07 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 09

日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

TOP > 未分類 > title - 【ブログ記事批評】WJF様より「自民党が大阪都構想を批判する呆れた理由」について      
  

【ブログ記事批評】WJF様より「自民党が大阪都構想を批判する呆れた理由」について 




 今回はよそ様のブログ記事についてで、WJF様の「自民党が大阪都構想を批判する呆れた理由」という記事について批評を試みてみたいと思います。

 これは少々前の記事でありますが、WJF様のように自分の考えの正直な所を大胆に開陳するような言説は、世に言論多しと言えどもなかなかもって稀有で、また、その稀有が現れた瞬間にこちらの生活的時間や批評的精神の状態が合致するとも限りませんから、取り上げるのに多少の時間的ズレのあることは致し方のない所でもあるのです。どうぞご了承くださいまし。



 さて、このWJF様の記事。なるほど、さすがに良い事を言っています。

 まず、自民党大阪府連のwebページで示されているような、
「大阪都構想は、道州制の妨げにしかならない」
 という筋での大阪都構想への反対が論理上ありうる、という指摘に着目しましょう。
 なるほどこの場合では、大阪都構想への反対の議論の前に、ちゃっかり道州制が既定のものとして前提とされていることになる。これが拡張されると、「大阪都構想か、道州制か」といったような二元的議論に集約されて型が仕立てられてゆく恐れもあるでしょう。
 一方、このことを多元的……つまり、総合的に考えれば、「道州制も大阪都構想も両方クソッタレ」という発想もありうる事が分かるし、そしてそれが良識的な姿勢であるということも分かる。

 この点においてはまったくもって頭の先から指の先まで大賛同なわけですが、ある部分についてだけ異論があるのです。

 それは、そうした「二元的発想」というものを、「大衆操作の常套手段」と捉えている所。また、そうした常套手段を駆使する実体的な敵の存在することを前提とし、「自民党」という既存の政治組織をその中心部として見なしている所です。もっと言うと、朝三暮四で「操られている猿側」を非権力の大衆側とし、「操っている主人側」を自民党をはじめとする既存の政治権力機構側と見なすことを前提としていることが、世の実際を表していないように思われるのです。
 もっとも、現代大衆日本人が「黄色い猿」であることにはまったく異論はないですが、この場合、主人の方は猿の請求に迎合し続けなければ存立不可だったということも無視できない。ですから、(特に平成時代には顕著に)むしろ主人方は猿方の傀儡として操られる側に甘んじてきた……というのが私の見方です。

 故に、WJF様のように、世で起こる「二元的発想」というものが、何らかの敵の恣意によってのみもたらされているという前提は、ずいぶんと大衆に優し過ぎる見方のように思われるのです。それが大衆だからといって過剰に厳しく評ずる必要はないけれど、現実の実際として「二元的発想」のごときは多数派大衆の代表的性質の一に違いない。

 確かにグローバル資本やアメリカ、新自由主義者に自民党を傀儡せしめる恣意があることは明確だろうし、そうした部分を無視するわけにはいきませんけれど、それは自民党という「既存の政治組織」の全てを説明する要因にはなりません。はたまた、そうした既存の政治組織の組織性の中での政策的運動の範囲までを含めて「新自由主義と道州制の肚心を隠し持った徒輩」と換算するのは、「政治」と「権力」に対してあまりに不寛容というもの。
 政治と権力に不寛容であることそれ自体は別に構う所ではないのですが、その分だけ「自分は平均人様だ」と傍若無人よろしく好き勝手にふるまう多数派大衆の罪と低劣さが小さく見積もられることになってしまうのは都合が悪い。
 もっと言うと、自民党という既存の権力組織や、その助言者たる藤井聡教授の政治的ふるまいまでが「悪漠とした大衆操作者」と見積もられてしまうと、それらがスケープゴートとなって大衆平均人共は無罪放免屁のカッパということになってしまう。


