08 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 10

日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

TOP > スポンサー広告 > title - 貴人と賎民の差――良心に基づく民主主義批判 TOP > 未分類 > title - 貴人と賎民の差――良心に基づく民主主義批判      
  

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Category: スポンサー広告

tb -- : cm --   

貴人と賎民の差――良心に基づく民主主義批判 


 今日は少し哲学的な思索から出発します。

 まず、「美」ということを考えてみましょう。
 美しい……と感じる心。そういう気団が心のうちに生じることが人間にはある。これは人間普遍的なことです。

 紀貫之は土佐日記で「楫とり、もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひ」=「船頭は情緒を介さないので自分勝手に酒を飲んで……」という風な表現している。つまり、ものを「あはれ」と感じる情緒は高貴なる歌人にしかなく、船頭などという下賎な連中の心の中には情緒などうまれはしない、ということを意味しているわけです。

 でも、これはおかしな話ですね。だって、心の中に「情緒」の浮かばない人間などいないでしょう? 貴族であろうが、平民であろうが、船頭であろうが、乞食であろうが、世界の美しさに接して心に浮かぶ情緒そのものは普遍的に存在すると考えるのが、どうみたって妥当です。

 しかし、ここで気をつけてもらいたいのは、だからといって「全ての人間に同じ価値がある」ということにはならないということです。世間では、情緒の領域が人間普遍的だからといって、生きている人間の価値が全て同等だと早合点する輩が多すぎる。そんな風に安直に考える仕方は、「自由と民主主義」が大好きな現代人の悪弊で、人間の価値には貴賎がある。絶対にある。また、あるべきである。

 ただ、「心に浮かぶ情緒の段階」では、その貴賎の基準になりようがないという事はきちんと認識しておくべきなのです。土佐日記の「楫とり……」の文はそういう意味での紀貫之のミスであるというだけで、「人に貴賎のある」という前提そのものは別に間違っていない。
 では、人間の価値、貴賎というのは、どのような心の段階をもって量られるのが適切か?
 それは、そうした自分の「心に浮かぶ気団としての情緒」を「解釈」する精神的作業の厚みをもって量られるべきなのです。

 例えば、「船頭」の心には情緒が浮かび得ます。花にだろうが、霞にだろうが「あはれ」という気団が心に生じる。これは人間だから当然です。しかし、そうした自分に生じている情緒の気団を解釈しようとする精神作業……つまり、「綿密な自問」は、船頭ではできぬことです。自問というのは、思考の領域ですから、すなわち言葉の領域です。だから、この解釈、思考、自問といった領域こそが、「歌人」の住処なのです。つまり、言葉を操り、「私」という経験主体と「世界」という経験客体の総体を解釈する言語作業の厚みが、貴人と賎民の違いである。



 これは「美」についてだけではなく、例えば「良心」ということについても同じことです。
 人間は、(生まれ持って狂人の0.1%のモンスター以外は、)99.9%の人間に「良心」というものがあります。
 だから、「良心のあること」は、別に人間の高貴さのゆえんにはならんのです。そういう心の気団というのは万人が持っているのですから。自分の心に絶対あるはずの良心を、自問によって解釈する言語的、精神的作業を経てはじめて「良心」というものが現実世界に活きてくる。

 こうした解釈、思考、自問といった領域が、なぜ人間に高貴さを付与しうるかといえば、その精神作業はとどのつまり最終的には「崇高なるもの」へのつながりに収束していかざるを得ないからです。西洋で言えばゴッドとの解釈的筋道ということになるが、我々であれば天皇……あるいは天皇が媒介となって先にある「太陽」への解釈的つながりを持とうとしていく。
 そもそも、人間にこうした崇高さへの解釈的連なりがなければ「文明」というものはありえないのです。また、「文明」は人々がどう正統なる崇高さへの解釈的道筋を発現するような「自問」や「人間交際」を獲得していくかによって、興亡が決まってくる。
 ですから、文明は時間の進むごとに進歩していくものではないのです。時間と共に必ず進むように見えるのは科学技術(テクノロジー)だけで、文明は春夏秋冬四季のごとく発達したり衰えたりするものなのであります。とりわけ、高貴、崇高といったものを失った文明にもたらされるのは、いいとこ科学技術や便利の発達だけで、「文明」は没落してゆくのです。日本文明の場合、太陽の燦燦と降り注ぐ夏は徳川時代にあり、されど明治のご維新で寂しげな秋を迎え、大東亜戦争後には冬が訪れ、現代になり文明の幕を閉じようとしている。


 さらに、ここで「政治」や「統治」に、人々の「良心」を活かそうとした場合を考えてみましょう。この際、よくされる過ちが、「民主主義」と呼ばれる最悪のイデオロギーです。
 すなわち、人間には99.9%の人に良心がある。だから、0.1%のモンスターに政治権力を握らせない為に、100%全てへ平等に権力を割り振ればその多数は「モンスターが導くような最悪の結論」は導かないだろう、と。また、民主主義は「ベスト」は導かないかもしれないが「ベター」は保証する……などと言われたりします。
 しかし、それが過ちなのです。少なくとも私の物心ついた以降の世の中では、「民主主義」は常に最悪な結論を導いてきた。
 それは当たり前です。だって、99.9%の持つ「良心」は先で申した心の気団の領域であり、それを自問の領域でもって現実世界に活かすという高貴なる作業を実とする者はほとんどいないのです。おおよそ、政道に向けて良心を活かす言語的自問を積み重ねた者は、これも全体の0.1%ほどではないでしょうか。

 ですから、「万民に良心のあること」は、「万民に政治権力を振り分けること」の根拠にはならないのであります。だって、良心を持つ万民は、その良心を言語の領域にまで発現させることができないのですから。実際に民主的に多数の言葉として現れるそれは、常に最悪の言葉群(世論)となって現れる。その最悪な言語群であるところの「世論」に支配された世の中では、政治家は常にその最悪な結論に従って政策を執りおこなっていかねばならなくなる。だから、今の世の誰が可哀想かって、政治家が最も可哀想なのです。

 我々が、真に万民の良心に基づいた「輿論」を人間交際の網の目に活かそうとするのなら、むしろ0.1%の崇高なる自問を経た貴人の言葉をどう政治に活かすかという事を考えるべきなのであります。
 逆に、もし、いつまでも「民主主義」などという眠たい話にうつつをぬかしていると日本文明はこのまま溶けて流れて没落、消滅してゆくに相違ないのです。後に残されるのは、非文明的で無色透明な「文字列としての法」と「科学技術」だけの野蛮地域ということになるでしょう。



(了)
関連記事
スポンサーサイト

Category: 未分類

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://shooota.blog.fc2.com/tb.php/251-a259cd2b
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。