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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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TPPを思想的に全否定する 

 数年前か。TPPの話が出たてで、これが

「複数の国が寄り集まって、関税とかが原則ゼロの自由貿易圏を作る」

 という話であるということぐらいしか、よく分からなかった時から、俺は直感的にこの話が出鱈目であると確信していた。
 それは、ここからにじみ出ている思想的な態度が、途方もなく間違っているからである。
 その間違った態度とは、

『経済であれば、人は国境を越えて一緒になれるし、なった方が良い』

 という思想的態度だ。
 これは、間違っているのである。断言する。
 経済は、国境に密接に関わっているのであり、(ある程度は開いていても良いが)ある程度閉じなければ、国境そのものの存在自体の問題になってくるのは、常識的に考えて至極当然のことだ。

 何故、こんなTPPなどという非常識な話が世を跋扈して憚らないのか……それは、その奥に『進歩主義』と『反国家主義(個人主義)』が潜んでいるからだと、俺は推察するものである。


 進歩主義ーーというのは、『人類は時代が進めば進むほど、人類として進歩していく』という思想である。
 これは、幼稚園生や小学生が夢想する理想としてはロマンがあって結構であるが、現実的には絶対にあり得ない話だ。

 人類は決して進歩しないし、また、退歩もしないのである。

 何故なら、人類は人類として歴史を共有していない、世界観を共有していない、宗教観を共有していない、倫理、道徳を共有していない、言語を共有していない、観念、概念を共有していない、文化を共有していない、偏見、先入観を共有していないーーといったように、『人類』という塊で生きてなどいないからだ。そして、人類という塊でそれらを共有するなどということは未来永劫出来るはずなどないし、もし仮に出来たとしても、そんな単一的でモノクロな世界など悲劇以外の何物でもない。
 我々が、『進歩』のようなものを(幻であっても)感じ取っていたとすれば、それは文明が進歩しているのである。つまり、現在で言えば、『国家』だ。人類そのものが進歩するなどというのは、人類が生物的に進化(エボリューション)して、その習性自体が変化した時以外あり得ない。
 ただ、もう一つ付け加えれば、文明は進歩もすれば、退歩もするのであるが……

 こんなに明瞭に、確かに、明らかに、人間は人間の習性として、「文明、共同体の塊として進歩、退歩をしている」のに、何故、進歩主義などというものが流行って、人々が無意識にそれを妄信するに至っているのか。

 それをもう少し掘り下げれば、そこには数値的合理への飽くなき信仰というものがあるのだと考える。
 例えば、『物』は、数や量で数値化できる。そこに、『人間』というものも一匹二匹と数えることができる。
 その数値に基づいて、複雑すぎる『社会』を計算可能なところまで単純化し(モデリング)、数学的に何らかの経済的合理を計算する学問が経済学だ。
 勿論、数値的合理それ自体は、全く無用なものであるとは決して言えない。
 だが、その数値的合理を成立させる為には、国家の枠組みと中央政府の存在による『統治の恩恵』の諸々が存在するということが大前提であることを、全く認めようとしない者がいる所に問題があるのだ。

 言い方を変えれば、TPPを推奨する者にとって、経済の数値的合理は国家の枠組みや中央政府の統治というものが薄くても、成立し得ると考えているのである。
 彼らは決して、国家の枠組みや中央政府が存在することによって、経済活動に前提条件が敷かれているこの状態を、『統治の恩恵』だとは思っていない。おそらく、多くは国家も政府もなくたって人間に備わっている当たり前の権利であるとでも考えているのではあるまいか。
 つまり、『基本的人権』というものをある種フランス革命の流れを汲むイデオロギーとして原理的に信仰しているのである。

 基本的人権の『根拠』は、『人間の理性』への信仰であった。

「人間には博愛的な理性があるから、国家、政府なんかなくとも人間は理性的な生活ができる。その政府なんて無くとも元々あった権利の水準が『人権』である。政府は、人民に無政府状態でも存在する人権を保証する義務がある」

 というのが、人権の思想である。いや、本当に。
 普通に考えて、国家と政府がなければ無秩序と混乱へ放り出されるに決まっているということくらい、高校生だって分かりそうなものだが。

 常識的な日本人なら、『人権』という言葉を聞いて、「互いに人間を尊重しあいましょう」くらいの意味に捉えているはずだし、それがまっとうな生活民の反応であると思う。

 が、事実、『人権』の源流には、単なる『反国家』或いは『反政府』の思想的根拠としての、「政府への請求の根拠」であったのだ。


 ここに共通するのは、「国家の枠組みが歴史的に定義されていること」と、「中央政府が統治をしていること」の、明らかに甚大かつ膨大な『恩恵』を、狂おしいほど過剰に少なく少なく見積もっていこうとする態度である。
 その、「狂おしいほど過剰に少なく少なく見積もる」根拠が、『博愛的な理性』か『経済合理的な理性』であるかの違いだけだ。
 おもしろいことに、その目的すら同一で、
「国家、政府から、自由になりたい」
 である。


 だが、常識的な二十歳以上の大人の生活民であれば、自分の帰属するありとあらゆる集団から、自分がどれほどの恩恵を受けているか、そして「歴史、倫理、法律、道徳、偏見、先入観、既得権益」というようなものによって、いかに経済活動の前提が支えられているか、そのくらいは分かるはずだ。
 そして、それらが『国境』と『中央政府の統治権限』を薄めてしまって、保つことの出来るものではないことも、実は皆認めているはずなのである。ただ、そんな事言うと『進歩的、開明的でない』と思われてしまう気がして、言えない、或いは思わないようにしているのだろう。
 ただ、俺から見たら、何故「進歩的で、開明的でなければならないのか」と思う。いいじゃん、前時代的で、保守的で。より新しい時代の方が正しいなどという保証はどこにもないのだから。

 国家に基づいて、中央政府が権威と権限をもって、国境をあらゆる面で保守し、産業の多様性を保守し、内的にも、外的にも、我々日本人の公正をもって適正な『不自由』を強制するからこそ、その前提の秩序の上で『自由な市場競争』が成り立つのである。



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Category: 経済

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