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日本が日本であるために

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「言論の自由」という闘争のイデオロギー 





 私は、世で言われる「言論の自由」という言葉を、根元的に、まったく意味の無いものだと考えています。

 そもそもこの言葉は、ある者に言論的権限を与える一方、ある者の言論を圧殺することとなる論理的必然性がある。
 たとえば、なるほどマスメディアは政府の掌握していた情報統制の権限を剥奪し、「政府を弾圧する言論の自由」を得ました。しかし、今度は非マスメディアが「マスメディアによる弾圧の権限」を剥奪する、「マスメディアを弾圧する言論の自由」というものが出てきた。

 昨今でも、都合の良い小説で大衆の歓心を買った大衆作家によって「沖縄の新聞は絶対に潰さなければならない」というような発言がされましたね。沖縄の新聞に問題があることは存じていますが、大衆作家風情にどうしてそんなことを言って良いケンリがあるでしょう。それをまた「彼の言論の自由を守らなければならない」などと言って囃し立てる輩まで出る始末。
 これに対し、小林よしのりという漫画家が、「百田を叩くのは言論の自由である」という風に言っていたのは非常に示唆的でした。つまり、この種の闘争には際限がないということ。

 要するに、「言論の自由」という言葉そのものに、ある種の闘争への装置が含まれているということです。今日はこのことを詳らかにしていきたいと思います。




 まず注意して欲しいのは、世の中で言われている「言論の自由」とは、必ず「政治的決定権(権力)」にまつわる「言論」を指している、ということについてです。
 たとえば、我々は人として健常者の能力さえあれば、発音する権利は自然権(能力)としてあります。
 穴の中へ向かって、「王様の耳はロバの耳」と叫ぶ。あるいは、広告の裏紙に自分の好きなコトを書く。まず、こうした「自分以外の誰も聞かない、読まない」という言説について考えてください。

 この場合の言論の自由を制限しているのは、自分の思考と心……つまり「私」ですね。私が発声できる言葉は思考(言語化)に制限されていますし、思考(言語化)の限界は「心」に制限されています。
 つまり、まず初めに「私」の言論の自由を制限しているのは「私」なのです。

 ただ、残念ながら、世の中で「言論の自由」という言葉が使われる時、こうした「私に制限される私の言論」のことは遡上にはあげられていませんね。
 一般的に言論の自由という言葉が使われる場合、それは「支配し、支配される関係の中での私の言論」のことが話題になっているわけです。

 言い方を換えれば、「言論の自由」という言葉が使われる場合、言論は言論でも「政治的決定権にかかわることを意識しての言論」について言われているということです。




 続いて、「自由」という言葉を考えてみましょう。
 私はこの言葉が嫌いなのですが、もともと日本では明治に入るまではこんな妙ちくりんな言葉が使われていた形跡はないので、昔の日本人というのは今のそれよりもよっぽど上等なものだったようです。
 とどのつまり、「自由」というのは西洋からの外来概念であるわけですが、その元の語が何かと言えば「フリー」や「リバティ(リベラル)」ということになりますね。

 そして、この「フリー」「リバティ」といった言葉は、そもそも、「貴族や領主などへ、特別に与えられた権限」という意味であったそうな。
 つまり、もともとは、力ある者がその力によって自由にできる領域のことを自由(フリー、リバティ)と言ったのです。

 それが今日のような意味になってしまったのは、この語が使われる場合の主語が、「貴族、僧侶」から「市民」へと入れ替わってしまったからです。
 そして、「階級の低い弱者が、強者の持つ『自由』を剥奪する」という文脈で使われるようになってしまった。

