴史的経緯を統治に反映させようという姿勢があるはずですが、日本国憲法にはそれがほとんどないのです。それどころか、自由と民主主義(人権を根拠とした国民主権)を純粋化して推し進めることを強く推奨しているのがこの憲法である、と言って貶し過ぎではないでしょう。



(つづく)


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