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日本が日本であるために

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アベノミクスと、リフレとケインズ2 

 先日俺は、『アベノミクスとリフレとケインズ』という記事にて、「アベノミクスという政策論を支持する者達は一見同じに見えるかもしれないが、その中にリフレ派とケインズ派という違いがある」ということを述べた。
 その上で現状を鑑みるに、アベノミクスという具体的な政策論に絡みつく、『経済思想』といったもの内容を、もう少し掘り下げて指摘する必要が出てきたように思われる。(或いは、指摘して問題が無い時期に差し掛かったように思われる)

 それは、良い方面では、平成二四年度補正予算が衆参捻れの無い形で通ったから。
 そして、悪い方向では、日米会談によってTPPという空虚なイデオロギーが世間で跋扈しはじめたからだ。

 だから、この『アベノミクスと、リフレとケインズ2』では『1』の時には遠慮して言わなかった事を、忌憚なく述べていこうと思う。


 アベノミクスにてデフレーションの脱却という大まかな政策的方向性が未だ既定路線として確立されていなかった二、三ヶ月ほど前から昨今にかけては、思想的背景などさして重要ではないように思われたかもしれない。
 だが、世の議論が大まかな政策論的な域を出て、より複雑かつ繊細な議論をせねばならない段階へ差し掛かろうとしている今、「そもそもアベノミクスを支持していたような者達の中で、どのような思想の違いがあり、どのような対立が考え得るのか」という事を捉えるのは、より重要な事になってくるはずだ。
 何故なら、これから先、その「思想の違い」が必ず具体的な政策論の対立にも反映されてくるはずだからである。

 この期に及んで脳天気にもそれに気づかず、政策に対する思想や理念をゴチャゴチャにして、表面的でフワフワな議論を続けていれば、必ずワケの分からない政策論が取って付けられたような綺麗事によって世を跋扈し、そして、その下劣で卑怯な世論とか民主主義といったものが、比較的優秀であるはずの政府機関をおかしな方向へ引っぱっていくに違いないのだから。


 ところで、そもそも我々が『経済』と言って論じているようなものは、人間の思考で把握するにはあまりに複雑すぎるものだ。たとえ世紀の大天才が百年鍛錬を積んだとしても、それは「個人の心と思考」において限界があり、社会、経済の複雑性からすれば無力甚だしいはずなのである。しかし、我々は『経済』に対し、何らかの見解を持とうとしたり、問題の解決法を編み出そうとするし、その意志がなければ経済は野放図の様相を呈するであろう。
 ただ、その時。ともすれば、数式を用いてグラフに曲線を描き、それをシフトさせーーといったような手法を取る、いわゆる『経済学』なるものを見て、何か経済というものが「自然科学の見地から出発して、一定の合理性ある結論を算出し得るものである」という勘違いを起こすことがある。その勘違いは、往々にして議論を経済の本質から大きく外れた所へ持っていってしまっているのではあるまいか。
 ここで、俺がどうしても声を大にして主張したいのは、「経済は思想である」ということだ。
 実は、どんな美しい曲線を描くグラフや、難解な微積分を用いた理論も、最初に『思想』がなければ生み出されることはない。何故なら、数式やグラフに反映させることが出来るのは、どんな数学の天才が頭を雑巾のごとく捻っても、「膨大な現実の中の、ほんのごく一部」だからである。そして、その数式やグラフに反映させる「現実のごく一部」の数字は、一体どのように選び取って行かれているのかと問えば、これはもう各々の『思想』によってであるとしか言えない。
 科学、なるものにはすべからくウィットゲンシュタインパラドックスがあるわけだが、特に『経済学』には、実験を重ねて実証したり、解析をすることによって事実を明らかにするーーといった類の学問にすら、物理的になり得ないのだから。
(ここで誤解しないでいただきたいのは、俺は決して『数』がくだらないものであるなどという事を言っているのではない。数の選び取り方、扱い方は、実は無限にあるのだから、げに不完全なる人間は思想によってでしか『数』を扱えないと言っているだけである。)

