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日本が日本であるために

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【終章】日本国憲法の諸問題(日本国憲法に立ち向かう保守論) 


【ひとたび大衆の手に渡った国家を救う手立ては、基本的にはない】

 以上の問題を把握すれば、そうした人権を根拠にした国民主権(自由と民主主義)という人間楽観の世界観が、「政府の権限の剥奪」を好む大衆に対し絶好の根拠を与えているという事も理解できるはずです。何故なら、人間の権利としての自由が実は良く分かられていない中で「自由(人間の権利)」を求めようとすれば、それは「より政府に制限されない」という事こそ「進歩の光の先である」と考える他なくなってしまうからです。
 また、それは第14条にも明確に現れていますが、そうした中では「政府よって与えられる特権的なもの」を排撃しようとする欲求が赤裸々に現れてきます。勿論、高貴なる階級としての特権が認められる余地はなくなってしまっているし、それだけではなく昨今では、「経済的な既得権益」すらも特権として排撃されてきているわけです。

 こうした傾向は、「一般国民」という得たいの知れない語を根拠に推し進められます。政府によって一般国民のケンリが制限されないように、政府によって特別のケンリを付与されないように……そうした事が政府への請求として「啓蒙的」に推し進められるのです。
 しかし、一般国民というのは一体どんなものを言うのでしょうか。そもそも、政府による「権利の制限」と「特別な特権の付与」は、日本国民の間で画一的ではないし、画一的である必要はないのであります。例えば、既得権益既得権益とやかましい世の中ですが、日本国民のほとんどが何らかの地域や産業に属しているわけだから、あらゆる国民は何らかの既得権益(特別の権利)を授かって生きているはずです。あるいは、何らかの「特別な権利の制限」に甘んじて生きているはずなのです。つまり、一般国民などというのは誰の事でもないのです。日本国民とは特別国民の集合である、とこう捉えるほうがより現実的でしょう?

 それを、一般国民などという良く分からない語を用いて、特別国民を端から糾弾し、特権や既得権益を排撃していけば、日本国民は日本国民によってすべて排撃されていってしまうでしょう。ある時には我こそは「多数派の一般国民である」と思っていても、数年後には「少数派の特別国民である」と排撃される側に陥るのです。何故なら特別国民ではない国民など実はいないからです。

 それでも、そうした政府への請求を正当化する根拠としての基本的人権と国民主権の文脈は、一瞬一瞬の大衆心理としては非常に都合の良いものであると言えるでしょう。
 何故なら、その時々の多数派は、政府や既得権益から権限を剥奪する事を「面白い」と思うからです。
 その面白さを都合よく正当化してくれている日本国憲法の理念が、「間違っている」という風に、多数者が思うわけがないでしょう。しかも、日本国憲法は、人権を保障する為の都合の良いサービス機関であることを政府に求めているわけで、かくのごとくパンとサーカスを保障してくれている日本国憲法を大衆(多数者)が手放したいと思うはずがありません。

 その証拠に、アメリカに押し付けられたはずの日本国憲法は、戦後一言一句変えられていないでしょう。それは、96条で示されている通り、その変更が多数の大衆によってでしか変更不可であるという事に起因するのです。大衆に都合の良い憲法が大衆によってでしか変更できないのなら、理論上、変更は永遠に不可でしょう。当たり前ではないですか。これは社会党や共産党や民主党のせいでも、チャイナや朝鮮のせいでも、アメリカのせいですらないのです。
 とどのつまり、日本国憲法の最低さは日本国民の最低さの反映である、と言うのが最も適切なのではないでしょうか。




【日本国憲法に立ち向かう保守論】

 そういうわけですから我が愛する日本国は、国家の没落を「進歩」と履き違えて突き進んでいるわけです。そして、時代が進むにつれその歩みを速くしてきている。この大衆の大行進はあまりに甚大なパワーを持って成されているから、ほぼ抵抗の余地はないとも言えます。
 それでも、これに抵抗せずに滅びるままに滅びるという態度は、死人の態度と糾弾せらるるべきものです。そこで、出てくるべきは「保守論」や「保守思想」であると私は考えるのであります。

 そもそも、法があり憲法というものがある以上、その「憲法の根拠」をどこに求めるか……という問題から逃れることはできません。
 日本国憲法は、これを「自然法」というものに求める純粋近代的な態度を取っているわけでありますが、何も我々がこの姿勢に準拠する義理は一片たりともないのです。
 憲法を保守的に考えるのであれば、憲法の根拠は「国家の伝統や権威や大儀」にあると考えられるべきはずなのです。

 そういう風に言うと、すぐに曖昧な根性論であると誤解されがちですが、そうではない。曖昧ではないのです。
 国家の伝統や権威や大儀は、日本文化圏が未だ存在しているという一事をもって、確固としてあります。何故なら、日本文化圏を形成する諸個人に内面化された「日本」というものが実存するからです。
 我々が憲法や法による秩序を獲得しようと思えば、また、外国の影響を排除する「最高独立性」という意味での「主権」を獲得しようと思えば、日本人それぞれの意識において、ほぼ無意識的に内面化されている「日本の伝統、権威、大儀」といったものに依拠するほか、仕様がないではありませんか。

 例えば、イギリスには成文憲法は存在しません。イギリスは、あらゆる時代のイギリス人が歩んだ歴史の経緯と、その時々確認された歴史的な章典をもって、「憲法」としているだけのことなのです。だから、憲法は記されていなくたって良いのです。
 我々はイギリス人ではないので、これを一切真似る必要はありませんが、この態度は大いに学ぶべきなのではないでしょうか。つまり、法の背景には国家の歴史がある、という態度のことです。

 つまり、我々は日本国憲法を国家最上の規範と考える必要はないのです。国家最上の規範は、国家の歴史的経緯であり、伝統であり、大儀であり、権威であり、道徳の系譜なのです。
 ですから、私はある意味希望を持って日本という国を観察してもいるのです。と申しますのも、人間にとって最も面白い話は、大儀や正統の話であったはずだからです。これは、「人類普遍の法則」であるといっても言い過ぎではありません。自然法を根拠に政府や既得権益から権限を剥奪するなどという話を面白がっている輩は人生を損しているのです。
 憲法問題とはとどのつまりこんな簡単な事に気づけばよいのであるから、難しい話ではないのであります。



(了)


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コメント

そう言えば・・・

西田昌司先生は「日本国憲法は無効」論者ですが、2012年の講演で
「『それならその下でできた法律は無効なのか?更には現行憲法下での今上陛下のご即位も無効になるのか?』という意見もあるが、それは問題そのものが間違っている。憲法があろうがなかろうがそのずっと前から我々は生きているし皇室も存在している。そこが大事」
というような話をしておられました。
今回の記事とリンクすると思ったのでご紹介しました。

kappa #NbShkeg2 | URL | 2015/02/11 22:45 [edit]

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