 道州制や大阪都構想の場合、つまりはこういうことです。


 まず一方、「維新の会」とやらの特に大阪都構想における実体は、大阪周辺の大阪大衆平均人達のヘドロティックな欲情にあることは、他県民からすればかなり明瞭に見て取れるでしょう。
 大阪の市民は、「今の大阪が、十八番である商業ですら東京に遅れをとっているのはどうしてだろうか」と考える。その場合、大衆は「自分が悪い」とは考えません。何せ大衆ですから。「世界で一番生活の苦労をしているのは自分で、生活の苦労があるからには悪くないはずだ」と考えていやがるに決まっている。そして概ね大衆平均人は、「権力者、支配者、政治家、役人……が悪い!」とブーイングを続ける。また、「なぜそうした悪たる支配者、権力者が悠然としていられるか」と考え、結局「既存の権力機構、組織が、既得権益の吹き溜まりになって権力者がズルをしているからだ」と結論する。
 だから、「一旦、今の大阪市や大阪府から権限を取り上げちまうのがよろしかろう」と振る舞う。そういうことは大衆にとって非常な享楽で、大衆は権力から権力を取り上げるのがおもしろくてたまらないのです。
 さらに大阪の場合、妙ちくりんでみっともない「東京コンプレックス」があるので、新しく打ち立てる行政組織は「大阪都」という風にするのが最もスマートでよろしかろうと考える。もっとも、ご案内の通りいわゆる大阪都構想を決める住民投票は、これが通ろうとも名称は「大阪都」にはなりません。が、多くの大阪市民のイメージとしては「大阪都」というワードが念頭にあるのは紛れもない事実でしょう。また、理屈の上でも、今の大阪府にそれぞれ市が持っていた権限を集中させ、村長区の単位を広範な特別区として纏めあげるというのは、明らかに「東京都」をモデルにした発想なのですから。


 もう一方、そうした実体の腐根が「大衆」の方にあるというのは、「道州制」にしたってまったく同じです。つまり、道州制の実体は、日本人全体のヘドロティックな欲情にあるということ。
 その証拠に、「道州制」はそもそもが「地方主権」のドグマが大衆の中にあり、その拡張から成り立っているものじゃあないですか。
 例えば大衆は、小泉政権下で喧伝された「三位一体改革」における地方主権論を喝采していましたね。遡れば平成の御世から――はたまた戦後、あるいは近代(モダン)の純粋系として――という事になるかもしれないが、地方主権のドグマが大衆の請求によって色合いを強くしてきたことの証拠として小泉政権というものが提出できるでしょう。
 ここでは三位一体改革の説明は省きますけれど、この類いの愚かしい改革話がなぜ支持されていたのかを考えれば、やはりその祖は大衆のガキ性ということになる。尤も、小泉純一郎だって自民党じゃあないかと申されるかもしれないが、「自民党をぶっ壊す」といった言葉に象徴されるように、小泉政権の勢力が「自民党」というよりは「大衆」を背景にしていたことは紛れもない事実であります。「大衆」という暴力的な力の前では、「自民党」という政治組織の力は絶望的に無力だった……というのが小泉政権の大体のあらましなのですから。
 そして、三位一体改革が喝采されたゆえんは、以下のような大衆日本人の敷く低劣な前提があったからです。

1、政府からは権限を取り上げた方が自由で民主的である

2、中央政府に権限があるより、地方政府に権限を持たせた方が自由で民主的である

 こういった小学生級の前提が大衆世論の不文律としてまずあったので、三位一体改革、地方主権……といった志向が生まれてしまった。というか、そうした大衆迎合に最も長けた小泉純一郎がごとき輩に、力が与えられてしまった。