 さて、このような経済の『思想』をなんとか俯瞰して見てみようとする時には、次のポイントに注目するのが一つの見方なのではないかと考える。
 そのポイントとは、「市場原理をどの程度信用するか」と、「政府の機能をどの程度信用するか」という『思い入れ』である。

 これは当然であるが、市場原理をより信用する者は、それだけ政府の経済への介入を「より小さくするべきだ」と考える。逆に、市場原理を信用ならぬ物だと捉える者は、それだけ政府の経済への介入を「より大きくすべきだ」と考えるのである。
 つまり、経済思想とは、「政府が経済について、どこへ、どの程度の介入をするのが妥当か」というイデオロギーなのである。


 さて、その上で話を『アベノミクス』へ移していこう。
 アベノミクスで焦点にされているのは、言わずもがな「デフレ状態の解消」である。
 そして、アベノミクスというおおまかな政策に賛同する『リフレ派』や『ケインズ派』の思想的違いも、「市場原理をどの程度信用するか」と「政府の機能をどの程度信用するか」という見解の違いにその根元があるのだ。 

 少し乱暴に、分類してみると、リフレ派は「どちらかと言えば市場原理を信用し、政府を信用しない方向の思想」であり、ケインズ派は「どちらかと言えば市場原理を信用せず、政府を信用する方向の思想」であると、言えるかもしれない。

 これをもう少し丁寧に説明するとこうだ。

 リフレ派は前に述べた通り、デフレ脱却において『金融の緩和』を主眼に置く思想である。つまり、「お金をビシバシ刷る」ことによって「物に対して、相対的にお金の『量』が多く」なり、「お金の希少価値が下がる=物価が上昇しデフレがとまる」という論理である。
 言っていることは何となく分かるであろうが、ここで一度立ち止まって考えてもらいたい。
 すると、このリフレの論は、「お金の量さえ正しく供給されていれば、市場経済は正しく機能する」という前提の下での思想だということが分かるはずだ。
 換言すると、リフレ派にとってのデフレとは、「市場原理が失敗している」わけではなくて、「単に、貨幣と物の量に不均衡が生じているだけ」という話題なのだ。
 だから、リフレ派思想の論理に基づけば、そりゃあ「諸悪の根元は日本銀行だ」という話になるのである。

 だが、このリフレの論議は、「最近になって急に浮上してきたもの」ではない。というか、ついこの間、小泉・竹中体制において一度失敗したものなのだ。
 どういうことかと説明すると、日銀で刷った円を民間に(銀行に)出回らせても、市場の需要が目減りしていっている中で設備投資をしても採算がとれないので、民間企業としては銀行から円を借りない。結局、その円は海外の投機筋や国債に行ってしまって国力が上がらなかったのである。
(ただ、それでも「長期的に」見れば、市場は正常に回ると主張するのがリフレ派なのだが)

 これに対して、デフレが単に「お金の発行量の不足」というだけの問題ではなく、「市場原理そのものの失敗」という問題を孕んでいるのではないかーーという風に考えるのがケインズ派の論理だ。
 故に、民間市場の失敗を修正するのは、『政府による経済の介入』しかなくなる。
 つまり、中央政府の財政出動による、市場の需給バランスの調整だ。根も葉もない言い方をすれば、「政府が刷った円を、政府が支出する」ということである。

 このように、リフレ派には「市場原理への信用と、政府への不信用」が、ケインズ派には「市場原理への不信用と、政府の修正機能への信用」が思想背景としてあるのだ。



 さて、ここで、何故俺が『今』この事を重要視し、そして、ケインズの論理の方に分があると主張するのかということを述べてみたい。

 それは、少なくとも俺が物心つき始めてから今日に至るまで、あまりにも「経済から『国家とか中央政府』といったものを排除すること」を善しとしてきた世論の風潮に、強い懐疑と不信を抱いているからだ。
 言い方を変えると、「市場経済を国家から切り離して、民間の自由(個々の自由)に任せれば任せるほど、競争が起こって経済が成長する」という話は、単なる綺麗事でウソっぱちだと、俺は思うのだ。

