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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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安倍晋三氏とマスコミについての考察 

 平成二十四年、先月の九月二十六日、自由民主党総裁に安倍晋三氏が就任した。
 俺は、その日の午後二時過ぎ、列車の中で『安倍氏総裁選勝利』の速報を携帯電話にて確認した後、しばらく歓喜に笑みが止まなかった。空は良く晴れていたから車窓越しに差し込む日差しが清々しく、世界の全てが輝きに満ちあふれているようであった。

 しかし、一方で、墨汁を垂らしたような不安も心の端に沸き上がってくる。
 それは、テレビ、新聞、雑誌等マスコミの総攻撃が、その瞬間より開始されるであろうという一種の反射的予見であった。

 マスコミは、『安倍』と聞くと本当に飯を食っているだけでも文句をつけてくる。
 事実、安倍政権から麻生政権にかけて、マスコミは連日の非望中傷(それも極めて稚拙な)にて徹底的に彼らを貶し続けていたのだ。その結果、参院選で敗北を喫し、安倍氏は退陣に追い込まれた。そして今から三年前、政権は民主党なる何処の馬の骨か分からんような烏合の衆の手に落ち、中川昭一氏に至っては命を落とすという最悪な結果と相成った。
 そういった経緯の上での安倍氏復活であるので、胸のすく思いではある。
 しかし、この度も、彼らマスコミは徹底して安倍晋三氏を中心とする保守勢力を阿呆のような罵詈雑言にて叩きまくるに決まっているのだ。

 まあ、そういうような『歓喜の中の不安』は、おそらく多くの人が感じた感覚であろう。
 しかし何故、マスコミは自由民主党の中でも、また保守と呼ばれるものの中でも、安倍氏を筆頭とした系統の種類を嫌うのか。

 よく聞くのは、「外国の工作員が、マスコミを牛耳っているのだ」という話だが、これは少し単純化しすぎであると思う。勿論、マスコミの中にも外国の工作員が多く存在することだけは確かだ。公安はマスコミ内部の外国工作員についてもかなり詳細に把握しているらしいが、ただ、外国からのスパイ行為を取り締まる法律がないから逮捕できないというだけなのである。
 だがそれでも、日本のマスメディアの多くは日本人であり、その殆どの労働者を買収し、支配するなどということは非現実的だ。外国の企業が、テレビ局の株式占有率をあげたり、メディア業界の中枢を籠絡したり、ということもあるだろう。しかし、やはり、というか当然ながら日本のマスメディアを動かしているのは日本人であり、外国勢力のそれはバイアスをかけたり、ある一定方向の流れに加速を与えたりということが主で、工作員自体が主体となってメディアの流れを生じさせたなどということは、やはり非現実的である。
 と、いうより、「このようなマスメディアのあり方を生じさせているのが日本人自身である」ということこそが問題の本質なのだ。
 外国の工作員は外国の工作員なのだから、反政府的な流れを支援して、その対象国の国力を弱めようとするのは当然である。それが彼らの仕事なのだから。その点に関して言えば、スパイを取り締まろうとしない日本人の方が愚かなだけである。

 実をいうと、マスコミだなんてものを非難しても、暖簾に腕押し、どうしようもないのだと、俺は考えている。
 何故かというと、マスコミ全体の方向は、何か特別な意志をもって決められているように見えないからだ。
 いや、記者クラブや広告代理店がある一定の思想の下で無意識に方向付けをするということはあろう。だが、そういった方向付けさえも何が起因となっているかと考えると、それは『市民の愉快』をもってして酷く雰囲気的なもので形成されているのだと考えるのが自然である。
 それはつまり、大衆メディアというものが『国民』に向けてではなく『市民』に向けられた、個人の欲望で帰結した娯楽以上でも以下でもなくなっているということだ。
 同じ『民』であっても、国家や地域共同体という意識のない、個人で帰結した個人の塊である『市民』或いは『人民』にとっての最高の娯楽は「中央権力批判」である。
 日々に不満や不平のない人間はいない。そうした場合に人は、個人で帰結した思考において、「政府なるものに悪い権力者がいて、搾取されているから上手くいかないのだ」という八つ当たりの心が生じる。さらに、「自分は悪い権力者ではないから、このような地位にあまんじているのだ」という、心理的なすり替えが起こる。
 こうした心理現象は、権力や権威に対するお門違いな妬みと、自己肯定の為に強者を貶すという、酷く醜い構造を成している。だから、それぞれは自分の中にそんな醜さは持ち合わせてはいないという風に振る舞わなければならぬのであるが、その代わりに権力批判をしてくれるのがテレビや新聞、雑誌なのである。
 そういった大量の視聴者や購読者のにニーズにお答え申し上げるのが、マスコミの習性なのだ。そして、個人個人、各々が、日常生活の井戸端会議にて権力者を貶して鬱憤を晴らす大義名分として、「テレビでもやっていた」「新聞、雑誌にも書いてあった」と心に掲げ、自分たちの心の醜さを見ずに済むようにする。
 つまり、マスメディアは今の世の、「国家の歴史に基づいた国民」ではなく、「バラバラな個人の現在に基づいた市民」に色づいた日本全体を鏡のごとく映し出しているにすぎないのである。

