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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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愛国心について 

(※この記事は某所で内々に書いたものなのですが、そこそこうまく書けたと思うので一部改稿してブログにも掲載してみることにしました。)

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 今回は今話題の「愛国心」について気合いを入れて書きます。



 そもそも我々は日本人である時点で、自覚的にも無自覚的にも「日本」に大きく前提付けられていることは言うまでもないことでしょう。

 ここでは、こうした我々の「日本に前提付けられたもの」の中から、とりわけ「愛」を強調したものが「愛国心」という言葉だと定義しておきます。

 とは言え、愛国心という言葉は、まずそうやって「愛」などと強調している時点で、もうその言葉遣いが「日本的ではない」というようにも思われるものです。

 そんなきっちりかっちりした言葉を直栽的に使ってしまうと、もう「気持ちそのもの」ではなくなってしまう……ような気がするからです。

 そして、こうした感性が失われてしまったなら、日本人の「日本人性」も失われてしまったことになってしまうかもしれないから、原理的に言えば日本人は「愛」や「愛国心」などという言葉を使うべきではないかもしれないとも思う。



 そういうわけで、我々は「愛国心」を語る前に、まず「愛のようなもの」についてもっと慎重に語らなければならないようです。

 そもそも「愛」という言葉そのものに「押し付け」や「薄っぺらさ」や「画一化」という危険性が含まれているのは明らかなのですから、「愛のようなもの」を語るにあたってその文脈に応分の注意が必要となるのも明らかでしょう。



 ならば、ここでまずはその文脈(物語)ということについて少し注意してみたいと思います。

 ここでは我々個々人の文脈的な精神を以下の三層に分けて考えてみます。



1「無自覚的に経験世界を文脈として解釈している精神」

2「自覚的に思考して文脈を編む精神」

3「他者と文脈として関係する精神」



 これら三層の文脈が複雑かつ膨大な循環を絶えず行っているから、人間は「私」としての意識を持ち得ている。

 逆に言えば、こうした文脈の循環がない状態は、人間以外の言葉を持たない動物の状態であり、つまり本能がそのまま意識である状態でしょう。

 ここで重要なのは、「動物は無自覚的にも経験世界を解釈してはいないであろう」ということです。

 この点が本当に重要で、動物が「言葉でコミュニケーションしないこと」や「言葉によって思考しないこと」は明らかだから誰でもすぐにわかるのですが、ということはつまりイコール「無自覚に経験世界を解釈してもいない」ということはなかなかわかりずらいところです。

 というのも、「人間が言語文脈的に経験世界を解釈して生きている」ということがそもそも多く無自覚だからです。

 でも、動物はその部分も本能の機能として備わっているらしいということは、動物に言葉がないことからも明らかなのです。

(だからと言って人間が動物より上等だなどとはこれっぽっちも思いませんが、我々は人間なのですから仕方がありません)



 このことは、我々の意識がどれほど深く日本語に支配されているか、ということの証拠になります。

 言い換えれば、我々は日本語でコミュニケーションするだけではなく、日本語で思考するのみならず、「日本語の世界」を生きているのです。

 だから、たとえば「人間に愛のようなものがある」と信じても、それは日本語の文脈からの信仰であるから、別に日本語から超越して人間愛を掴み取っているわけではない。

 言い換えると、我々は日本語の世界でしか愛を知ることはできないということです。



 するとつまり、我々が愛のようなものを思うとき、それは日本語を初めとした様々な日本的なものを介して愛しているのだということになります。

 純粋に、

「私が愛したいから愛す」

 などというのは人間には不可能なのです。

 何故なら、「私が愛したい」という気持ちの時点ではすでに私以外のものが前提として大いに混入しているからです。



 感情の前提ということならば日本語以外にも、「日本の土地」や「日本人としての身体」や「日本的人間交際の組織循環」といったものが考えられますが、日本語が最もわかりやすく根本的なところでもあると思います。

 と言うより、「土地や身体や組織」は「日本語」によって絶えず解釈されているのと同時に、「日本語」も「土地や身体や組織」によって絶えず更新されていると見るのが適当でしょう。

 だとすると我々は、いわば「日本によって愛する」ということだけは間違いなく無自覚的にやっていることになります(1%のサイコパス以外は、でしょうけど)。

 この無自覚な愛国心は絶対に存在すると前提しなければなりません。つまり、「国を愛する心」というよりは「国によって愛する心」という意味の愛国心です。



 さて、ひとまずこうした「無自覚的に、日本によって愛する心」が「ある」と前提したとしましょう。

 しかし、それでもすぐに大きな問題に突き当たります。

 それは、我々に「無自覚的に、日本によって愛する心」があったとしても、それが思考やコミュニケーションの段階に活かされるかどうかは別問題だということです。

 ざっくり言って、前近代、封建の時代は別にそんなものは自覚せずとも一己の一生は土地や信仰や共同体に埋め込まれて自然に「日本によって愛する心」が活かされる可能性は高かった。

