04 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 06

日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

TOP > 未分類 > title - 『維新』とは何か?      
  

『維新』とは何か? 


 「維新」という言葉がありますね。その「維」という文字は、そもそも「糸の筋」を表していて、それが転じ「国家の大綱」というような意味合いを持った。
 ですから、そもそも明治の「維新」という言葉は、復古によって新しきを得るという所から来ていると思われるのです。要は、「本来、天皇にあったはずの統治権を、武士が掌握してしまっている」という心地の悪さが徳川時代に至るまで我が国の底流にあって、危機にあたり王政復古によってその心地悪さを払拭しようという所に、「倒幕」という最悪な不道徳の中にかろうじて微かな大義を主張することができたということ。

 一方、現今に至っては「維新」という言葉を単に「新」の一文字だけに注目して、「既存の政治家や役人(シロアリ)を排除する為に、政治制度・行政枠組みを改変する」というものとして考えられている傾向が非常に強い。つまり、もはや微かな大義すら主張しなくなっているのです。またその文脈で、明治の「維新」の方も返りみられることが多くなってきてはいまいか。

 そもそも、オリジナルの明治「維新」の方も、あれが本当に良きものであったかどうかは非常に疑わしいものです。いや、むしろ大いに疑ってかかるべきものでしょう。

 しかし、現今は、保守派と呼ばれる人々であってもそうなのですが、明治の維新を「進歩」や「開明」の文脈で捉えて、これを礼賛するという輩が多い。つまり彼らは、徳川時代までの「封建的」で「階級的」な社会を、「黒船」という危機に対処することで刷新した所に日本を誇る根拠を置くわけです。このやり方は、昭和時代までは、丸山正男などの左翼の手法だったですよ。そうした連中は、おおむね「日清・日露までは開明的で合理的で素晴らしくて、大東亜戦争に差し掛かるに従って軍部が暴走した。けど国民の一人一人には罪はない」みたいな論筋を前提とする。これは多くの日本人に受け入れられる論筋であるが、私はこんな都合の良い歴史観には正直反吐が出る。つまりいわゆる「司馬史観」というヤツですね。これならばまだいわゆる「自虐史観」の方が全然マシなくらいですよ。

 勿論、黒船に象徴される「世界が狭くなった」という(現在完了進行形の)この危機に、「対処する」ということは必要なことでありましたし、西欧列強の侵食に対処し闘ってきたことに誇りを持つこと自体については悪いとは言いません。
 しかし、その危機に対処することによって内的な「既存の権力(幕府)」を打破し、「封建的階級」を打破し、開明的で進歩的な「自由と民主主義と資本主義」を取り入れることができた……というような志向が含まれると、「維新礼賛のケ」がでてくるわけです。この維新礼賛のケには、つまり「一般大衆」が外国からの圧力に弱った「既存の権力」から権限を剥奪し、「自由と民主主義と資本主義」によって啓蒙的・進歩的な恩恵を受けたのである……というような歴史的ストーリーが必要とされます。だから、大衆にとって司馬史観というのは都合が良いのです。何故なら、「維新礼賛のケ」を担保してくれるストーリーだから。

 そして、絶望的なのは、「保守だ、日本が大切だ!」と言いながら「維新礼賛のケ」を前提とすることは、世間的にはごく一般的な「保守の態度」として見られてしまっているということです。
 すると、「維新」=「一般大衆が外国からの圧力に弱った既存の権力から権限を剥奪し、自由と民主主義と資本主義によって啓蒙的・進歩的な恩恵を受けた」というような極めて左翼(リベラル)的な文脈の論理を、保守と呼ばれる多数の者達が喧しくのたまうという事になってしまう。
 また、このリベラルの文脈が平成に至っては広く繰り返しされてきて、「政治制度改革、行政改革、郵政改革、民主党政権交代、構造改革」といった様々な諸改革となって急激に国家を滅びへと誘っているわけです。

 その最も純粋化されて象徴的な存在が、現今の「維新の党」という存在でしょう。勿論、「維新の党」は関西圏以外ではもはや注目されるようなモノではなくなっていますが、関西圏での彼らを俯瞰すると、それは平成の日本人の愚劣な振る舞いを純粋化して濾しだした象徴的な存在であると見れるのです。
 逆に言えば、維新の党のやるような大衆迎合が忌避されるような言語空間さえ醸成できれば、我々は日本の滅びを百年先延ばしにすることができるに違いない。

 いま、俄かに騒がれている「いわゆる大阪都構想の住民投票(大阪市を廃止してよいかを決める住民投票)」ですが、こうした「大衆迎合を忌避する言論空間」を志向する為にも、「日本人全体」が唾棄しておくべきシロモノなのだと思います。
 つまり、改革とか「維新」とかいうものは基本的に大衆迎合の手合であるという認識を、日本人の「常識」にせしめるべきなのです。




(了)


関連記事
スポンサーサイト

Category: 未分類

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 0   

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://shooota.blog.fc2.com/tb.php/259-92f0568c
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)