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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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日本国と保守的態度の考察2 

「国家共同体は幻想である」
 という主張は、ある意味で的を得ている。なるほど、あらゆる共同体は幻想だ。

 一時、新左翼の思想的な拠り所として猛威を振るった「共同体幻想論」、当時の若者がこれに熱狂した理由も、現世代の若者がこれに見向きもしない理由もなんとなく分かる。
 国家共同体の意識があらかじめ強固な場合「幻想だ」と言われれば大いなる気づきのように思われるが、のっけから共同体意識が希薄な場合はピンとくるはずがない。当時、『共同体幻想論』が受け入れられたということは、共同体意識が現在よりも高かったという証明にもなる。(それはその時代の彼らの功績ではなく、その前の世代の財産なのであるが)
 対して、これだけ個人の権利、個人の意思、個人の思考、個人の考え、個人の自由、個人個人個人、とあらゆる思想に個人の主義が跋扈し、氾濫し、絶対正義のように上の世代が語っていれば、「国家共同体が幻想である! 」などと言われても、「はあ、そうですか」と答える他ないのもうなずける。

 しかし、世の雰囲気、世代の思想潮流から超然的な立場をとってみれば、次のことが言えるだろう。
「国家共同体を幻想だとのたまうのであれば『個人の自我』だとか『個人の思考』或いは『個人の自由意志』などといった概念も実は幻想である」
 ――と。

 そもそも、「人が一人では生きていけない」という多くの理由の一つに、「人は一人では自我を認識できない」というものがある。
 つまり、「私」だとか、「貴方」だとかの人称を使用出来なければ、人は「自分が自分である」という概念を理解出来ないのだ。
 言葉や人称を使うということは他者との『関係』がそこにはあるということであり、よって「人は関係の中でしか自我を認識できない、自分が自分であると理解できない」ということに、どうしてもなるのである。
 ここで一段掘り下げなければならないのは、関係といっても様々なレベル、範囲、というものがある、ということだ。
 親子、親類、学友、同僚、先輩、後輩、上司、部下、恋人、などの目に見える一対一の関係も複雑多枝にわたるが、大変なことにこの自分が関係をもった相手一人一人もまた、それぞれの関係をもつのである。
 そうなると、『関係』はあたかも網の目ように張り巡らされ、世を走り回っているわけだ(勿論、目に見えてこれと指し示すことはできないから、これもまた幻想ではある)。物語などを説明する際に使う相関図が、現実にはもっと複雑に伸びているということである。
 その膨大な相関図の中で、よく見ると密度や種類によって朧気ながら腑分けが可能である事に気づく。
 その腑分けも様々なレベルがあり、これを我々は集団と呼ぶ。
 ただ、『集団』も、個人の自我と同じように幻想であるから、人称による言葉によらねば認識できない。
 それが「私たち」と「あなたたち」という概念である。
 たとえば、いち家族が『家族』を認識できるのは、自分たち以外の家族が存在して、「うち」と「おたく」という言葉を使うからだ。さらに、「うち」は固定的に「うち」であるのに対し、「おたく」は場合によって違う「おたく」となる。
 A山さんというお家があったとしよう。彼らA山家にとっての「うち」は常にA山家のことであるが、「おたく」の方はある場合はB川家であったり、別の場合はC本家であり、ひょっとするとD中家である場合だってあるかもしれない。するとA山さんには「うち」と「おたく」という概念以外に「うち」と「よそ」というという概念もあることがわかるだろう。
 誰が言ったか知らないが、「うちはうち、よそはよそ」という言葉は、それをよく言い表していると言えよう。
 集団の単位が違っても、事が集団であれば基本的にこの点で同じである。学校、職場、地域共同体としての町や村。地区、県、そして、国家もすべて同じだ。
 もちろん、その関係性の網の目の、密度、種類によって性質は当然異なっているが、「私たち」と「あなたたち」という概念によって腑分けされ、認識されるという点においては同一である。
 我が校、よその学校。
 我が社、他社。
 我が町、よその町。
 我が県、よその県。
 そして、我が国、他国。
 ――上から下まで全て幻想と言えば幻想ではある。
 ちなみに、『人類』というのが集団足り得ないのは当然だ。なぜなら、「私たち人類」といっても、「あなたたち人類」と言ってくれる相手が存在しないからである(空想SFならばあり得るが)。
 つまり、人類は人類としての「私たち」という概念を持ち得ないが故に、共同できない。『人類』という枠組みは幻想ですらなく、ただのフィクションなのである。
(ただし、『関係』することはできる。というか現代においては関係せざるをえない。この『国際関係』については後に触れていこうと思う)

 さて、ここで『個人』に戻ってみよう。
 自我――「自分が自分であるという認識」は、言語がなければ存在しない以上、共同体に依存している。
 自分が自分の物だと思っている「個人の思考」も、言語であるが故に共同体に依存している。

 そうなると、「言語を用いた思考」の段階の自分は、本当に自分そのものであると言ってよいのか?
 自分、とは、受容体である意識の段階での自分が自分なのである。しかし、それは認識されない。
 意識が受容した『気』を思考した時点で、ある基準をもって「分け」られているわけで、その基準は個人から生じたものではないが故に、個人で帰結していない。
 換言すれば、「我思っている我」は、それ自体が言語であるが故に、「我で帰結したもの」ではあり得ないのだ。

 ただ、ここで克服しなければならないのは『懐疑主義』だ。
 個人の自我や思考も幻想。集団、共同体も幻想。となれば、「言葉に表れる確かなものなど何もありはしない」ということになり、「善も悪もない」のであり、「価値の体系」も存在せず、「何をどうしたってどうということもない」ということになりかねない。

 これを回避するためには、幻想を幻想と受け入れながらも、「幻想だから無価値である」とするのではなく、「幻想であり脆いからこそ、保ち守らねばならない」ことに気づくだけで良い。

 そもそも、「我思う我」が実は幻想だからといって、それを『意識』は、「思考と共同体などは不要なもの」とは感じていないはずである。何故なら意識が思考を不要と感じているならば、人間は共同体を作らず、言語も操らず、思考もしないはずだからだ。

 これが人間として、自然なあり方なのだ。
 自我が自我として、個人の思考が思考として、あたかも独立して存在しているかのような思想は極めて不自然であり、空虚であり、妄想である。
 自我をひん剥いていけば、その中にある『自分』は意識の核でしかない。しかし、それを共同体という雪山を転がれば、雪がまとわりついて、その存在が大きく見える。ただそれだけのことなのである。


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