 こういうことを自覚しなければならなかったのはこれを指導し成り立たせる責任を持った特権階級であった。

 と言うか、だからこそ彼らは特権階級だったのです。

 しかし、ざっくり言って近代化をすると、狭い土地から人の心が離れ、ゆえに信仰は世俗化し、共同体はバラけ、一人一人の自我の領域がデカくなるので、ポケーっとしていても「国によって愛する心」が活かされるなどという可能性は極めて低くなる。

 何故なら、そもそも我々が無自覚のままに「国によって愛する心」を活かせていたのは、「土地や信仰や共同体」にその機能が編み込まれていたからでしょう。

 また、その機能を維持していた特権階級や特権階級を祖に持つ権力も、次第にこれを剥奪されてゆくのが近代なのです。



 さて、このような状態にあって、「近代的な自我を持ったバラバラな諸個人」には二つの生の可能性があると考えられます。



 ひとつは「自分の生存期間内で、できるだけ快楽を多く、不快を少なく生きる」ことを最終目的とする生です。

 で、おそろしいことにこの世界がそうした邪悪な世界である可能性もなくはないのです。また、こうした生は別にサイコパスの専売特許ではありません。

 人に狡猾や偽善、欺瞞が存在しうる以上、また、人が自分に対しても嘘をつける動物である以上、その経路のヴァリエーションは上から下まで実に多種様々です。

 ちなみに、森友学園やAPPA懸賞論文のような「愛国専門人」も、愛国を言っていれば仲間内でチヤホヤされるという目的に帰着しいているのが明瞭である以上、「快楽・不快の生」の一形態であるということに過ぎないのです。
(ということは、別の形態の「快楽・不快の生」を生きている者は愛国専門人をバカにできないということでもあるのだけれど)

 それに、大衆現象や全体主義現象を形作る一粒一粒は、凡庸でありながらもこの邪悪なる生を生きているに違いないのです。

 この場合、その一粒一粒が凡庸なのは、単なる能力不足か、偏見や道徳に縛られて欲望を発揮しきれていないから……という話にならざるをえないでしょう。

 これの本当におそろしいのは、この生の方が正しいのかもしれないという可能性を百%は否定できないところです。



 それに対してもうひとつは、「国によって愛する心」を自覚して、思考や交際に活かそうとする生です。

 つまり、かつての特権階級のやっていたことを、近代的な個人としての「私」がやっちまえば良いのです。

 ちなみに、現代の「社会人」というもの一人一人が、かつての特権階級のレベルで国によって愛する心を自覚するのなら、民主主義が成功する可能性があるかもしれません。

 もちろんそんなこと自体がありえない話なので封建の完全に消え去った民主主義は失敗し、ナショナリズムの減退と共に市民社会も産業社会も崩れてゆくのですが、理論上はそうでしょう。

 そして、理論上でそうだということは、現代人として生きざるをえない一人の「私」としては「国によって愛する心を自覚して、思考や交際に活かそうとする生」の道筋が残されているということなのです。



 でも、この道筋が残されているというだけでは、まだまだ問題は残ります。

 そもそも、自分の「日本によって愛する心」をまるごと自覚するのは人間個人の能力として不可能ですし、気合いをいれればどうにかなるってもんでもないのですから、「正統な伝統形式(スタイル)」がどうしても必要になる。

 これは封建の特権階級だってそうだったでしょう。

 この正統、伝統、形式というのが特に重要なのは、「どのような自覚でも良いというわけにはいかない」からです。

 それこそ新興宗教から愛国詐欺に至るまで「自覚」の論理は無数に伸び得ます。

 すると、正統、伝統、形式がなければ、それは単なる「相対主義」か「狂信」か「オタク趣味」か「専門主義」に堕することになり、そうなった時点で「快楽・不快の生」へ転落することにもなる。



 ここで、現代の日本でも許され得る最終最後の正統な伝統スタイルとは「天皇へ頭を垂れる私」というスタイルであると前提します。

 これはプロテスタントの「ゴッドと私の関係」と被るようでいてやはり違うものです。

 日本人の個人は別に天皇へ語りかけたりはしません。天皇は天の下をシラしめる存在であり、その眼差しに対して頭を垂れるというのが日本人のスタイルなのです。

 そして、天皇へ頭を垂れる私が思考し他者と関係するから、「日本による愛のようなもの」をこの日本語の世界で自覚的に活かすことができるというわけです。

 これらは愛国心という言葉よりは、「信仰心と忠誠心」と表現する方が適切なのかもしれません。

 でもこれをとりたてて「愛国」という言葉でまとめあげなければならないのは、「近代」の問題の他に「国際」という問題が存在していたからです。

 そもそも我々は、普段は愛だなんて言葉をポンポン使ったりはしないものの、一定の「危機」に面した時はギアがひとつ変わり言葉が直栽的になったりします。

 別にギアが変わるからと言って「日本人が立ち上がる」とかそういう話をしているのではなくって、たとえば災害や事故や家庭的な危機に直面した時、普段当たり前だと思っていたものへの愛着が急に自覚されて、言葉が直栽的にならざるをえないことはあるでしょう。

