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日本が日本であるために

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信仰と文明開化(日記) 



 家の庭の木が、しばしば雨どいまで覆いかぶさる。よって、これをもう根こそぎ切ってしまうということになりました。

 午前中に業者さんが来て、酒と塩でお清めをして、切り始めます。
 すると、途端に寂しいような心持ちになってきました。



 当然のことながら、木には魂がある……と昔の人は考えた。
 私はこれに賛成ですが、本当の本当のことを言うと、魂なんてものがあるだなんて私にはちっとも信じられないのです。

 魂、神々、仏、地獄、極楽などなど、そういうものはいくら「信じてみよう」と考えたところで、私の心はちっともこれらを信じられていない。だって、そんなものはあるわけはないのです。

 でも、私のような心のありかたは、絶対に間違っています。
 何故なら、世界において神秘の領域を前提しないとなると、この世のすべての物事には価値がないという話になるからです。
 これはいわゆるニヒリズムというものですが、信仰というものが徹底して失われたらニヒリズムに至るのは論理的に必定なのであります。

 でも、間違っているからといって、頑張って「魂を信じよう」と気合を入れて信じられるのであれば、こんな楽チンなことはありません。



 ほとんどの人間は、おおよそこの深刻な事に気づきもせず、信仰を嘲笑する。それでも、大抵の人がニヒリズムにまでは至っていません。人々は一応何らかの倫理に則そうとはしている。
 この説明には、以下の二つのパターンが考えられます。


①信仰を嘲笑しながら、無自覚なままの信仰が残っている

②旧い信仰を失うと同時に、新たな原理への信仰を始めている


 パターン1の彼は、自分を知らないというだけの幸せ者です。しかし、彼の振る舞い自体は信仰を嘲笑している。ですから、彼の子供は、彼に価値意識を与えていた無自覚の信仰を受け継ぐことはできないでしょう。よしんば彼の子が受け継ぐことができても、何世代か後にはあらゆる旧信仰は死滅しているはずです。


 パターン2の彼は、自分を知らないという点では前者と一致していますが、非常に不幸せな人間です。彼は旧来の信仰をまったく失っているが、「あらゆることに価値はない」というニヒリズムに耐えられないので、「新興宗教」と呼ばれるようなものに傾斜していく。
 ここで言う振興宗教は、一般的に振興宗教と呼ばれるものだけを想定するものではありません。いわゆる「科学技術信仰」「合理主義信仰」という、いわばイデオロギー的なものも含みます。

 現在もっとも広がっている新興宗教は、「人間として生まれたことについての価値」から出発する、『近代合理主義』という教義です。すなわち、「人間の一人一人にある平等な価値」を想定して、その価値の実現のための人間組織や科学技術がまた価値付けられるという教義体系であります。
 しかし、この教義には致命的な欠陥があります。それは、その「人間の価値」を根拠付ける世界観がないということです。当たり前ですね。ここでは人間の価値は何かを価値付けるものとして大前提とされているので、人間の価値そのものには何らの説明が施されていないのですから。例えば、科学技術は「人間のためにあるもの」であって、「人間の価値付け」には一切何の役にも立たない。
 人間の価値は、旧来の信仰が形作っていた世界観に示唆されていたものであり、それを彼は失っているのです。

 ですから、近代合理主義の信仰の中にある多くの現代人は、心の奥では薄々、「人間が価値付けられていないこと」に気づいているのです。だから、実のところ無価値感を抱えながら、ほとんど気合と根性で「人間に価値がある」と思いこむ。こういう精神作業を、ほぼ無自覚にこなしているわけであります。

 これを下支えするために、「人間の快、不快の足し算引き算」に価値を置く者もいれば、「身近な人間とのコミュニケーション」に価値を置く者もいるでしょう。しかし、これらも、これらを価値付ける世界観がないので、至極あやふやな価値になってしまう。
 要するに、、「人間の快、不快の足し算引き算」も「身近な人間とのコミュニケーション」も、地球上の無数の人間達に振りかかっているのを我々は知っているので、「どこにでもあるもの」と相対化できてしまう。そのように相対化してしまったものに価値を置くのは難しいので、離婚率が高くなるのも当然なことだという話になってしまいます。
 また、人はそんな風に、「身近な人間とのコミュニケーション」を相対化してしまうことに対して酷く自己嫌悪するものであるが、これは「相対化しないようにしよう」と気合を入れればどうにかなるというものでもありません。また、ここまで自己を解釈して、精神作業の気合の入れ方を編み出せるほどの精神的文才を誰しもが持ち合わせているはずもない。


