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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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クーラーと暑さと死ぬ確率 



 今日は暑いです。
 春秋を巡るはいつの世も同じなはずで、こういう暑さも同じだったはず。それで昔はクーラなどといった文明の利器も何もないわけです。

 すると、「暑さで死ぬ」ということは、珍しいことではなかったのでしょう。
 今は暑さで死ぬとニュースになるほどです。
 逆にクーラで死ぬ人もいるようですが、昔暑さで死んでいた人の数ほどに多いとは思えません。

 もちろん人が死ぬこと自体は悲しい場面です。
 が、「死や悲惨から遠ざかった」ことをして近代文明を良きものとして結論付ける単純な仕方は、私はしたくありません。

 前近代社会……例えば農村共同体にあったであろう死や悲惨や夭折は、共同体の光りの一部として幸福と切り離せないものだったのだろうと思うのです。そこでは、死も生とごっちゃになった一つの世界観であったに違いない。

 我々は、言葉によって小賢しくなったぶん、前近代社会を勝手に憐れみがちです。死や悲惨や夭折をもって、どうして彼らを憐れむことができるでしょう。それは我々の傲慢というものです。

 でも、現代社会に生まれた者は、氾濫する言葉によって自我が強くなっています。ですから、我々が急に前近代社会に適応しようとしても無理なのでしょう。
 暑さで死ぬのはつまらないから、クーラをかける。
 社会全体で、暑さで死んでしまう人を減らす。
 このように行動せざるをえないし、そのように行動するのがまあ正しいのでしょう。

 しかし、だからといって我々が「前近代社会と比べて上等なものを享受している」と考えるのは間違っています。
 世界の解釈における「人間の文才の発揮」と「自意識の巨大化」によって、失われた心の領域がある。
 これは深刻なことで、この深刻な問題を放っておいて、「生存権を担保しうる近代文明の素晴らしき」を前提とするのは滑稽きわまりありません。腹立だしくもあります。

 また、この失われた心の領域は、何か政治の制度的なもので克服、超克できるものではありません。何故なら本来、この心の領域を活かす形で政治を執り行うというものであったはずです。

 ですから、「近代」に解決策はないし、基本的に、我々日本文明は没落の道をごく順当に辿っていると考えるほかないのです。



(了)


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Category: 日記:思考

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コメント

現代の気候変動

私が子供の頃の夏の暑さは今よりはまだマシだったような・・・小学生の時の国語の教科書にあった作文のお手本には
「今年の夏は30度を超す暑さです」
と書かれていたりして、つまり当時は「30度超え」だけでも「ものすごく暑い」という感覚だったみたいです。

「最高気温35度以上」なんてことが起きるようになったのはここ10年ぐらいのことではなかったかと。
20年ぐらい前には「ヒートアイランド現象で気温がどんどん高くなっている」というようなことが言われていましたし、10年ぐらい前には友人と「最近の日本は亜熱帯化しているらしい」という会話をした記憶があります。

さて、「生と死と共同体」ですが、「遠野物語」にはそういうエピソードがけっこう出てきて、なかなか味わい深いです。私は原典はまだ読んでいなくて、去年やっていたNHKの番組とそのテキストで知っているだけですが。

kappa #NbShkeg2 | URL | 2015/07/20 15:35 [edit]

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