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日本が日本であるために

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魚、民主制度 

 四方を海で囲まれた島国だからかどうかは分からないが、その国の民は老若男女、魚が大好きでたまらなかった。

 朝食から晩飯まで、魚、魚、魚、である。
 ただ、残念ながらこの国の漁は、すでに壊滅状態であった。
 そのあらましは以下の通りである。




 遥か昔のことだ。

「一部の漁師が漁の方法を独占的に決めるなんてズルい」

 という民衆の声から、この国は『魚、直接民主制度』というものを採用した。

 これは、漁の方法についてを、全ての国民の多数決によって直接決めるということである。つまり、漁の方法について、国民一人一人が具体的判断を直接投票し、集計の結果多い意見を採用すれば、皆文句はなかろうということだ。

 一見、国民は良い制度だと感じ入ったが、そう簡単に事は運ばなかった。
 結果から言うと、それは大失敗だったのだ。

 冷静になって振り返ってみれば、当然ではある。
 何故なら、国民一人一人にはすべからくその生活と仕事があり、故に忙しい。いくら魚好きとは言えど、全ての国民が具体的な漁の方法までを熟知するなど、現実的に不可能だったのだ。

 例えば、パンの作り方を具体的に国民の多数決によって決めて上手く行くか? 行かないのである。
 パンの作り方は、毎日パンを作っているパン屋が最も熟知しているはずだ。そして、素人から見れば何故そんなことをするのか理解できないというようなことまで、実はそれがパン作りにおける重要なファクターであったというようなことなど、往々にしてあることなのである。

 漁についても同じであった。
 漁についてよく知らない国民が、具体的な漁の方法について直接国民投票を行えば、「一見良さそうに見える方法」に票が行くのは当然至極だ。

 美人コンテストにて投票者が、「自分が美人だと思う人」ではなく、「みんなが美人だと思いそうな人」に投票してしまうのと同じである。

 漁について、具体的な問題として最も問題になったのは、乱獲であった。魚の獲り過ぎによって、領海における長期的な漁計画が成り立たなくなっていてしまったのである。
 普通の漁師ならば、「獲る魚の数をセーブしよう」と判断するはずであるが、国民の直接の多数決ではそはいかない。
 一人一人の国民は、魚を沢山食べたいので、どうしてもセーブしようとは心理的に思えないからだ。誰かが乱獲の危険性を訴えても、そんなことに耳を傾ける程殊勝な国民というのは少なかった。

 また、次第に乱獲以外にも問題が出てくる。

 漁の手法そのものも、所詮は素人の意見の寄せ集めで、次々と綻びが出始めたのである。例えば漁における安全性の確保などを詳細にわたって常日頃から考える一般国民など、ほぼ皆無だ。

 このように、この『魚、直接民主制度』が上手くいっていないのは明らかであった。
 ここで生まれたのが、哲学である。

 そう、哲学とは、『魚、直接民主制度』がどうにもこうにも上手く機能しないからこそ、生まれたのだ!

「私は、漁を知らないことを、知っている」

 という、とある哲学者の台詞は、あまりにも有名である。

 しかし、天才的な哲学者らをもってしても、『魚、直接民主制度』のジレンマを克服する事はあたわなかった。

 そこで、この国は『魚、直接民主制度』を改め、『魚、間接民主制度』を導入することにしたのである。

 『魚、間接民主制度』とは、国民が直接漁の方法を決めるのではなく、「漁の方法を決めて実行する『漁師』を選挙で選出しよう」という制度であった。
 具体的な方法論は、毎日漁を行う漁師に任せるが、その漁師を選ぶのは国民の多数決だーーということで『間接』なのである。

 『魚、間接民主制度』が『魚、直接民主制度』よりもマシなのは、漁における具体的な知識に希薄な国民でも、「人を選出する目」を発揮できれば、漁が安定するということにある。

 候補者の実績、代々漁に携わってきた家系かどうか、出来そうな奴かという直感、などを頼りに国民が何とか的外れな漁をしない漁師を選ぶことが出来れば、国家全体の漁は概ね間違った方向へ行かないだろうーーという考えだ。

 しかし、漁師を選挙で選ぶだけでは限界があるというのも確かだった。限界とは大きく分けて二つある。

 一つは、漁に携わる者全てを選挙で選んでいたら時間がいくらあっても足りないということ。
 もう一つは、漁師の選出において、国民(多数派)は間違うこともあるということだ。

 よって、別の選出方法も併用される必要があった。
 何と言ったって、漁は大切である。
 漁が上手く行かなければ、魚が食べられなくなってしまうのだから!
 十分な人員の確保と、慎重で堅実な魚体制が必要とされていた。

 そこで考え出されたのが、『国家魚試験一種』である。

 この、国家魚試験一種はとても難しい試験だ。そして、これに合格した者は、漁に携わることができるのである。また、平等に、年齢と学歴さえ条件を満たせば、国民の誰でも試験を受けることが出来た。

 国家魚試験一種に合格したエリートは、魚官僚と呼ばれた。

 概ね、魚官僚がデータとオプションを示し、選挙で選ばれた漁師が慎重な態度で決定し漁を実行する、という体制で、この国の漁はそこそこ安定するようになった。


 しかし、ここからが問題だったのである。


 人間は生まれて、死ぬ。
 故に世代を越えるのである。
 そして、文字は後生に伝えることができても、意識を伝えることはできない。
 先人が、血の滲むような思いで築いた魚体制を、後の世代は次第に「あって当たり前のもの」として捉えるようになっていった。
 そう、遥か昔の苦労を、彼らは経験していないからである。

 その増長は、『基本的魚権』というものが叫ばれるようになったことからも伺える。
 基本的魚権というのは、「全ての人間は生まれながらにして、最低限度の魚が与えられるべきである」という驚きの概念である。
 まるで、魚を食べる権利が、空から降ってくるがごとくだ。

 しかし、魚というものは、漁師が漁をしなければ食べることはできないのである。

 増長した人々ーーいや、大衆及びテレビマスコミなどの大衆メディアが、次にこう言い出すのは自明の理であった。

「一部の漁師と、魚官僚によって漁の方針が決められるのは、民主的ではない。漁師は、魚世論に従って漁を行うべきである」

 次第にその風潮は強まり、漁師達は、魚世論に従わずにはいられなくなる。
 何故なら、魚世論に刃向かえば、選挙に落ちるからである。

 また、こういうことも言われるようになった。

「脱・魚官僚」

 と。

 そう。大衆メディア及び世論は、そもそも何故、魚官僚が必要になったかを完全に無視し始めるのだ。

 かくして、この国の漁は、漁の素人達の寄せ集めの意見である大衆魚世論によって、決せらるる状況になってしまった。
 そして、魚世論というのは一貫性が無く、その一時の雰囲気とマスメディアによって大いにブレる。
 一年前は遠洋漁業を押し進めろ、と言っていながら、今日には沿海漁業だと、真逆のことをコロコロコロコロと顔を変えて、しかも悪びれる風もない。

 漁のプロたる漁師達は、口では言わぬがこう思っていたに違いない。

「素人に何がわかる」

 と。


 ふと、歴史を振り返ってみると、これは『魚・直接民主制』の問題とピタリ合致する。
 これが、今日、この国での漁業が壊滅的状況にある事のあらましだ。

 これから、この国の漁が持ち直すかどうかは、『魚、民主制度』における歴史を真摯に振り返ることができるかどうかにかかっているのかもしれない。



(了)



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