 
 ですから、旧来の信仰と信仰が示す世界観を完全に失ったパターン②では、人間が救われる見込みはほぼありません。
 個人も救われなければ、その個々人の織り成す文化圏も死滅するのです。

 これを明治以来から今日に至るまでの「文明開化」に絡めて言えばこうなります。
 文明の開化は旧来の信仰が残る時期までは価値観との歯車が噛み合ってそれなりの果実を得るように思われるかもしれないが、やがて信仰や世界観が死滅してゆくに従って、価値そのものが融解して、文化圏は没落してゆく。
 つまり、近代的文明の進歩というのは、時間制限付きなのです。平成になってとうとうその時間制限が来たので、日本は没落の一途を辿ってるというわけであります。


 しかし、そうとわかっていても、すでに失われた信仰についてどうにかできるはずはない。
 いくら信じようと気合を入れても、私は、魂や天国や地獄を信じられないし、八百万の神も信じられないし、仏も神も、お化けや妖怪に至るまで信じられないのです。

 と言うより、信じようと思って信じるということは、すでにそれは信じていないということでしょう。
 人は、「この人に恋をしよう」と思って恋をするわけではないし、「国を愛そう」と思って愛国心を抱くわけではありません。
 恋や愛や信仰という言葉は、もともと自分の心にあるものを整えて、発見するために編み出された発明です。
 だから、恋いそうと思って人を恋したり、愛そうと思って国を愛したり、信じようと思って信仰したりなどというのは、もともと恋も愛も信仰もなかったということなのです。




 ただ、私はこうは思います。

 私は魂を信じることはできないけれど、魂を信じていた昔の人の心は信頼できる、と。
 つまり、そういう心で存在していた昔の人の方が、自分よりも遥かに上等な存在であると考えておくということです。これなら私にもできる。

 例えば、昔の年寄りは写真に撮られると魂を抜かれると思い、これを怖れたそうな。
 私は、これを「不合理」と笑う人間より、昔の年寄りを信じます。
 昔の年寄りのほうが遥かに上等な存在です。


 だから、私は庭の切られた木に魂があるとはどうしても思えないけれど、昔の信仰ある人々が編み出した酒と塩によるお清めを崇高なものであると考えることによって、この木と別れることについての寂寥の感を整えることにしました。



(了)


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コメント

そういう世界に馴染みのない方には「怪しい話」になるかもしれませんが

私は高校生の時、白魔術というものにハマっておりまして、「人の体を流れるエネルギー」というものをその頃から意識し始めました。
「エネルギー」だと発電のためのエネルギーと紛らわしいので、気功で言う「気」と言い換えればわかりやすいかな(ここで言うエネルギーと気は同じものです)

そんなある日、家の近所のお地蔵さんの前を通る時に(それまでは無意識に通ることが多かったのですが・・・当時は仏教系には不信心だったものでwたまに拝むことはありましたが)何となくお地蔵さんの方を意識しながら通ったところ、お地蔵さんの方からサーッとエネルギーが流れ込んでくるように感じたんです。
(う~ん、こういうのって経験者でないとなかなか伝わりにくいかな)

同じようなことは、大人になってから沖縄の神社に当たる「御嶽(うたき)」の前を通った時にも起こりました。(沖縄の神様に対しても当時は不信心だったので、ちゃんと拝まなかった気がしますが)

更にその後、日本会議主催の講演会で「日本の神話」に関する連載を担当していた産経新聞の記者さん達が講演していたんですが、その中の一人の若い女性記者さんが
「神社の森にいる時、風がサッと吹いて木がざわめいて、その時、ふと神様の存在を感じた」
という話をしていて「なるほど、そういう感じ方をする人もいるんだな」と思いました。
もう一人の若い男性記者さんも、詳しいエピソードは忘れたのですが「神様の存在を感じたことがある」という話をしていました。

何が言いたいのかというと、「神」「仏」「魂」というのは「概念」でもありますが、↑のように「エネルギー」や「気配」として感じられるものでもあるのだと思います。
(まあ、そういうものを信じない人からすれば『ただの錯覚』と思えるのかもしれませんが)

かつての人類は誰でもそういうものを感知する能力を持っていたのだと思います。
現代人は(石川さんがそうだというのではありませんが)ともすれば「思考」に偏りがちになって、「思考では説明しきれないものを感じ取る」ことがお留守になっているんだろうと思います。

でも、どんな人の中にもそういう力は「眠っている」のだと思います。特に日本人なら本来は誰でも「八百万の神」と交信する力を持っているのだと思いますよ(*^_^*)

kappa #NbShkeg2 | URL | 2015/07/29 23:06 [edit]

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