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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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海へ行ってきました・日記 



 そういえば、首相の談話が出たそうですが、いまは見る気がしません。
 明日は「敗戦記念日」ですが、これについても何か考える気が起こりません。


 今日は、海へ行ってきました。
 というのも、副業で海水浴場にかんする紹介記事を書いていて、書いていると何だか行きたくなったからです。

 自宅の最寄駅から520円で海水浴場近くの駅へたどり着きます。
 海と言うのは、よく見てみると恐ろしく壮大なものでした。

 海は青くありません。
 幾万、幾億の煌く陽が宝石のように散らばっていて、光色であふれています。
 遠くではいくつかの巨大な荷船が、お風呂のオモチャのようにのっそり浮かんでいました。

 私は、一人浜沿いを歩き、浜で遊ぶ夥しい人々を眺めます。
 家族連れ、刺青を入れた若い男女、子供の集団などなどが夢中になって遊んでいる。
 あるいは声を掛け合い、波を掛け合い、身体を絡めあう。

 そう。
 私はこういうことができない人間でした。
 よしんば、類似の場面にあったとして、私はそれまでの記憶を辿り、引き出しを一つづつ提出するようにしてしかその場にあれなかった。つまり、私は「みんなの遊び」の中で「私」を振る舞わせることはできても、「みんなの遊び」の中へ私が入っていくことはできないのです。

 ですから、私はいつからか、こうやって楽しそうに「みんなの遊び」をやっている人達を見ているだけで良い、と悟ったのでした。
 そういう人たちを見て、彼らの中に光を見るという形でかかわることでしか、私が世界とかかわる方法はないからです。



 さて、海に背を向けて浜沿いの小道をみれば、一つ一つの民家が何らかの売店を開いていた。さすがに大繁盛です。
 浜沿いの土地に民家……なんという既得権益でしょう。
 これは想像ですが、おそらくある種の暴力によって、その既得権益の秩序は保たれている。

 でも、それで良いのだと私は思います。
 彼らの雑多な暮らしと、かき入れ時の活気。
 そこにも光があります。

 私には、なぜ人間がこのような複雑なことをやれるのかが不思議でたまりません。
 人々は、人々自身が自覚していること以上に複雑で難解なことをやっています。


 私のような価値のない人間は、そういうかくも複雑な暮らしや遊びに着いている人々の、その光を崇めることによってしか価値づけられえません。

 たとえば、そこに「戦争の反省」はあるか。
 あるはずありません。
 そこには、ただ八月があるのみです。

 インテリが小賢しく述べたてる「戦争の反省によって統治権力を制限して得る、国民のケンリ」など、ちっとも「光の先」ではありません。価値もありません。

 暮らしや遊びの複雑性は、そんなことは無関係に営まれています。
 そこに戦争の反省はなく、八月があるだけです。


 おおよそ何があろうと、人間は暮らし、遊ぶのでしょう。
 日本列島でもそういう人間の複雑な営みが続いていくに違いない。
 動乱があろうと、平和であろうと、人間はあるようにしてあるし、流れるようにして流れる。


 でも、私は、「なるほど、人間達はそこであるようにしてあるのだから、それで良ござんしょ」とは、どうしても思えないのです。
 このような種類のことは、戦後に、山田風太郎が言っていた。あるいは、坂口安吾も言っていた。
 私は彼らを尊敬するものではあるが、そんな風に「無常の中でも人は人として営んで行くのだ」……というのでは納得が行かない。


 やはり、人間の集団は、信仰や忠義の「正統性」にこだわるということがあって、営みが整えられ、「世界観」を帯びるものでしょう。
 なるほど、人の営みは、どのような世界観の中でも続いていく。しかし、どのような世界観でも良い、というわけにはいかないのです。
 では、その世界観の良し悪しの基準とは何か、と考えた時に、それは過去からやってくる。つまり正統性であります。

 ですから、もし人が知識を究めて何かを言おうとするのなら、「戦争は人がたくさん死んで良くないので、そういうことの起きない楽チンな社会を目指しましょう」と進歩的な光の先を示すのではなく、「過去から今に至るまでの人々の営みを解釈し、信仰と忠義における正統というものを示唆する」ということをやるべきなのです。

 何故なら、人間は、信仰と忠義における正統性にこだわって、場合によっては率先して死ぬ……という絶対的なコアがなければ、それこそ世界観は「どのような世界観でもよろしい」という話になってしまうからです。
 すると、「あるようにしてある」という主観性すら、獲得できなくなっていきます。何故って、無自覚ながら持つ世界観があやふやで、人が「あるようにしてある」なんて想定できませんでしょう。

 よしんば、あるようにしてあれない人が「よし、あるようにしてあろう」と気合いを込めたとしましょう。
 しかし、それは「あるようにしてある」ということを選択している時点で、あるようにしてあるとはなっていないのです。

 つまり、この場合、彼は未だ絶望の中にいる。
 絶望の中にいるのに、絶望の中にいないフリをしているだけです。
 キルケゴール風に言えば、「死に至る病」というやつでありあす。



 なるほど、現代にも「あるようにしてある」という人間の営みはある。そしてそれは崇高なものでありましょう。
 しかし、そうした営みを弁証法的に進歩させていくというような志向だけでは、人間の「あるようにしてある」という崇高性からして霧散させ、死に至る病が蔓延するに決まっているのです。

 そして、日本人として死に至る病を克服するには、やはり信仰と忠義の正統性が重んじられるようにしなければならないのであります。



……こんなようなことを、海を眺めながら考えていました。



(了)


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