 何故このような主語の反転が起こったか。

 本来、高い階級が保持していた「自由」は、低い階級……つまり市民階級よりも大きかった。が、市民階級からすると、その理由を「貴族に力と高貴さがあり、自分にはないから」と認めるのはあまりにもツラい。ので、市民らは「力あるもの達はズルをしているのだ」と結論付けて自分を慰めるようになる。また、この心的論理づけを下支えするために、「良き者に力が備わり、悪しき者には力は備わらない」という道徳的前提から「強き者は悪しきもので、弱き者は慎ましやかで結構」という道徳的前提へと、道徳の価値反転現象が起こされる。
 この道徳の反転現象を、ニーチェの造語で「ルサンチマン」と言います。


 また、都市化や印刷技術の発達が起こると、ひとつひとつの情報が大量に世へ散布されるようになります。つまり、社会が大衆情報化する。大衆情報化した社会では、「大量」であることが社会の最も高い価値であるようになってしまう傾向が非常に強い。

 例えば、スペインの哲学者ホセ・オルテガという人が、ある伯爵婦人のこんなセリフに驚いたらしいですよ。
 伯爵婦人いわく、
「私、800人以下の舞踏会には参加する気がないの」
 と。
(解説するまでもないかとは存じますが、ここで驚かれるべきなのは、伯爵婦人が舞踏会の価値を参加者の「階級」ではなく「数」においていたことなのですよ)

 このように、大衆情報化した社会で、「大量」という所に価値の基準が置かれてくるようになると、先で言った「力あるものはズルをしているのだ」という感情が、むしろ社会の主役のものと捉えられるようになる。何故なら、大衆社会の一粒一粒の大多数は力を持たないのであり、コトが大量であることに価値が置かれるようになれば、必然、ルサンチマンの代弁が主流となり言葉形成の上でも主語を獲得してゆくに決まっているからです。

 こうして、自由という語も、「力ある貴族の権限」という意味合いから、「凡庸な市民による自由の獲得(free of)」「権力者からの解放(free from)」「凡庸な市民による権力への自由(free for)」といった意味合いへ堕落していったのであります。

 この堕落した「自由」という言葉には、実は「Aという集団からBという集団が、ある権限を剥奪する」という関係的側面が常にあります。また、その剥奪の基準は常に「平等」という所に置かれる。そして、平等の基準は「民主主義」というものに置かれるのです。

 例えば、「貴族」から「市民」が権限を剥奪して自由を獲得する場合、それは双方の平等を民主主義(大量)を根拠にして謳うわけです。
 あるいは、「市民ブルジョワージ」から「労働者階級」が権限を剥奪して自由を獲得する場合も、双方の平等を民主主義(大量)を根拠にして謳う。

 前者の闘争を国是とするものを「左翼アメリカ型」と呼び、後者の闘争を国是とするものを「左翼ソビエト型」と呼んで差し支えないでしょう。双方とも、自由と平等と民主主義を根拠に、啓蒙すべき光の指す方を弁証法的に導きだすイデオロギーなのですから。

 そう言えば、戦前のアカの潮流で、「二段階革命論」という考えがありました。すなわち、「一段階目は封建社会を打破する市民革命が起こり、二段階目には労働者階級による共産主義革命が起こり、人類の歴史は完成する」という進歩をストーリー立てて前提するやり方です。

 日本においては、戦後1950年代に共産主義革命の潮流は一気に引いたのですが、一段階目の方はインテリの啓蒙的ストーリーとして根強く温存されてしましました。つまりサヨクは、「社会主義」の一方で、「自由(リベラル)と民主主義」というものに収束していったのです。

 しかし現今では、そうした極めて啓蒙的な自由民主主義が、単に「共産主義ではない」というだけで「サヨクではないニュートラルなもの」として前提されてしまっているように見受けます。特に冷戦後の日本人は、パクスアメリカーナ、アメリカによる地球平定を、歴史の最終終着点と考えて、自由と民主主義を「普遍的価値」と前提して憚らなくなった。
 いや。というか、アメリカによる日本の平定と自由と民主主義が、百年単位で国を溶かすとは薄々察知しながらも、その一瞬間一瞬間の日本人にとってはなかなか居心地が良かったので、左翼というものをとりたてて「共産主義」に限定しておいた方が、先人と子孫への裏切り感を緩和しつつこれを受容し続けられて都合が良かった……という、自己欺瞞のバイアスがあったんじゃないでしょうか。

