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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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日本国と保守的態度の考察1 

 俺が日常で政治――いや、日本という国家、或いは人間というもののあり方を論じると、往々にして場が険悪なムードになる。
 親や教師は「右翼である」とレッテルを貼ってくるし、友人らはそもそも国家を語ること自体を格好の悪いものと見なしているようで、そういう話題自体を嫌がる。(ただ、経済を語ることは格好の良いものと見なしている場合が多いから、わけがわからない)
 社会問題を語らずして、自立した社会人になれるのか――などと、クソかったるい事を言うわけじゃあない。
 ただ、本来、人間はあらゆる意味で一人では生きていけないが故に、自分が帰属する様々なレベルの共同体に関して思考することは自然な態度であり、だからこそ楽しいことのはずである。それが人の作り出す集団の最大の単位であるところの『国家』に関することであれば、さらなりだ。
 しかし、この国ではどうやら国家に拠って思考すること自体が全体主義で、近代的自我の欠如で、右翼であることになるらしい。また、経済の設計主義的態度、つまり社会主義や共産主義を語るものを左翼と言うことになっているようであり、そして、個人主義、自由主義、民主主義、人権主義、人類主義、人命主義こそが正しいあり方であるということになっているようである。

 だが、正直そんな退屈なカテゴライズは糞食らえだ。

 俺は、自分が幼少の頃から積み重ねてきた、あらゆる事象に対して瞬間に感じた素直な意識、感覚のようなものを重視したい。いや、本来重視せざるを得ないはずなのである。
 意識や感覚は、言語化以前のものであり、『思考』とは別物である。
 思考=言語化だ。
 自分の中に生じた気を、言語(思考)化する際には、なるべく元を崩さぬように「分け」て、「分かる」ようにしなければならない。

 たとえば、『恋』が分かりやすい。
 貴方が異性へ恋をしたとして、それがいつから始まったのかと判断するのはなかなかに難しいだろう。心の中に恋、あるいはそれに準じる何かが生じたとしても、自分が「恋をした」と思考しなければ人はそれを認識できないからである。
 つまり、人間は『恋』という言葉を発明する前、恋をするを知らなかったのだ。
 それはさておき、「恋がいつから始まったのか」を認定するのは難しいとは言えど、必ずしも不可能ではない。自分の中にその気が生じた瞬間を、思考によって後から振り返り、「ああ、自分はあの時恋をしたのだ」と言語化することによって認識、判断できる可能性があるからである。
 しかし、言語化とは、先に言った通り、物事を分けることであり、気を概念にデジタル化することだから、気そのものではありえない。その証拠に、貴方が『恋』と言って貴方の中で生じている気と、別の誰かが『恋』と言って生じているそれは、実は別物なのかもしれないのだ。つまり、恋という言葉で概念を分類して『分かる』ということは、それらの気の一群をひとまとめにしてしまっているということと表裏一体なのである。
 であるからして、人は、その人の意識の中で生じた恋、あるいは恋のような『気』の一群を、「これはこれこれこういう恋である」と思考する。一番わかりやすいのは、(誰でも小さなころやると思うが)「恋愛」において「恋」と「愛」を分けて定義しようとする例であろうか。これはつまり、「恋的な気の一群」を恋愛Xと恋愛Yに分けて、認識しようとする作業である。

 そういうわけで、俺は、「物事を真剣に考える」「真摯に思考する」ということは、自分の中で無言語状態で生じた気、感覚、感情を、なるべく損なわないように木目細かく言語化して分けていくということだと考える。換言すると、「気、感覚」と、「言語、思考」との連絡を絶えず行うということである。『理解』という言葉が、道理の理と、解剖の解で構成されている意味はここにあるのではなかろうか。