 しかし、生活の「運命」には一向に頓着しない大衆も、生活の「苦労」といったものには敏感であるからして、三位一体改革的な方向性のとある一つの問題点だけはかなり指摘されることになる。
 それはつまり、「地方切り捨て」の議論です。
 当時、「三位一体改革は、地方切り捨てだ」という反撃が世間でよくされていたのを記憶しております。私もその点あながち間違いではないとは思いましたが、しかし、結局のところ世間で言われていたそれは単に「弱い人が可哀想」とおセンチになっているに過ぎない反撃だった。しかも一方で、上であげた大衆の敷く二つの前提は手放していないという都合の良さ。
 そうなるとまたまた結局のところどうなるかと言えば、こうなる。すなわち、

「地方政府の単位を大きくして、そこへ権限を集約すれば、その規模故に地方自治体が各独力で存立しえるし、弱い都道府県もその州に含まれて運営されるからして切り捨てにならないはずだ」

 というような。

 そう。ですから、こうした大衆日本人による「地方主権のドグマ」の流れの上にあるのが道州制なのです。また、それが大阪に適用された場合は大阪都構想になっているというまでのこと。




 そうなると私は、道州制推進で新自由主義者とグローバリズムに国を売っていたのは、自民党というよりむしろ大衆……そこら辺にいる普通の平均的日本人の多数だったとしか考えようがないと思うのです。
 言い換えれば、維新の会の実体は「大衆」にあり、自民党に新自由主義的色合いを求めてきたのも大衆であったということ。

 しかし、「維新の会」と「自民党」では、決定的に違う要素がある。
 それは、「維新の会」が新参の新興政治勢力であり、大衆の欲情そのものであるのに対し、「自民党」は既存の政治組織であり、大衆の欲情に干渉を受けるものであるという点です。


 私は、大衆の浅薄で短期的欲情に対抗する唯一のものとして、「既存の組織体」の土台の中で育てられてきた人間交際のシガラミを重視します。既存の組織体は、それぞれ諸個人を制限し、選好を制限し、振る舞いを制限するが故に、それら歴史的制限の上で「常識」というものを形成します。この「常識」が、人間社会、天下国家の包括性、総合性を担保し、近視眼的な大衆の請求を棄却する唯一の対抗手段なのです。
 つまり、「組織」は古い方が良く、シガラミがある方が良く、既得権益に縛られていた方が良いに決まっているのです。

 政治組織においては、自民党や官僚の組織がそれにあたります。この場合、例えば自民党を「変える」というような志向ではなく、自民党の自民党的組織的シガラミを重視し、「元に戻す」とか「変えない」という事が重視されるべきでしょう。よしんば「変える」にしても、既存の組織を既存たらしめ、その組織の常識が現状においてより活かされるという風に変えられなければならない。それであれば、変革は現状に対応しての微調整というものに集約していくはずであります。

 その上で、もし人が「政治的な意志」を抱くとすれば、それはその既存の組織における既存性、制度、手続き……といったものを十分に尊重した振る舞いであらねばならぬはず。政治組織であれば自民党や官僚組織の既存性に即した形で、そして「嘘は言っていない」という言葉遣いの慎重さを持って、その政治的意志を実現してゆくような振る舞いが求められるということ。
 逆に言えば、政治的活動とは、こうした振る舞いの如何によって「正統性」のあるやなしやが評価されるべきなのです。