 しかし、もし「自由民主」にしろ普遍的な人類の最終終着点なるものが存在するのであれば、「サヨクが正しかった」ということになるのですよ? だって、最終終着点へ向かって弁証法的に人類の歴史が進歩する……というのが左翼思想の根幹なんですから。
 左翼が間違っていることの最大の左証は、「左翼イデオロギーがひとつではないこと」なのです。逆に言うと、共産主義が間違っていたのは、共産主義以外にも左翼イデオロギーがあったからなのです。
 そして、共産主義ではない有力な左翼イデオロギーとは「自由(リベラル)」と「民主主義(デモクラシー)」であります。日本人の狡猾な欺瞞を徹底して排除して言えば、これは国家を百年かけて溶かす、純然たる左翼イデオロギーなのです。




 もちろん、弁証法、アウフヘーベン……すなわち「議論」というものの重要性は、私も認めます。
 しかし、市民社会の各々が、その「立場」や「階級」や「分」を越えて易々と日本国家全体の政治にピーチクパーチクいちいちいちいち文句をつけて良いなどと思ってもらっては困るのです。
 いや、と言うよりも、人間社会一般として、そのような権利がまんべんなく付与しうるものだという前提に立ってもらっては困る。

 議論とは、数々の前提があってはじめて成り立つものです。「言語、語法」の前提から「場」の前提……あらゆる前提に制限されて、人はようやく議論を成り立たせることができる。そして、人を「場」という前提に着かせるのは「共同体」以外にありません。基本的に人は、自分を埋め込む有機的な共同体の中で、役割に準じた言論だけが実体的なもののはずなのです。

 現今のように、有機的な共同体から逸脱した言論が氾濫したとき、我々の諸個人は情報の波に溺れることになります。そして、その一人一人は、大量の情報の中からたまたま得た情報と、たまたま得た経験……つまり、社会のごく一部をもって、その国家全体の政治に関して口を出すわけです。口を出して良いと勘違いする。当然のケンリだ、と。それは大衆平均人の喫茶店での会話から、大衆専門人によるインテリな発言に至るまで。

 なるほど。それぞれ一つ一つの意見は、彼の観想した一部分のみを改善する為には理想的な全体像を提出することが出来るでしょう。が、それは全体の項目を網羅するものにはなりえない単純モデルであるがゆえに根本的な欠陥を抱えた全体像なのです。
 そして、政府から「情報統制の権限」を剥奪して得たものは、市民社会に乱立する「欠陥を抱えた全体像」がそれぞれに群れて言論のシェア争いをするという「自由」だけだったわけです。

 だから「言論の自由」という言葉には「意味がない」のです。

 人間は、個人の能力で社会のあらゆることを把握できない以上、それはやはり有機的な共同体の連なり……小集団から種々の中間的組織、そして国家に至るまでの連帯の中で役割を演じる他ない。個人はその役割に制限されてはじめて実体的な議論が可能になり、隣人とのアウフヘーベンも可能になる。また、議論可能な小集団から国家の間に幾重もの中間団体を折り重ねるように配すことができていれば、各小集団によって行われた知見を吸い上げることのできるような強靭な中央政府を形成することができるかもしれない。この場合は、多少の凹凸はあっても、国家全体の項目が網羅された全体像となりますでしょう。


 さらに、ここで重要かつ重大なポイントがあります。
 それは、こうした有機的な共同体形成による議論の発達は、「個人の自由意思で選んだものではないもの」によってある程度あらかじめに規定されている必要があるということです。
 自分で選んだものではないもの、というのは「運命」ということです。言語、信仰、親、家、血縁、地縁、世襲、偏見、道徳、コネ、シガラミ、既得権益……といった「自分で選んでいないもの」に帰着した上で、「立場」や「階級」「分」がわきまえられていなければならない。

