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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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日本国と保守的態度の考察 六 

 まず、これは決して安っぽい偽悪で言っているわけではないことを申し上げておく。 

 さて、現代日本において少し学問の出来る奴に対し、「自然権としての『人権』など存在しない」と言うと、大変ヒンシュクを買う。
 しかし、俺からすると、神を信じているわけでもないのに、あたかも「人権認めざるは人に非ず」のように言う連中は常軌を逸しているように見える。

 誤解を避けるために、ここで否定する『人権』とは、ロックやルソーが唱えた「自然権としての人権」という、現代の日本において日本国憲法や、教師や、マスコミが好んで使っている意味においての『人権』であることを申し上げておきたい。
 俺を含めた、ペーペーの日本国民が、『人権』と聞くと、「人間どおし大切に思いましょう」くらいの意味で捉えていると推測するが、これなら別に問題はない。そして、俺はこっちの感覚の方が遙かにまともで正常で自然だと思う。

 ただ、日本国憲法の『基本的人権』や、その元になっている『自然権』は明確に否定すべきだ。
 何故なら、自然権としての人権とは、「自然状態で、神が一人一人に与えた権利」なのである。
 これは無いだろう。存在しない。あり得ない。
 善い悪い、ではなく、無いのだ。
 何故なら、神(ゴッド)がいないからである。
 天が回っているのではなく、地球が回っているのだーーというのと同じように、「神が一人一人に与えた自然権としての人権などは無い」と、俺は断言できる。
 処女が救世主を生んだなどという、他文化の伝説を信じろと言われても、到底信じることができないのと同じくらい、「神が一人一人に与えた自然権としての人権」を信じることはできない。

 神はいないし、地球は回っているのだし、処女は子供を生まないし、自然権としての人権は無いのである。

 もしね、俺がキリスト教文化圏の国に生まれたんだとしたら、ゴッドを信じてもいい。何故なら、その生まれ落ちた共同体における共有世界観だからだ。神を信じることができなかったとしても「神などいない」なんて言葉に出さないくらいの儀礼が必要とされるだろう。

 しかし、日本国民が全体としてキリスト教の全知全能の神をぼんやりと信じなきゃならん義理など一ミリリットルも無い!

 そりゃあ、キリスト教文化圏の人の前で、「ゴッドなんぞおりゃあせん」と言ったら、それはマナー違反である。ただ、それは異文化への理解という節度と態度の問題だ。
 我々日本国民が、「自然状態にて、一人一人がゴッドに与えられた権利が崇高だから、その場でその一つ一つを足し算したのが主権です」という価値体系を受け入れてはならない。
 何故なら、それは日本国の主権の説明に、実はなっていないからだ。
 自然権は、神の設定が不可欠な観念である。多くの人は、「基本的人権は信じても、神なんて信じてねえぜ」と思うかもしれないが、それでは文脈に合わないと本当に思わないのか?
 日本では、あたかも憲法が空から降ってきた物かのように捉えられてしまっているのが現状で、無認識に「それぞれ個々人に人権が空から降ってきて、その人権が大切だから国家があるのだ」と思っているのだろうけれど、神を信じていないのならば、人に権利を与えたのは一体全体何だと説明するのだ。
 これではつまり、『神』(ゴッド)という言葉を使っていないだけで、神(ゴッド)への信仰をしているのと変わらない。
 神や神秘や世界観は、その文化圏、共同体の歴史の上で構築されていった観念を引き連れていなければ、『主権がある』とは実は言えないのである。(主権に関しては、後に語る)
 「基本的人権のようなもの」を認めるとしても、それを与えたものを設定しなければ文脈に合わない。そして、その設定は共同体、文化圏の歴史的な神秘的価値、権威的価値、が反映されていなければ国家を名のる文脈に合わない。また、文化圏の歴史を引き連れた設定の元で個々人の価値、権利を考えるしかないということは、『基本的人権』など存在せず、『基本的国民の権利』しか存在し得ないことが明白である、ということでもある。