 もし、各々がその連絡を怠ったとすれば、言語は言語のみで独立して飛び、文化圏を無秩序に跳ね回る。これが危険なのだ。

 さて、「自分が自分である」という認識、つまり『自我』すらも言語によってでしか得られない以上、自我の前に「固体生命の意識体」が存在するということは明白である。(言語を持たない動物は、自我を持たないと言われている)
 「言語が何故存在するか」、「思考が何故存在するか」、「自我が何故存在するか」、ということを考える時には、それらは決して、「個人のうちから湧き出てくるものではないし、神が人間それぞれに与えたもうたものでもない」ということを理解しておかねばならないだろう。
 ここに、AさんとBさんとCさんがいたとする。
 当たり前だが、Aさんという人の『意識』と、BさんやCさんという人の『意識』は、決して一致しない。
 Aさんの意識、感覚は、どこまでいってもAさん以外には「感じ」ることはできないし、Bさんのそれも、Cさんのそれも、また然りである。
 ここからわかることは、「Aさんにとって、Aさんの意識体が感じたものの範囲が、あらゆるものの限界である」ということである。
 そして、その意識体が受容した全ての感覚を、言語によって体系付けたものが『思考』なのだ。
 しかし、「言語によって体系付ける」という行動は、『個人』の内から沸々と湧き上がるものではありえないし、ましてや唯一絶対神が個々の人間に与えた行動原理でもない。「言語による体系付け」という行動は、当たり前のものではない。当たり前にこなしているから当たり前のように思えるが、当たり前ではないのである。

 たとえば、Aさんが、生まれた時から、他者との関わりを断絶された状態にあったとしよう。半径五十メートルほどの部屋に、生命の維持だけを施す機械を投入し、あとは彼の自由である――とでもするか。
 Aさんという生命は「在る」のだから、そこにAさんの「意識」もあるに違いない。だが、『思考』がそこに生じるとは考えられない。何故なら言語が生じないからである。また、その意識が感じた膨大な感覚全てを、どう体系付けるのか、という『基準』が、完全なるAさん個人では判断しようがないのだ。
 このAさんの状態は、本能が剥き出された状態と言える。つまり、「気が生ずる、思考する、行動する」という段階を経ず、「気が生ずる、行動する」という主体と客体の区別も無い状態である。「自分が行動している」ということ自体も、認識されないのだ。この、Aさんにとって、自分の行動すらも、Aさんの意識体が受容する感覚の一つでしかないからである。

 ここで、BさんとCさんの登場である。
 あの半径五十メートルの部屋に、彼ら三人が存在していたとするのだ。

 さて、そこでBさんは、生命維持機械から出てきたパンを食べた。すると、なにやら、パンを食べる時だけ、Xという表情をするようだ――ということを、AさんとCさんは感じる。
 Aさんがパンを食べる時も、Cさんが食べる時も、同じことが起こった。つまり、パンを食べると、Xという表情をして、残りの二人がそれを見ているということ、である。
 その段で、再び、Bさんがパンを食べた時、そのXを指し示し、「ガー」とAさんが発音したとする。すると、Cさんも「ガー」と言う。Cさんがパンを食べた時、再びAさんが「ガー」と言って、Bさんも「ガー」と言う。
 三人の間でXという表情が、「ガー」であるというコミュニケーションをとったということである。
 これ以降、彼らの間で、「X=ガー」だという『共通認識』が設定された。

 これが「文化」である。
 文化は「文が化ける」と書いて文化であるから、つまり、「言語的共通の変化」を言うのだと語源を類推するのが妥当なのだ。

 さらに、Bさんがパンを食べる時、「キ、ガー」と、Aさんが言って、Cさんも「キ、ガー」と言う。Cさんの時は「ま、ガー」と残り二人が、Aさんの時は「にゅ、ガー」と残り二人が言う。
 この段になって『自我』が生じるのだ。

 キリがないのでこの辺でAさんBさんCさんには退場願うが、つまり、言語=思考、言語=コミュニケーションによる共通認識=文化体系、ということである。
 これが、人間が「社会的動物」であり、「言語的動物」である所以だ。

(※上のA、B、C物語は、俺の思考実験であり、言語に焦点を当てるためにモデリングしたものであるから、現実世界に存在する世界ではない。現実からさまざまなファクターが除外された世界であるので、その除外された部分も少しづつ解きほぐしていかなければならない)

 そうなると、人間の「思考体系」は、共同体に依存しているということでもある。
 つまり、『意識』は、完全なる個の生命体で完結されているが、その意識が感じた無数の感覚の体系付けの基準は言語でしかなしえない以上、共同体に依存しているということである。
 また、共同体は、「言語的共通認識の変化」を常に繰り返すが故に、進展もすれば、後退もする。
 先ほど言った、「言語が飛び、意識に基づかない思考」が危険なのは、それが言語的共通認識の変化に、甚大な齟齬を生む大きな要因となりえるからである。
 もちろん、齟齬の無い文化などはあり得ないが、どうにかして思考を意識に基づいたものへと近づけようとする態度がなければ、文化の齟齬は大きくなり、衰退するのである。

 そのような態度によって、俺や俺が帰属する共同体――家族、地方、国家、というものを捉えていこうとすると、どうしても本来の意味としての『保守』的な態度へ立脚せざるを得ないのである。



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