 ですからもしWJF様が、藤井教授の「大阪都構想:知っていてほしい7つの事実」や、自民市議団の柳本顕幹事長の議論を批判するのであれば、こうした正統性のあるやなしやが語られていなければならないのではないか、と考えるのです。私は、これらは立派な政治的活動であると考えますが、仮に「そうでない」と言うのであれば政治的活動としての振る舞いに至ってまで論じられての事でなければ不当のように思われる。
 それを、ただ単に「道州制に推進的な自民党に関わっているから駄目」というのでは、現実世界における政治的振る舞いというものが不可能になってしまう。何故なら、「自民党」は、「道州制に推進的な……」という大衆的属性と共に、「既存の政治組織」という属性もあるからです。
 もし、もはや既存の組織に即した政治的振る舞いということが認められない段階にあるというのであれば――つまり自民党という組織の政治体制がその「既存性」の中に含んでいた人間交際のシガラミや常識や総合性を完全に失っていると考えるのであれば――それは、正統なる政治的振る舞いそのものが存在しえないということになる。何故なら現今、既存の政治権力組織とは「自民党」と「官僚」しかないのですから。
 そういう判断であれば、そういう判断でもかまわないのですが、ならば、政治的言論というのもまた「既存」という正統性を失うことになるが故に、もはやペンを捨て、剣を持たねばならないという話になってくる。つまり、そういう判断をしているのであれば、事は暴力の段階に入っているという判断でなければおかしいということ。何故なら、既存組織を離れた所でペンを持って多数派を形成するというような民主的発想に、正統性などないのですから。
(媚びるわけではありませんが、私はWJFのファンでありますから、WJF様となら政治的暴力……つまり、暗殺やクーデターといった「行動」を共にする「同志」となる事も厭わないという空想が起こらないわけでもありません。が、私はまだ、日本社会における「既存組織」の残滓のようなものは残っているように考えていますので、暴力は最終手段として残しておこうと、一応考えています。)




 また、そもそも、「大阪都構想」や「道州制」が、「スパナで頭を殴られる」「金槌で頭を殴られる」と形容されるごときものであると考えるゆえんは、そうした「既存の組織的前提」が取り払われてしまうと、その組織と連関する形で存在している「既存の共同体の網の目」が融解してしまう……と考えるからこそのことじゃあないのでしょうか。共同体の網の目は、あらゆる既存組織、また既存組織の枠組みというものの連関で出来ており、そして最終的に「日本」という既存の天下国家観で収束されている。
 加えて言えば、地方行政単位や地方自治体といった役所の制度も、超然と空の上に佇んでいるのではなく、動体的な共同体に埋め込まれた形で連関して存在しているのです。逆に言えば、非政府の「共同体」も、既存の制度や行政単位から超然として営まれているわけではなく、地つながりで連関して生活の実際がある。
 そして、「生活の苦労」を楯にした大衆人の反政府的欲情が、「国民の生活の実際(ネイション)」を蔑ろにするという所に、「大阪都構想」や「道州制」の根本問題があるはず。(この問題が、グローバル新自由主義や共産主義コスモポリタンに都合が良いというだけのことのように、私には思われるのです)

 ならばそれは、「政治権力組織」についても同じ風に考えられていなければおかしいのではないでしょうか。
 つまり、これまでの政治権力体制、制度、手続き、すなわち、地方組織と自民党組織との関係、自民党組織と議会や官僚との関係、中央官僚と地方役人との関係といった既存の政治的人間交際(ステイツ)が、既存の日本国民生活の実際(ネイション)と地つながりであるという意味で。


 すると、それこそ「多元的」に考えるとするならば、こうはなりはしまいか。
 既存の日本文化圏(ネイション)にこだわるなら、人間交際の土台であり舞台である「既存の行政単位や制度」はある程度硬直的でなければならないし、また、こうした単位や制度を運営し演出する「既存の政治権力の網の目」もある程度硬直的でなければならない、と。
 そして、「既存の行政単位や制度」を保守しようという政治的意思、志向があるとすれば、その実践方法としては「既存の政治権力の網の目」に即した政治的振る舞いでなければ、総合的、包括的、多元的に見て整合しない。つまり、もし「道州制」を阻止しようとするにしても、その「阻止」の志向を下支えする大義を損なわぬ為には、「自民党や官僚という既存の政治組織」にある程度即した政治的実践が求められるはず。たとえ、自民党そのものの内に「道州制の推進」が現れていようとも、です。



 以上が、私なりに多元的な保守の姿勢を発揮して考えた事でありますが、WJF様はこうした点についてどうお考えでしょうか。
 尤も、このような弱小ブログで問うたところで、目に触れぬ確率の方が高いことは承知仕る次第ではございますが……



(了)


関連記事
スポンサーサイト

Category: 未分類

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://shooota.blog.fc2.com/tb.php/248-1ec1473e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)