 つまり、ルソー的な自然権、自然法、理性、一般意志(世論)、人民主権、という一連の価値体系には、(宗教を排すると言いつつも)神が存在するのは大前提だという感覚の下に展開されたのであり、日本が全知全能の神とやらを共有しない文化圏である以上、受け入れる余地はないということだ。
 また、日本国憲法にそういった種類のことがのっていたらば、それは憲法が国家に違反しているのであり、国家に違反している憲法なんてちゃんちゃらおかしいというだけのことである。

 以上の宗教上の事由がまず一点。

 だいたい、実際、自然権など認めると、人間と他生物が一匹づついたとして、あたかも人間一匹の方が絶対的に崇高で偉いみたいな論理になってしまうではないか。

 別に人間は、他生物に比べて偉くない。崇高でもない。動物愛護の精神を発揮しているわけではなく、実際に、現実に、間違いなく、人間一匹と犬一匹で絶対価値の違いはない。(くどいようだが、神がいないからだ)
 人間は、(今のところ)他生物より強いだけである。
 それも、人間が裸一貫独りぼっちならば、猫より弱いのだ。
 人間は、言語的動物であるが故に、社会的動物であるからこそ、原人の時から他生物を圧倒してきたという厳然たる事実がある。つまり、集団民だとか、集落民だとか、村民だとか、町民だとか、国民になって、ようやく個々にも権利が生じる。「権利が生じる」というのは、他生物より強くなる、他集団より強くなる、ということである。

 さて、ここで、『自然状態』なるものが、ホッブズの言うとおり、フィクションであることを考えてみたい。

 自然状態はフィクションである。

 社会契約説というと、ホッブズ、ロック、ルソーと中学だか高校だかで習ったと記憶している。(実の所、ホッブズと他二名とではほとんど真逆のことを言っているのだが、それは後に)
 『自然状態』とは、国家を含めたあらゆる社会集団が存在せず、政府機関も、政治機関も存在せず、人間が個々人で単独にバラバラにある状態ーーのことを言う。(最初聞いたとき、全然不自然じゃねえか、と俺は思ったね)
 これがフィクションであることは、現在のあらゆる文明において普通に教育を受けていればわかるはずだ。
 何故なら、人間が、ホモサピエンスに進化した時点で既に共同体を組み、共同生活をこなしていたということは明白であるからである。
 ホモサピエンスは言語を用いる。共同体が無ければ言語は生じないから、ホモサピエンスが生じるより前に既に共同体があったのであり、「個人個人バラバラに生まれてそこから集団を組んでいった」なんてことは、物理的にあり得ない。
 我々は、アウストラロピテクスから、原人に進化していって、クロマニョン人から最後にホモサピエンスになったということを知っているだろう?

(誤解をしている人がいたらまずいから補足を。人間は猿から進化したんじゃない。『猿のようなもの』から進化したのである。現在生息する猿たち、例えば日本猿やオラウータンはホモサピエンスに進化しない。彼らは彼らで、今のところの進化の最終結果なのである。進化の結果、猿は完全に猿になったのだし、犬は完全に犬になったのだし、象は完全に象になって、人間は完全に人間になったのだ。だから、日本猿やオラウータンが「人間になりきれてない者達」という捉え方は非科学的な誤解である)

 つまり、「人間が共同体に縛られず個々人でバラバラに存在する」という状況は、「神が人間を個々人でバラバラに作り出した」というフィクションの元でしか成り立たないのである。


 何が言いたいかというと、日本国がフランス革命思想を拒否しなければならない理由として、最初に「宗教上の理由」を上げたわけだが、二点目として「文明としての理由」もあるのだと主張したいのである。
 フランス革命思想の中核を担ったルソーの思想は、まず『自然状態』がフィクションであることをもって現実を動かす思想に値しないと言えるが、その上、あらゆる文明、国家において、必然的に歴史的破壊を想起させる空想を乗っけたものだから、さあ大変である。
 その文明上の理由の説明の詰めは次回にしよう。

 というのも、これはやはり、ホッブズ、ロック、ルソーそれぞれの社会契約説を解説しなければ説明がつかないかーーと思うのだが、解説なんてつまらなくて面倒だから、なんとか解説などせずに出来たらいいなあ、という怠け心が、他の表現を模索させているからである。
 まあしかし、やっぱり解説しなきゃ無理だろうなあ。



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