 本来、中央権力とは、市民の為にあるのではなく、国家の為にあり、国家の歴史を引き受けた『国民』だからこそ、その生活が大事なのである。
 政府的なる態度、つまり、「国家の歴史的経緯や継続性に基づく秩序をもって『民』の生活を回し、国家の枠組みや意識を過去から未来へ繋げる」という『統治の態度』は、市民的なる態度に色づいた世では「個人の権利を束縛するもの」として攻撃の対象になるのだ。
 攻撃といっても、政府が政府たらしめていなければ、自分たちが生きてはいけないことがどこか本能的に分かっているものだから、酷く茶化しめいて、小馬鹿にするように罵倒する。
 それはあたかも、一生懸命に家を切り盛りする親に向かって、暴言を吐いて駄々をこねる中学二年生のようだ。
 いや、本人らを目の前にしていないのを良いことに、弱い者の多数が強い者の少数の陰口を叩いているにすぎないのに善を取り繕っているのであるから、餓鬼のイジメよりもタチが悪い。

 そういう醜き『市民』なるものは、政府なるもの、中央権力なるものの態度を持った者に、反抗する者を好む。換言すれば『反権力勢力』を好むのだ。それが民主党の存在であり、今で言うと維新の会でもある。(おまけに言うとみんなの党も。)
 しかし、権力に反抗する者が、中央権力を握っても、何をして良いか分からないのである。何故ならそれ以上にもう反抗する権力がないからだ。
 ともすれば、「民主党は正しいことをマニフェストで掲げたけれど、権力を握った途端に駄目になった」などとインテリぶって論評する輩がいるが、それは全く的を外している。そういった事をいう者達の言外には、「自分は騙された被害者である」という主張があるのだろう。が、そのような欺瞞的言い逃れこそ、実体を歪めるので止めて欲しい。
 民主党は、「マニフェストからして頭から爪先まで全然間違っていて、権力を握っても反権力を続けていたから駄目」なのだから。

 安倍晋三氏を始めとする自民党の一部は(一部というところがミソだ)、下野してからも、そして今も、「国家を歴史的に統治をする」という意識と理念は残していると、少なくとも俺の目には映る。
 だからこそ、市民的な色づきを反映したマスメディアは、まだ野党であるにもかかわらずに安倍体制の自民党の『悪口』を飛ばし始めているのだ。実際に、政権を持っていなくとも、政府的な姿勢、理念のあり方が、中央権力的であるためである。

 さて、市民的な世の色づきが、何故中央権力批判にマスコミを向かわせるのであろうか。
 そのことを理念的にもっとも象徴しているのが安倍政権にて改正された教育基本法の件に見える。
 そもそも、この教育基本法改正の問題は、『人間の生まれ持った理性』と『社会集団の先入見としての道徳』の二項対立にあった。
 この対立は、フランス革命思想と反革命思想から脈々とつづくものである。
 現代日本の教育機関、特に人文系の大学の研究者らはフランス革命思想が大好きで、「人間一人一人には生まれもって普遍的な理性がある」ということに、どうしてもしたいらしい。だから、自主性、自発性、という名の下、道徳教育を拒否するのである。「集団の歴史に基づく道徳教育は、人類が持つ普遍的な理性を阻害する」という理屈である。彼らは一様にジャン=ジャック・ルソーを崇拝し、ベンサムやジュディス・バトラーなど社会的先入見の一切を否定するようなフェミニズムや個人主義を好む。
 改正前の教育基本法は、概ねこういった思想の体系の下に戦後GHQが作ったものであった。(驚くべき事に、教育基本法は日本国憲法より前に押しつけてきたのだ。教育のプライオリティの高さが伺えるだろう。また、日本国憲法全体の理念が、この教育基本法に従っている事が分かれば、左翼的な思想体系の根幹が見えてくる)
 だが、この改正前の教育基本法の発想にはいかにも無理があると言わざるを得ない。
 何故なら、「ホモサピエンスとして一匹一匹生まれながらに持っている人類普遍の『理性』」など、存在しないからである。
 もし、全知全能の神が存在して、ホモサピエンス一匹一匹に『理性』なるものを与えてくれた、というのであれば、あるいは人類普遍の理性は存在するのかもしれない。
 だが、神は存在しないとするのが妥当であると、少なくとも俺は思う。
 また、日本文明において、その根本の宗教観を、キリスト教的『全知全能の神』に見いださなければならない義理など、一ミリリットルもないはずだ。
 そうなると、やはり我々日本国民としての『倫理』は、人類普遍の理性などではなく、「国家や地域、家族、といった歴史的集団が積み重ねていった社会的先入見としての道徳」を基準にするしかない。
 これはむしろ、学問以前の常識の話である。
 いくら子供の自発性が大事と言っても、百科全書派よろしく知識のみを与えて、後は人間の理性に任せましょうってな調子では、流石に無理があるのだ。そもそも、その知識の体系は何処からくるのか、という問いも、国家や集団の歴史にあるとしか答えられぬではないか。
 日本国民固有の共通価値や道徳、地域の特性、家でのしきたり、そういった土台があってこそ始めて、個々の自主性や個性なるものが発揮できる。土台の上での多種多様の考えだから秩序も生じる。至極当たり前の話である。
 また、それは必ずしも、子供が従順であることを前提としていない。従うにしても、反抗するにしても、社会的な先入見の基準があってこそ始めて選択というものが発揮されるのだから。

