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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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反原発運動が嫌いです 

 俺は、反原発運動というものが、大っっっ嫌いである。

 家庭をもった中年が、年齢に応じた堅牢さを身に着けようとするでもなく、『気持ちは若いままよ。自分らしさを探さなきゃ』みたいなノリで羞恥心もなくケバケバシい格好に興じて、自分だけは若作りできていると思っているーーという様と、同じくらい嫌いだ。


 原子力発電所というのは言うまでもなく、「放射能を発射するための装置」ではなく、「電力を発するための装置」である。
 電力とは、エネルギーだ。
 エネルギーを起こすには、資源が必要である。
 つまり、エネルギー問題とは、資源の確保の問題と同義だ。

 決して忘れてはならぬこととして、資源は『金さえ払えばいつでも手に入る』ものではないということがある。
 例えば、今俺がなかなかの金持ちだったとして、事業を興し、石油を買おうと思った。
 おそらく今は、金さえ出せば、俺でも大量の石油を買うことができる。
 しかし、何故、俺が石油を買うことが出来るかと言えば、俺が『日本人』であり、日本国政府が関連するあらゆる外国政府と話をつけて、運輸ルートの安全を軍事的に確保して、三菱などの巨大民間企業の船がホルムズ海峡を渡って他国の海域を渡り、石油コンビナート企業が大量に石油を備蓄しているーーから買えるのである。
 俺がもし無国籍で、単身UAEかなんかに乗り込んで、ドル札束をドカリと積み上げて大量の石油を買えるのかと言えば、買えないのである。
 或いは、買ったとしても、無国籍者では、その後石油をどうすればよいのか。意味がない。

 つまり、そもそも外国からの輸出入というものは、個々人がドルさえ払えば、「何処の国に帰属していようがいつでも取引可能」というものではないーーという大前提を、決して忘れてはならないということだ。国家とその中央政府が存在しているから、あらゆる輸出入に意味が生じ、可能になるのだ。

 さらに言えば、国家を代表する中央政府であっても、「金さえ払えばいつでも取引可能」なものなど、存在しない。

 とりわけ、『資源』と『食料』『水』などの、「無くなれば、人間が生きて行けなくなるもの」についての輸出入は、他の代替可能なモノやサービスと、同列ではない。
 当たり前である。無きゃ死ぬのであるから。
 無きゃ死ぬものの量が減った時でも、「高い金さえ払えば買える」と思う奴はいないだろう。無きゃ死ぬものの量が減ったら、「売ってくれない」に決まっているのである。
 また、量が減っていなくても、無きゃ死ぬものについて輸入しなければならない立場は、それなりに弱いのだ。

 その弱い立場を、個々人では挽回することができないから、国家という大きな単位で、その中央政府が権威と権力によって資源を確保しにかかるのである。

 資源という社会の根幹を成す物については、当然、国家の纏まりごとに中央政府がその軍事力と外交力を背景に確保するものに決まっている。どんな資本主義、市場経済至上主義の社会でも、資源の点では国家において社会主義的、計画経済的なのだ。繰り返すが、無きゃ死ぬので、当たり前である。
 個々の民間企業が単独に、イラクへ行って適量の石油を買ったり、インドネシアに行って天然ガスを買ったりーーなどという性質の物ではないのだ。
 
 つまり、資源、エネルギー政策というものは、国家の枠組みを代表して、中央政府がその根幹を一手に引き受けざるを得ない、最たるものなのである。


 さて、その中央政府として、自分がエネルギー政策の責任者だったとしよう。そして、国家にエネルギーの安定供給が出来なくなったら首を括らねばならない、という条件もつけておこうか。(実際、政府関係者はそのくらいのプレッシャーの中で働いているものである)

 そうしたら、まず考えることは、「余所の国が資源を輸入してくれなくなったらマズい」に決まっている。
 だって資源は、究極的にはいくら金(ドル)を出しても、相手が売りたくないと言ったら、買えないのだから。
 その危険性をどうやって軽減することが出来るかが、最大の問題である。リスクが高ければ高いほど、外国に弱みを握られているということになる。弱みを握られていたら、国家として外人の言うことを聞かなきゃならん、という危険性も高まるのだ。

 最も理想的なのは、自国産エネルギー資源で百パーセント賄うということである。
 しかし、出来ればそれに越したことはないが、まだ実用化していない自国産エネルギーをあてにするなど、責任者としてできるはずがない。
 だって、様々な自国産エネルギーの研究開発は、成功するかもしれないけれど、しないかもしれないのだ。成功したとしても、微々たるエネルギーしか供給できないかもしれない。
 これにピンとこない人は、「首を括るかもしれないけれど、括らないかもしれない」という状況に、自分が飛び込めるかをよく考えてもらいたいものだ。安定供給できなかったら、首を括るんだぜ?

