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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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特別会計を膨らまそう! 


 中央政府の予算には「一般会計」と「特別会計」「財政投融資」があります。

 普通に政府の予算といえば「一般会計」の方を指していることが多いです。
 こちらの方が予算委員会などがテレビ放映されてメジャーなのです。



 一般会計は、所得税や法人税、消費税といった目的を限定しない税収入によって賄われます。
 支出は一年がかりで各省庁が請求をして、最終的に予算委員会で国会議員が予算案を通すというものです。

 特別会計は、かつての道路特定財源のように、「ガソリン税で道路を作る」というふうに目的を限定した財源によって、各々独自採算をとっているものです。



 で、だいたいこの「特別会計」は、大衆によって「政府の無駄遣い論」の悪玉にされてきたのがここ二十年の歴史です。

「一般会計の陰に隠れて、特別会計で政府はムダづかいしているに違いない」

 ……というわけです。

 もちろん、こういう「チープ」な決めつけは少し実体を見てみれば言い過ぎだということがわかられるものですが、これが大量の世論ともなると、「一般会計の陰に隠れて、特別会計で政府はムダづかいしているに違いない説」が有力になる。

 小泉首相の「聖域なき構造改革」や民主党の「事業仕分け」は、これに類するものです。

 また、第一次安倍政権(第一次ですよ?)の、道路特定財源の一般財源化などは、明確に小泉首相の「聖域なき構造改革」の後を継いだものであった。

(※これはいわゆる「右も左も大衆に媚びへつらっている」ということの典型です)
(※また、特別会計の「埋蔵金」などと言われ、「財政赤字が大変だデマ」を根拠に「ムダを削れ論」が多くされてきた)



 こういう21世紀の「大衆的予算観」を、我々は真剣に反省しなければならないのだと思います。

 そもそも、自主財源を持つ公的な事業は、「国家にとって大切」なものです。

 特別会計にも、もちろん「ムダ」があるかもしれないことは否定しませんが、「もっとやるべきで足りない」という部分がある可能性だってありますでしょう。

 でも誰もそんなことは言わない。「ムダを削れ」の方ばかり言う。

 何故かと言えば、「権力者が俺たちの税金をムダづかいしている!」と言っていた方が気持ちイイし、世の中で通りが良く、処世的に都合がイイからでしょう。

 みんなそういう力学であることを薄々感じとりながらも、国家のことよりその場その場の処世の方が大事だから気づかないフリをしているだけに違いないのです。



 そういうゲロ以下の大衆力学が全体として集約された予算観が、本当に国家を毀損してきたのでした。

 これは、本当にリベラルも保守もそうだったのです。

 リベラルは政府に対する情報開示的な志向で。

 保守は新自由主義的な志向で。

 ちなみに、新自由主義、市場原理主義的な志向で特別会計がムダ扱いされるのは、あらゆる需要を「民間市場で需要されるもの」を基礎にして価値見積もりする「価格観」が基礎にあるからです。

 山本幸三地方創成担当大臣が、

「ガンは文化学芸員。観光マインドがまったくない」

 などと発言したのは、まさにその薄く広く甘く蔓延しているイデオロギーが基礎にあるからに違いないのです。

 言うまでもなく観光は市場で需要されるものですが、文化学芸員の仕事はむしろ「国家的な文化の再解釈そのもの」にあるに決まっているじゃないですか。

 このように市場原理主義者は、こうした国家、政府が政治的に需要する他ない「公的需要」を価値として換算しない価格観を有している。

 仮に公的な事業に価値を認めたとしても、「最終的に民間市場の価格に裏打ちされた価値を生み出すか否か」のみをその存立根拠として認めるにすぎない。

 そこには、極めて強い個人主義が胚胎しているのであるし、単にこうしたバラバラな個人主義が寄り集まったものが国家……という空虚な国家観が根底にあるとも言える。

 だから、こうした市場原理主義に、リベラルも結託してきたのです。

 リベラルは、「弱い人が可哀想」と言って新自由主義を攻撃しながらも、都合がイイ部分だけ(政府を糾弾できる部分だけ)市場原理主義的な枠組みを採用して、それでもいけしゃあしゃあと「自分たちは保守とは違う」というふうに振舞ってきた。

(※もっとも、リベラルは「国家にこだわらない」ことを前提にしているのであるから、論理的に整合してはいるかもしれないのだけれど、それは「論理的に整合している」ということ以上の価値を持たない整合です。だって、国家にこだわっていないのですから)

 ・

 加えて言えば、こうした「公的な需要」というのは、何も「経済」の足を引っ張るばかりではないのです。

 デフレということを考えれば、「政治的な需要」というものは確固たる有効需要であるし、確固たる有効需要は投資の「確実観」にも繋がる。

 また、長期的に見ても、別に「民間の需要」に対して「政治的な需要」が増えたって全然問題ないでしょう。

 GDPに占める政府支出の割合が増えるだけです。

 政府の支出は国家にとって大切なことをやるのであるし、仮にそうでないと思ったとしたら「改善する」根拠にはなったとしても、別に「削る」根拠にはまったくならないのです。


 ならば、例えば一般会計の特別会計への繰り入れなど、かつてのやり方を見直してみるのも良いのではないでしょうか。

 たとえば、再び道路特定財源を作り、特別会計で道路を作るとか。



 で、こういう発想は、我々日本人はリベラル的発想では無理で、おおよそ「ナショナリズム」を喚起してしか行われないと、私は強く感じているのであります。

 我々が「公共の価値」というものを想えるのは、日本へのこだわり、ナショナリズムが基礎にあるからこそでしょう。

 少なくとも私はナショナリズムの基礎がない公共的価値なんて想定不可です。

 逆に言えば、ナショナリズムが霧散してしまったので、公共の価値が空洞化したということでもあるに違いないのだけれど。


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Category: 政治&経済:財政規模、大きな政府

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