05 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 07

日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

TOP > 歴史:近代、大東亜戦争 > title - ナチスのホロコーストは過分に見積もられているか?      
  

ナチスのホロコーストは過分に見積もられているか? 


 少し前の記事で、『ヒットラーとナチズムについて(日記)』というものを書いたのですが、そこでこんなコメントをいただきました。



>あと、ホロコーストはね、かなり事実を彎曲されてると考えざろう得ません。なぜかドイツではナチスに言及するだけに罪になります。言論の自由を侵してまで触れないように封印するのか。




 このことは、だいぶ前に某所で議論になっていたのを聞いた覚えがあって、なるほど、そういうこともありうるだろうと思った記憶があります。

 実際、戦後ドイツでは、元ナチス党員だというだけで酷い差別を受けてきたと聞き及んでいます。また、ナチス的なものへの言論統制を行っているということも確からしい。
 また、これは私の想像ですが、ドイツ国民には「ナチ時代を否定することによって現在のドイツを肯定する」という都合があり、それによって特に21世紀に入ってからの過度な補償、過度な反省へと傾斜してしまった所があるのではないでしょうか。そして、その過程で、ナチス時代の統制的な経済運営やドイツ国民の団結も同時に軽んじられた。これによって、現在ドイツの拝金主義的な新自由主義への傾斜も起きたのではないか……と、あたりをつけることもできます。

 だから、コメントにある「ホロコーストにおける事実の歪曲」は、確かな見方とみるべきだと思います。



 ただ、私はドイツ人ではありませんので、ホロコーストの過大な見積もりについて何か擁護を施してやる義理はありません。 
 また、「言論の自由」という言葉に至っては、それ自体、意味があるとも思えません。



 確かに、ホロコーストの見積もりに何処までの信憑性があるかは非常に疑わしいものがあります。
 我々は、連合国側の東京裁判の都合によってされた、南京の改ざん、強制連行の改ざんに苦しんでいる。
 あるいは、19世紀トルコ帝国によるキオス島でのギリシャ人大虐殺も、当時のギリシャ人人口以上の虐殺が見積もられているのであり、つまり当時のヨーロッパ社会のギリシャ愛好的な都合であったわけであります。

 つまり、世界の悲劇の多くは、悲劇を評価する者の都合によってなされるということです。



 しかし一方で、迫害やそのエスカレーションによる虐殺は、評価とは別のところで存在したはずでしょう。誰が、誰を、どの程度……という評価はできないし、よそ様の件については評価するべきでもないが、そういう評価から超然した事象としては、誰かしらが何かしらを迫害、虐殺している。

 迫害や虐殺は、我々が記号的に考えている範疇を超えて行われているはずなのです。そして、一見、迫害や虐殺に見えないものも含めて迫害や虐殺を想定すると、迫害、虐殺の「被害者・加害者」は反転しながら断続的に続いていると見なす必要があるでしょう。


 たとえば、戦後ドイツをナチスへの差別・言論統制・迫害と見るのであれば、ナチスドイツ時代のユダヤ人への差別もやはり(評価の過分はあるかもしれないが)迫害であることには違いなかった。
 もちろんその見積もりに過多はあるに違いないが、その「過分な虐殺の見積もり」も戦後ナチス党員迫害の一種であると見なすべきなのでしょう。

 もちろん、そう見なすことで戦後ドイツのナチス党員への迫害を容認するわけではありません。

 ただ、この場合、「迫害」と「虐殺の過分な見積もり」は、迫害の被害者、加害者が入れ替わったというだけだということが分かられていれば良いのです。

 人間が生きている限り、迫害は、「被害者、加害者」が入れ替わって、永遠に行われていく。
 そもそも、ユダヤ人は帝政ローマ期にキリスト者を迫害していたわけです。すると、ナチスドイツという時と場所では、たまたまユダヤ人が迫害される側にあったというだけと捉える方が適切でしょう。そして、戦後ドイツはナチスという枠組みがたまたま迫害される側にある時と場所だったというまでのこと。




 しかし、帝政ローマ期を考えるときはキリスト者迫害を、ナチスドイツを考えるときはユダヤ迫害を、そして戦後ドイツを考えるときはナチス党員迫害をそれぞれ想像するというのは必要なことです。
 何故なら、同じユダヤ人、キリスト者、ナチ党員だったとしても、一個人単位で見れば迫害者と被迫害者は必ずしも一致していないはずだからです。いや、別に「一個人単位で見た時には、きっと迫害されっぱなしの人がいるはずで可哀想」ということを言っているのではありません。
 それらの迫害が、必ず「群れとしての個人」によって行われていることを把握すべきであるということを言っているのです。

 人間はおそらく、人間がいなくなるまで人間を迫害することをやめないでしょう。もし、具体的に把握された迫害行為そのものを規制しても、あらゆる形に変形して、差別や虐殺は行われてゆくのです。これは人類普遍の性質です。

 特に、その迫害にひとたび群れ(大衆)の熱が篭るようになった時は、迫害し、迫害されるという闘争の連鎖が社会を焼き尽くすに決まっているのです。
 それは、目に見える迫害や虐殺を「やめよう」と活動したって、今度はその活動そのものが迫害を生む。
 ようするに、人が大量の群れとして世間の趨勢を握るようになると、人間の「迫害精神」とも言えるものが大々的に出てきて、「迫害し、迫害される」という闘争の連鎖が止まなくなる。
 ですから、現代ドイツはまだ迫害の連鎖の炎の中にあると見るべきなのでしょう。


 ナチスのホロコーストが過剰に見積もられているかどうかについては、基本的に我々が口を出すべきことではないので、以上のことだけ把握していれば充分なのではないでしょうか。



(了)


関連記事
スポンサーサイト

Category: 歴史:近代、大東亜戦争

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 1   

コメント

人はなぜ「迫害」するのか

>それは、目に見える迫害や虐殺を「やめよう」と活動したって、今度はその活動そのものが迫害を生む。

し○き隊とか、まさにそれですね。

ローマ帝国がキリスト教を認めていなかった頃のキリスト教徒迫害は相当なものだったようですが、キリスト教が国教となってからのキリスト教会による異教徒迫害も相当なものだったようです。「アレクサンドリア」という映画を見るとよくわかります。私は映画館で見ましたが、とにかく「狂信者って怖いな」と思いました。
その「狂信者の怖さ」というのは確かに「群れだからこそ発揮される」ものなんでしょうね。

>人間はおそらく、人間がいなくなるまで人間を迫害することをやめないでしょう。

そもそも、人はなぜ「自分とは違うと思われる何らかの存在」を迫害するのでしょう。
それはその迫害対象によって自らの「何か」が脅かされると感じるからでしょうね。
世の中のすべての人が「心の底から幸せな人生」を送っていて、更に精神的に強ければ「迫害」というものは起きないんでしょうけど。

kappa #NbShkeg2 | URL | 2015/08/03 18:18 [edit]

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://shooota.blog.fc2.com/tb.php/299-c8636838
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)