 ともすれば、冷戦構造の余波からか(俺の生まれる前に、東西冷戦というのがあったらしい)、そういった「経済の国家からの自由」に対立するものは、すべからく「格差是正」の論議であるかのごとく、世で語られてはいまいか。
 つまり、『自由な経済』を国家なり中央政府なりが制限する正当性は、すべからく『個々人の平等』=「金持ちから金を巻き上げて、弱者に再配分する」にしかない、という思いこみが、未だ世論にこびりついているのではないか、と懐疑するのである。
 すると、「自由な経済」は国力重視で、「国家の経済への介入」は弱者の救済重視ーーといったような、ヘンテコな二元論で経済が語られる事も少なくない。

 だが、そりゃあいくらなんでも話を単純に考え過ぎだ、と思う。
 中央政府が介入すべき経済の項目に『弱者の救済』以外何もない、なんて事はありえない。
 もっと言えば、『市場』を国力が上がっていくよう安定的に秩序だてるのも、中央政府の統治による土台がなければ、成し得るはずがないのだ。
 つまり、俺は、「市場から『国家や中央政府』をポンポン退場させてしまったら、国力だって上がらない」と、こう強く考えるわけだ。

 だって、「市場を自由にしていけばいくほど、経済が発達する」なんて話は、『全ての人間が概ね合理的で正しい消費行動をする』という前提がなければ成り立たない。そして、実を言うとそんな保証はどこにもないのである。
 つまり、「消費」を「一票」として捉えた、「民間市場という民主主義(多数決)」において、「多数の票を入れた方が正しい行動である」という保証は何もないということだ。
 むしろ、合成の誤謬とかデフレスパイラルといったものが良い例で、全員が全員一斉に間違った消費(投票)を行い続ける状況だってあり得るのである。
 有名なケインズの『美人投票』の例は、民間市場や民主主義が間違え続けることはあり得るーーということを指摘しているのだ。


 そして、俺がリフレ派に対して感じる不信感は、「民間市場への過度な信用」なのだ。
 何故なら、「お金の量さえ正常なら、民間市場は正常に機能する」という、つい最近失敗した議論をこの期に及んでするということは、やはり「民間市場が失敗し続ける」ことを認めていないが故に他ならないからである。
 これは、民主主義(多数決)は正しいはずだとか、世論や有権者は賢いはずだーーといった空虚な綺麗事に類似するものがあると、俺は思う。


 アベノミクスの価値は、「『国家』や『中央政府』が経済をどう主導するか」という、ここ最近すっかり忘れ去られていた焦点へ、『三本の矢』を放った所にある。
 ここ最近、経済政策とは「いかに国家を経済から退場させるか」という議論であり、それが大きな流れだった。こういった『レーガノミクス的経済思想』に逆らった『エコノミクス』であったからこそ、アベノミクスは意味あるものなのである。

 思想の大きな流れに逆らうということは、絶対に簡単なことではなく、誰にでも出来ることでもない。
 特に、政治家は票で選ばれるが故に、どうしても『世論の大きな流れ』に流されざるを得ない。というか、「本当の事」を言って、『世論』に逆らう政治家は、落選したり、第一線から追いやられたり、死んだりして、いなくなるものだからだ。
 だから、この醜き大衆民主主義の世の中で、政治の劣化というものは、イコール「やっぱり世論は間違っているものだ」という事なのである。別に、政治家が「悪い人たち」だからではない。政治家が大衆世論に迎合せざるを得ない世の中であり、そしてだいたいにおいて大衆世論というものは間違っているというだけのことなのだ。

 そんな中、「国家や政府を市場から退場させる」という大きな潮流に反し、「デフレ脱却のため、政府がお金を刷って、政府が使う」という経済政策を訴え、そして勝ったというところに、価値がある。
 これを見て俺は、今の世の指導者とは『大衆世論』の間違った綺麗事に則した「建前」を上手に述べながら、同時に「本当の事」をいかに美しく見せて、選挙の時に了承をとっておくか、というワケの分からない能力をも求められているのだなあと、政治家の方々に同情を禁じなかったのである。