 教育基本法の改正はそう言った意味において、教育の基本的な方向を(人類ではなく)国家の歴史に基づいたものとして定めた、まさに国家の独立を確立する始めの一歩としての改正だったのである。

(尚、この教育基本法の改正は、憲法の根本理念に懐疑を示したものでもあるということも申し添えておこう。教育基本法は憲法と整合していなければならないからだ)

 しかし、『市民』らはこれが気にくわないらしい。
 現在の自分の価値観から倫理観にいたるまでは、自分からはじまり、自分に帰結するものであるということにしておきたいのだ。
 何故なら、個々が、個々において理性なるものを保有して生まれてくる仮定すれば、国家を始めとする集団の歴史的継続性に義務を負わなくて済むからである。
 そして当然、そういった架空の仮定の中では、政府の役割は極めて矮小なもので済む。
 その仮定の下で、市民は政府に「しゃしゃり出てくるな」「個人に、国家の義務を負わせるな」と騒ぎ立てるのだ。
 その仮定が、実は空虚な妄想であることなど、実は分かっているのだろうけれど、気づかない振りをしていた方が、「個人の自由意志」の名の下好き勝手に帰属から解放された気分になれるのである。自分の「思考」が自分で完結したものなのだと、イキがることができて、とても気持ちが良いのだ。

 こういった『市民』に色づいた世が、戦後体制というものの本質であると考える。
 戦後体制とは、つまり、国家的独立の精神を否定する体制である。
 国家的独立とは、国家の歴史的経緯を枠組みとした世代を越える継続性からしかこない。
 つまるところ、「日本列島という場所に住むホモサピエンス」ではなく、「日本の歴史を引き連れた日本国民」の国家でなければ独立はあたわず、世が市民に色づいたままでは国家という観念は世代ごとに離散していき、最終的に物質的繁栄も失うのである。何故なら、国家の物質的繁栄は、『国家』という主体がなければ、論理的に不可能であるからだ。
 そして、政府の果たす役割は大きいのである。
 日本政府は、日本国の中央権力として、日本列島に住むホモサピエンスではなく、日本国の歴史的継続性を第一義として考え、だから歴史的な感覚を引き連れた日本国民の生活を回さねばならないーーという思考順序でなければ、何がなにやら分からない。

 こういう、当たり前な、常識的な話を『市民』は理解しようとも、したいとも思っていないのである。だから、マスメディアは、ユーザーの大多数である『市民』の気を察して、紙面、ニュース、ワイドショーにて夢想を流し、その夢想(つまり戦後体制)に反するものへの攻撃を行い、主権者たる人民様の歓心を買おうとするのである。また、マスメディアに従事する人々の多くも『市民』であるということも事由ではある。

 こういった世であるから、これまで日本政府も『市民』に迎合して、中央政府たることを削ぎ始めていたのが平成の御代の一貫した流れであった。何故なら、国民であろうと、市民であろうと、日本国籍を持ったホモサピエンスには選挙権があり、選挙に負ければ政権を失うからである。
 しかし、日本国政府には、政府を政府たらしめてもらわねばならない。中央権力が中央権力として、国家を統治し、民を、市民ではなく国民として歴史的な存在にせしめなければならない。

 一度、市民の手に落ちた国家を、国民の手に取り戻すには、一歩一歩の漸進をもって、辛抱強く国家の歴史に基づいた常識を取り戻していくほかない。
 安倍氏が「日本国と国民」を基軸に中央政府的理念を掲げ、それを政策に反映していく限り、「日本列島と市民」を基軸とするマスコミはワケの分からない中傷を繰り返すであろう。
 どちらが勝つかは知れぬが、もし後者が勝ったならば、日本という名称が百年の内に消え去ってしまう可能性は低くはないのではなかろうか。



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