 そうなると、「頼る資源をなるべく手広くやる」ということしか、現状での危険性を減らす手だてはない。
 つまり、もし「石油を買えない」という状態になった時、石油で百パーセントの電力を供給していたら、国家は瀕死である。
 だが、石油で20パーセントだったら、なんとかなる。
 その前提があれば、「てめえ、言うこと聞かないと、石油を売らねえぞ」と何処かの国のメジャーが言ってきても一応の対抗手段があるだろう。もっと言えば、そういう前提があれば、資源での恫喝を予め牽制しておくことができるのだ。

 現在、現実的に纏まった量の電力を安定的に発電できる資源は、石油、天然ガス、石炭などの火力発電と、ウランの原子力だけである。
 「ウランで頼っていた分」を無くすということは、その分、石油、天然ガス、石炭に頼る所を大きくするという事である。
 たかが一つじゃないか、と思うかもしれないが、この一つ減ることが割合として、極めて脆弱な資源運営を生み出すのだ。
 頼る資源が、四つあれば、それぞれ多くとも二割から三割を占めていればよい。
 しかし、三つなら、それぞれが三割から四割を占めねばならんということになる。

 さらに言えば、『石油』に頼る所を大きくするのは、非常に危険である。我々は、何度か石油で非常に痛い目を見たではないか。

 逆に、原子力は、「原子力発電を運営する技術」を持つ国が火力よりも少ないから、ウランの需要は石油よりも低いという状況にある。つまり、石油よりは買い手に有利な状況が生まれやすいということに他ならない。


 よって、「輸入による弱みを大きくする危険性」と、「原子力発電所に事故が起きる微細な可能性を持つ」とでは、比較にならないほど後者の方がマシなのは明々白々である。
 自分が、日本国政府の責任者だったとして考えれば分からんもんだろうか。
 当然後者を選ばなければ、指導者失格に決まっている。


 だが、この『原子力発電所』には、『軍事基地』と同じような問題をはらんでいる。
 つまり、建っている場所に近い国民が決してゼロではないリスクを背負うーーという問題だ。
 それでも、『軍事基地』が国家全体のために無くてはならないのと同じように、原子力発電所も国家全体のために無くてはならないのだ。
 よって、中央政府は、補償やらの妥協点を探って、なんとか地域住民の了承してもらう『政治力』を発揮せねばならんのである。
 何故なら、何処かに建てねばならない故に、誰かが背負わねばならないリスクだからである。
 何処も彼処も誰もかもダメでは、軍事基地も、原子力発電所も、永遠に建たない。

 実際、政治家や官僚は、軍事基地、ダム、空港、原子力発電所、といったものにおいては、苦労して地域住民と交渉をしているのである。
 勿論、その苦労は、必須のものだ。地域住民の了承無しに勝手にやったら、それは長い日本国の歴史の下にある公正と信義に反するからである。
 それでも、国家全体の為に必要な施設は、国内の何処かに建てねばならない故に、誰かにリスクを負ってもらうのだ。
 そして、政府と折り合いと妥協点を付け、国家全体の為にとリスクをとる地域住民が存在するから、国家が成り立っているのである。


 俺が大っっっっ嫌いなのは、それに横から口を出す乞食共である。
「彼らだけがリスクを負うなんて、政府はヒトデナシだ」
 と、そうやって気持ちよくなる輩どものことだ。

 多少インテリぶって、人権やらなんやらのたまう奴らがでるけれど、何故こんなところで『人権』という言葉が出てくるかと言えば、やはり『人権』をその元々の意味として「民が政府に請求する根拠」として考えているからだろう。

 政府は、神的な力を持った何か……ではないのである。
 政府は、「神として人間の権利を保障する」ためではなく、国家国民の代表としてあるのだ。

 政府が政府の役割をこなすのに、「国家の為に成すことには反抗すべし」という態度の輩が邪魔するのは、ただ単にそれが気持ちが良いからである。
 気持ちよく、「原発反対」「基地反対」「空港反対」とギャアギャア騒ぎ立てているけれど、心の奥では、「政府は原発も、基地も取り払うことはない」と決めつけているのだ。
 というか、政府が政府らしく、「原発も基地も作るのだろう」という前提があるからこそ、心置きなく反対運動に興じる事ができるのである。本当に、全て取りやめてしまったら大変だーーということくらい、反対運動している連中も分かっているに決まっているのだ。
 これは、テレビ、新聞も同じである。というか、テレビ、新聞が反原発運動の急先鋒といったところか。
 彼らは、決して政府が政府らしくなくなるという事などあり得ないという前提で、政府的なるものへの嫌がらせを続けているのだから。



 衆議院選挙が近いわけであるが、候補者、政党の皆様には是非、「反原発運動に気持ちよくなっている連中」に汲みせず、政府然とした政策を国民に訴えてもらいたいものだ。
 そうでなければ、反原発運動に興じて気持ちよくなっている連中が前提としていた「やめないに決まっている」ということすら、前提じゃなくなってしまうだろうから。



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