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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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日本人の暴力性 


 日本人は歴史的にも農耕民族で、和を持って尊しとなして、八紘一宇であり……がゆえに平和を好んでいるのである、ということがよく言われます。

 しかし、日本人は他の民族に優るとも劣らない激烈な暴力性を持っていたと、私は考えます。



 たとえば、柳田國男の『遠野物語』でこんな話があったはずです。

 ある男がいた。そして、彼の嫁と姑がいた。姑はつまり、男のお母さんです。
 そんな中、姑は、男の嫁を毎日毎日ネチネチとイジメ続ける。
 ある日、男は
「もう我慢ならない。僕はお母さんを殺すことにします」
 と言って、鎌を研ぎだしました。
 姑は泣いて謝るが、男は許さず鎌を研ぎ続けます。
 姑は泣く、男は研ぐ。
 そうこうしている間に逃げればよいものの、姑は泣いて謝り続ける。

 結局のところ、彼が母親に手をかける前に巡査に止められて話は終わるわけですが、暴力とは本来こういうものではないでしょうか。

 つまり、暴力精神とは本来、生活の和の中に潜在的に含まれた実に素朴な感情だということ。
 そして、私は、こうした素朴な感情こそが、われわれ日本人本来の暴力精神なのだと考えるわけです。

 さらに言えば、暴力精神を言語上で解釈し、整えるものが「武」というものです。
 武という字は、「矛を進める」という意味と「矛を止める」という意味の両方を含んでいます。つまり、矛を進めたり、止めたりする基準を整えようとする動きが人間にあり、それを描出したのが「武」という字体だということであります。

 なぜ矛を進めたり、止めたりする基準が必要なのか。暴力精神があるからに決まっています。

 また、暴力精神の整えられたものというのはすなわち統治の論理であり、権威や権力と繋がるものです。
 たとえば、戦国の世から徳川時代に至る武士の論理ですね。

 私は、徳川時代の貴族的な武士の論理を重んじる者ではあります。が、そうした武士の論理を生んだ、そもそもの暴力精神という素朴な感情の段階を無視しては、何がなにやらわからないではありませんか。

 あるいは、八紘一宇や憲法十七条も、なぜそういう言葉があったかと考えれば、日本人に苛烈な暴力性があり、これを整えるための「基準」が必要だったからでしょう。
 たとえば、古代クレタ文明に、そういう言葉があったでしょうか。もちろん、クレタ文明の文字は解読されていませんので、これを明らかにすることはできません。だから、これは私の想像ですが、クレタ文明に「和を持って尊し」のような言葉はなかったのではないでしょうか。つまり、本当に闘争のない民族は、言葉にするまでもなく平和をやっているということです。もっとも、そういう文明はよそからの侵略に対しても無力ではありますが。



 よって、これを整える「武」というものは、そもそも素朴な暴力精神があったからこそ生まれるものです。
 つまり、我々日本人はある種の激烈な暴力性を持った民族なのです。
 この暴力精神を認めて、解釈して、われわれの暴力精神を今この現状でどう整えるかということが「武」であり「統治の論理」でしょう。
 そして、本来、われわれは、われわれの暴力精神を、日本国家の独立に活かせるはずなのです。

 アメリカに刃向かい、中国を黙らせ、世界のどの国にも屈服しない、激烈な反抗心として発露させれば、できないことはないはずでしょう。
 すなわち、われわれの激烈な暴力精神を、天皇と中央政府を中心として整え、国家の隅々までまとめあげることさえできれば良いのです。

 もっとも。何の気も無しに「暴力反対」というサヨクも、何の思慮もなく「八紘一宇」を掲げる右翼も、日本人の暴力精神を認めようとする者は稀ですから、もはや、我々の暴力精神が整えられ、活かされる場面もなく、文化圏は溶けて流れてゆくのでしょうけれど。



(了)


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Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 1   

コメント

暴力性

>我々日本人はある種の激烈な暴力性を持った民族なのです

まあねー。お隣の大陸の国は更に凄まじいみたいですけどねー。

世の中にはいわゆる「暴力的な人間」と「比較的、そうでない人間」がいますが、後者には「暴力性がまったくない」というわけでなく「いくつかの条件が揃ったことにより、今の時点ではたまたま、暴力性が適切にコントロールされているだけ」なのかもしれませんね。

遠野物語のそのエピソードは知りませんでした。

(趣旨からは外れるかもしれませんが)
その姑と嫁、息子(夫)の物語を現代的に解釈してみると、姑が嫁をいじめていたのは何らかの不満があったからでしょう。例えば嫁が来たことによって家の中に自分の居場所がなくなったように感じたとか、嫁に息子を取られたように感じたとか、自分より若い女である嫁に嫉妬したとか。
そのへんを息子が察することができれば、何も暴力に走らずとも、意識的に母親孝行をすることで母親の気持をなだめられたのかもしれませんね。
まあ、物語の中で「警官に止められた」後でそういう展開になった可能性はありますが。

連合国がかつて恐れた(今も恐れている?)形の「日本人の暴力性」は確かに(GHQによる骨抜き工作をきっかけに)今は眠っているのかもしれませんが、暴力性そのものは現代日本においても日常的にそこかしこに見られますね。
様々な暴力犯罪、虐待、体罰、そこまで至らないちょっとした「衝突」などにおいて。
そういったものを(日本が蘇るような方向に?)上手く「昇華」できれば良いのでしょうが(それには案外『徴兵制』が有効なのかもしれませんね)

安保法制に反対する団体に所属しているらしい浪人生?の女性が某自民党議員に対してツイッター上で暴力的な表現を使って脅したようですが、そういう暴力性も上手く飼いならせば「使える」暴力性になりうる可能性もあるのかも。

現在において「暴力性」が「平和的に」生かされる代表的な場面と言えばスポーツ競技などですね。
ある種の議論においてもそうかもしれません(行き過ぎる場合もありますが)

kappa #NbShkeg2 | URL | 2015/08/05 17:10 [edit]

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