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日本が日本であるために

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大東亜戦争の反省点と、主権の回復について 

 今回は、大東亜戦争について。

 戦争を含めた「国家の歩み」というものは、当然その時々の事情があり、何か細かな失敗があったとしても、後から生まれてきた者が何か文句をつけるのは卑怯だとは思う。

 だが、俺の考えとして、「大東亜戦争に関しての反省点」なるものを二点ほどあげさせていただきたい。畏れ多い事ではあるけれど。



 まず、反省点一つ目は、「降伏をした事」である。

 大東亜戦争は、そもそも個々人の命とか、快とか、そういったものの為に行われた戦争ではなかった。
 国家の大儀と誇りと価値観、「日本の在り方」を守る戦いだったのである。

 具体的に言えば、「日本の在り方」を毀損する脅威とは、二つのイデオロギーであった。一つはかの凶悪なソ連的『共産主義』であり、もう一つがさらに輪をかけて凶悪なアメリカ的『自由民主主義』である。
 それら『共産主義』や『自由民主主義』といった左翼イデオロギーは、「個々人の命とか快とかの総合値を合理的に最大にする事」を至上の理念として成り立たせた『主義』だ。(つまり、双方、進歩主義と功利主義を前提としている)

 普通に考えれば、それら『共産主義』とか『自由民主主義』といった指向は、(『手段』としては一理を残すとしても)『目的』とするには無理がある。何故なら、『国家存立の大儀』(目的)の設定に、「個々人の命や、快の総合値」を置いて合理性を導き出せる程、人間の思考や能力は優れていないからだ。

 人間は集団で生きる。つまり、『個人』は関係性の上にしか在せない。それが故に、人間は確実に「感情、愛着、シガラミ、帰属体への拘り」といった『不合理』無しでは生きて行けない。
 というよりも、『不合理』な『目的』があるが故に、それを成すための『合理』が必要になるーーといった風に捉えるのが適切であろう。

 大東亜戦争に話を戻せば、その敵は、主にアメリカによる「自由民主主義の押しつけ」であった。

 それに対して、日本側は「一人一人の命や快といった合理」よりも、「国家の歴史的な大儀や価値観といった不合理(目的)」を重んじる姿勢をもって戦いに臨んだ。
 立派なものである。

 だからこそ残念なのは、その姿勢が、民間人を90万人程焼き殺された辺りで挫けた所にある。
 「命より大儀」という立派な戦いだったのだから、降伏などせず、本土決戦においてたとえ日本人全てが焼き殺されても、「自由と民主主義などという醜い物に取り込まれるよりは遙かにマシ」という意地を見せて滅亡すべきだったのだ。
 そうなれば、勿論俺は生まれてなかったわけであるが、全然良い。変な話だが、「先人が誇りを捨てて後世に命を繋げ、自分が生まれる」という場合より、「先人が誇りの為に死に(滅亡し)、自分が生まれなかった」という場合の方が、俺自身は救われていると思うからだ。



 続いて、反省点二つ目は、「反省をした事」である。

 もっと言えば、「反省の仕方」が決定的にマズかった。
 上では、「降伏をして、本土決戦をしなかったこと」を反省点としてあげたけれど、まあ、実際の所、当時の政府にそんな判断をしろなどという注文をつけるのは、後輩としては傲慢かつ厳しい意見過ぎるかもしれない。

 そもそも、大東亜戦争中の政府は、政府の役割を(完璧ではないにしろ)良くこなしたと評すべきだ。

 対して、国民の方の多くは、「命より大儀」といった『貴族階級的意識』を持ち合わせていたはずはなく、つまり「命が第一」といった『隷属階級的意識』の者が多数であったであろう為、事実上本土決戦は不可能だっただろう。(国民の多くは所詮は平民であり、そして、それで良いのである。)
 で、あるからして、「降伏するしかなかった」というのは、一定の理解を示すことができなくもない。

 ただし、「大東亜戦争にて降伏をするという事」イコール「日本政府の中枢がアメリカ的な自由と民主主義に改変されるという事」ーーだといったようなことは、日本政府は勿論理解していたし、事実そうなった。
 それでも降伏の道を選んだのは、「日本国民は、どこまでも皇室の下で日本国民である」が故に、「一時的に政府中枢が自由民主主義的に改変」されたとしても、しばらくすれば『自由民主主義』なんぞ低劣なものは捨てて、日本を立て直していけるはずだという事を前提としていたからである。

 しかしこれは、国民を買いかぶりすぎていた。

 上記のように国民の多くは所詮『平民』であり、つまり、「命が第一」かつ「快楽が第一」という者達であったのだ。
 こういった隷属階級的な意識の下では、自由民主主義はとても都合がよい。何故なら、上記の通り、自由民主主義とは「個人個人の命や快楽の総合値」を最終目的として存在している合理性であるからだ。

 つまり、政府の中枢が自由民主主義に改変されてしまった後、国民の意識もそれにひきつられて、「自由と民主主義は素晴らしい」という事になってしまったのだ。

 そして、「自由民主主義が正しい」という前提に立って大東亜戦争を『反省』している事が、甚だ醜く、低劣で、排泄物的だーーという風に俺は主張したいのである。

 そりゃあ自由民主主義が正しいという前提で大東亜戦争を振り返れば、「政府は、なんて不自由で非民主的な戦争をしたのだ!」という風に反省することとなる。実際そのような筋道での反省が、現代も(いや、現代になっていっそう)世の中を跋扈しているだろう。
 しかし、そりゃあ当然で、大東亜戦争は「自由民主主義なんぞに取り込まれたくないから戦った戦争」なのだ。

 つまり、「自由民主主義に取り込まれたくない」といって戦った先人を、自由民主主義に取り込まれてしまった後輩が、大儀の無い後からの価値観の下で反省をしているのだ。

 これ以上卑怯で愚かな事があろうか。



 その上で、「日本の主権回復」とは、「自由民主主義(個々人の命や快の総合値を最大にする為の合理性に対する一つの仮説)が、正しい」という『共同幻想』を(完璧とはいかないまでも、ある程度)払拭できた時に、ようやっと言える言葉なのではないか。

 だって、主権回復主権回復と騒げど、その主権を持つはずの日本人の方が「自由と民主主義が正しい」という価値観の下で生きているのだもの。これでは、日本に主権があると言えるはずがない。

 大東亜戦争で守ろうとしていた『国の在り方』を(完全な形でないにせよ)ある程度回復した時に初めて主権を回復したと言えるのだと考えれば、敵はやはり何処まで行っても『自由民主主義』なのだ。

 まあ、通常、自由民主主義の体制の下で、「自由民主主義が素晴らしい」ということになってしまうと、実は理論上、自由民主主義から逃れる術はない。

 しかし、『日本』には、自由民主主義の押しつけを拒否した『大東亜戦争』を戦った歴史がある。
 これが、唯一の希望なのだ。

 つまり、主権の回復=「自由民主主義を払拭する」には、自由民主主義のアンチテーゼとしての戦いである『大東亜戦争』の価値観を肯定する事から始めねばならないと言えるだろう。





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