 もちろん、本当に嫌だったり、本当に別のものを選びたいのであれば、選んで良いと思いますよ。それはそれこそ政治的なことと無関係に、自分で勝手に選べば良い。が、何から何まで「選ぶのが良い」というのはガキの発想です。選ぶのは本当にこだわりのある一部で十分だし、そうした選択は別に社会に保護されている必要などない。

 つまり、共同体は共同体でも、自分で選んでいない「運命共同体」こそが必要なのです。
 この「運命」ということがないと、言論というものに、信仰ないしは信仰に準ずる「良し、悪し」を基準付ける絶対性が想定されなくなってしまいます。するとこれは、単にそれぞれが言いたいことを言う言論の自由、欲望礼賛の言論、価値相対主義というものに堕す。あるいは、理屈のための理屈のような空論が蔓延ることになってしまう。





 世の中ではなにか、

「立場の高い人の言論は制限されるべきで、立場を持たなければ持たないほど何を言っても良くなる」

 という酷い誤解がされているように見受けます。

 が、これが逆なのです。
 普通、立場の高い者にはより広い言論的権限があって然るべきだし、立場の低い者が口を挟んで良い言論的領域は限定されているべきでしょう。
 自分の家族のことを考えてください。普通、子の口だしして良い範囲は、家長の口にして良い範囲より狭いはずです。
 同様、仮に同じ言論を行ったとしても、その言った人の立場、階級が高いか低いかなどによって、その言論が許されるか許されぬかが決まってくるのは当然のことです。

 例えば、ある国会議員と、ある大衆作家がいたとします。この場合、当然、国会議員の方が大衆作家風情よりも階級は高い。よって、国会議員が言うのは許されるべきだが、大衆作家風情が口を出すべきものではないという領域はあるでしょう。仮に、その大衆作家が多くの民からの選好を集めていたとしても、そんなものは何ら政治的正統性とは関係がないのです。

 あるいは、言論の統制についても同じ事が言えます。
 言論には秩序が必要であり、とりわけ大量情報によって混沌の体をなす近代社会においては、中央政府による「言論の統制」がおそらく必要でしょう。今日のごとき野放図な大衆言論空間は、日本の国を滅亡させている大きなひとつの要因です。ですから、マスメディアへの介入ということは、行政権限としては認められるようにしていかなければならない。

 しかし、そうしたマスメディアへの統制は、高度な行政権限ですね。ですから、そういう立場にない者……例えば、いち自治体の長やいち新興政党が、自分達の政策実現のためにメディア介入をするのは、あきらかに「分」に合っていない。階級の身の丈を越えた越権行為です。単なる成り上がり者にそのような権限が認められて良いはずがないでしょう。
 むしろ、こうした単なる成り上がり者によるメディア介入を排除するために、中央統治権力がこれを統制する権限を持つべきなのだと考えてはいかがでしょうか。





 もちろん、言論には中身の精査が必要です。その言論に正当な義があるかどうか、ということですから重要なことです。
 ですが、「どのような立場、階級の者の発言か?」というのも同じくらい大切なのです。これは正統な礼、姿、フォームというもの。
 元来、正当な義とは、正統な礼があってはじめて成し得るものです。何故なら、言論の中身の精査のためにも、その人間の「分」に適しているかどうかが「良し、悪し」の重要な基準となりますでしょう。

 また、「自由」という言葉の本来のところを考えれば、そういうことでもあるのです。と言うのも、自由という言葉は「自」の「由」でしょう。つまり、「自分の理由」ということです。また、自分の理由に則した振る舞いというのは、自分の分に則した振る舞いのことですね。
 つまり、「言論の自由」ならば、「自分の分に則した言論」ということでしょう。

 冒頭で、「言論の自由という言葉には意味がない」とは言いましたが、こうした意味での言論の自由であれば、私も認める用意はあります。
 ですが、「言論の自由」という言葉をそのような語法で使っている者はほぼ皆無なので、やはり意味がないのでしょうね。



(了)


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