 例えば、安倍首相がアベノミクスを語る際、よくこの様におっしゃっていたのをご記憶だろうか。
「デフレには金融緩和です!日銀が云々……ただ、金融を緩和しても、円が市場に出回るには時間がかかるので、財政の出動によってその時間差を埋めます」
 これは、財政の出動(公共事業)を嫌がるリフレ派的な人々を懐柔する、素晴らしい文言なのである。
 何故なら、リフレ派の論理は、「お金を刷れば『長期的には』市場が均衡していく」というものだからだ。よって、「時間差を埋める」というこの一句が芸術的政治センスであり、リフレ派の一部はアベノミクスを支持していったのである。もしこれが政治家でなければ、「長期的には、皆死ぬ」などと言ってリフレ派をイラつかせたに違いない。
 ただ実際、金融緩和して財政出動したら、「政府がお金を刷って、政府が使う」ということに他ならないのだから、モノは言いようというものである。

 だが、今まさに、気をつけなければならないのは、せっかく「十数年以上の国内経済停滞を引き起こし続けた極端な経済イデオロギー」と、逆の事をやっているのがアベノミクスの価値であるにも関わらず、未だに「国家と政府の市場からの退場」の方向へ引き戻そうという思想潮流が、世論では一般的に「進歩的で格好良い」と思われている点である。
 そういった「最近失敗した経済思想の潮流から、再び発せられていくであろう政策論」にノーと言って抵抗するのは、アベノミクスを支持していた者の中でも、ケインズ的な思想を持った者の方であろう。
 逆に、「最近失敗した経済思想の潮流から、再び発せられていくであろう政策論」に賛同、または理解を示すのは、リフレ的な思想を持った者であろう。(或いは、冷戦の名残で、反東側という思い入れから自由主義を極端に信望するようになった筋肉質的な人達か)

 具体的に言えば、「規制緩和すりゃあ経済が成長する」という、ちょっと意味の分からない論(しかも最近失敗した論)に対して、危機意識を持つのはケインズ的な人達、危機意識を持たなかったり賛同するのはリフレ派的な人達であろうーーということである。
 そして、tppも同様だ。(tppについては、別の回でまた何度も批判していきたい)

 アベノミクスと併せて、それ以外の経済に関わる諸政策が、今後どちらに引きつられていくかは、内閣周辺、世論、言論、諸々における「経済思想戦争」の動向によって、繊細に影響を受けるはずである。
 何故なら、政府の意志決定は、世論までを含めればとても複雑な影響を受けてなされるのであって、単に内閣が優秀だから優秀な結論が導き出されるというものでもないから。もっと端的に言えば、内閣も色んな所の顔色を伺わなきゃ政権運営をやっていけないはずだ、ということだ。

 であるからして、今をこそ、アベノミクスを支持する者達の思想的背景とか、筋立てとか、そういったモノに対して敏感に捉えていく態度が不可欠なのである。思想戦争が政策に影響を与えるんだから。


 こういった事を言うと、「保守分断だ!」と言う人もいるかもしれない。
 そりゃ勿論、指導者はある程度の幅を味方につけておかなければならないだろう。安倍首相にはこのまま融和すべき者達とは融和して、むやみに敵を作らないでいてもらいたい。
 しかし、(目に見えた反日ではないという)広い意味での保守派の言論の中で、そこそこマトモな議論が交わされていないままにナアナアで纏まり続けるということを続ければ、その浅はかさが世の中で目立ってくる。
 それが、目に見えた反日に、付け入る隙を与えることになろう。
 郵政選挙から民主党への流れが正にそれだ。

 そして、俺は、(二四年度補正予算の通った今、前々回で語った時のような配慮は要らぬであろうし)イチ民間人という無責任な立場を利用して、もう言いたいことを言いたいように言うことにしよう。
 tppについては、次回丁寧に論じたいと思うので、今日はとりあえず、「今必要なのは、多数決(市場原理)ではなく、血(金)とコンクリートである」というのが俺の意見である事を表明して、締めにしたい。



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