 日本国家という単位で見れば、二百年近く前からは常に「危機」の状態にあるわけです。

 何故なら、この先もっともっと地球が狭くなって日本国家が溶けて流れて消滅する
であろうことは、ほぼ確定的に思われるから。

(◇ちなみに、「それで何が問題なの?」となってしまうと、我々には子供を作る正当性がなくなります。だって、日本を永劫続かせようという意思が前提にあるから、この日本の世界観の中で生まれて死んで、死んで生まれてする必要が出るので、子供を作ることが低劣な行為ではなくなる一縷の可能性が出るわけでしょう。そうでなければ、子供は単なる欲望と避妊失敗の産物であるか、単に「愛玩」のためにしつらえているということになってしまうのです)



 この国際化による百年単位の危機の下で、日本人を束ね、中央政府以下一億連帯するために直栽的な言葉が必要である部分はあるのです。

 例えば、愛国的連帯がなければ新幹線を通すという事業を共同することはできなかったのだし、市民社会や産業社会も協力や共同の枠組みがなければ存立しえない以上、日本人の愛国的連帯が基礎になければ存立していない。

 現今存立しているように見えるのは、崩れてゆくまでのタイムラグにあるというだけなのですから。

 戦争で愛国的連帯が必要なのはもちろんのこととして、現在当たり前のものとして使っている多くの制度や組織や共通の事業も、愛国的連帯がなければ成り立たないことは明らかなのです。

 なのに、ほとんどの連中がこれを知らんぷりしているのは本当にムカつかれることです。



 ただ、こうした国際的な危機に対して求められた戦争能力、市民社会、産業社会を仕立てるための愛国的連帯は、何事か「私」の「国によって愛する心」から乖離することになります。

 直栽的な言葉で人を束ねる政治的な愛国心は、心そのものを画一的に寸断するものでもある。

 言い換えれば、「愛国的連帯」は、「天皇へ頭を垂れる私」と衝突することがありえるということ。

 そして、「政治的な愛国的連帯」が、「私の国によって愛する心」を踏みにじらざるをえない時もあるのです。



 例えば、「徴兵」などはその可能性を含みますでしょう。

 もちろん、この場合も「国によって愛する心」と「愛国的連帯」が重なる部分もあるでしょうが、乖離する部分もある。

 例えば、ここに祭りの若衆などやって地元に埋め込まれていた妻子持ちの土方の青年がいたとします。

 そんな彼が兵隊に取られた場合、愛国的連帯にコミットできる部分と、地元を離れたくないと思う部分とが当然あるでしょう。

 それでもその時、国家に兵隊が必要であるなら、「政府の強権」は彼へ兵役を強制する義務があるのです。



 また、こうした政府の強権的な力学は別に徴兵でなくても、現在も市民社会や産業社会を通して当たり前のごとく働いている力学でもあります。

 でもそれは仕方のないことであるし、むしろ現在は政府が統治力を手放しすぎなところの方が多い。



 ただし、ここで気をつけなければならないのは、こうした政府の強権は「強権を振ってる感を醸すこと」や「支配することそのもの」が目的化するおそれがありうるということです。

 地球の狭くなる危機に対応するため中央政府に強権を集中させざるをえず、ゆえに「国によって愛する心」を踏みにじってしまう領域までは万やむをえないにせよ、「強権を振るっている感」を醸し出すための改革が「国によって愛する心」を踏みにじることはあってはならない……ということだけは言えます。

(◇また、こうした改革が実は統治権力を手放す改革である場合が多いのも留意しておかねばなりません。現首相もそうですが、平成の諸改革の強権性は政府機関の強権性ではなく、「慣習を破る手続き的な強引さ」である場合が多い)



 しかしでも、ならばその政府が「正しく強権を振るっているか、強権を振るっている感を醸しているだけか」を判断するのは誰なのでしょう。

 民主主義の発想では、国民がそれを判断するというわけでしょう。

 でも、その「国民」という意味が単なる「日本国籍を持った一人一人の人間」ということならば、到底うなずくことはできない。

 一人一人の判断の寄せ集めが全体の判断として正当性を帯びてしまうと、単に「あーしたい、こーしたい」とか「政府に縛られたくない」とか「徴兵される確率を1%でも下げておきたい」とか「政府に権限を持たせているのがムカつく」といったような力学も判断の正当性に含めてよいということになってしまうでしょう。

「政府権力の暴走を防ぐため」という根拠でこうした請求に正当性を付与する理屈は詭弁中の詭弁です。

 第一そんな醜い力学ならば、別に政府の暴走に轢かれたとて何の問題もないじゃないですか。



 ただ、もし「国民が判断する」の意味が、「国によって愛する心を国民全体で活かして判断する」という意味であれば、とりあえずうなずける。

 そして、「国によって愛する心を国民全体で活かして判断する」 とはどういうことなのか……というところに至って、議員制内閣制度や自民党の構造、地方構造、産業構造、省庁構造における「政治的慣習」や「手続き」に、過去から現在に至る総国民の叡知があらかじめ埋め込まれている……という話をすることができるのであり、愛国論は保守政治論に繋がりをみせるのです。



 ただしそれでも、その構造自体が現在どれほどぶち壊されたかという評価や、危機に応じた独裁権力の必要の評価という厄介な問題は残りますけれど。


(了)

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