04 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 06

日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

TOP > 歴史:近代、大東亜戦争 > title - いわゆる自虐史観は、自虐できていない      
  

いわゆる自虐史観は、自虐できていない 

 現代日本の歴史観を、しばしば『自虐史観』と評したりしますね。
 俺はこの名称は、間違っていると思います。なぜなら、いわゆる『自虐史観』という史観は、自虐なんてしていないからです。

 だって、自虐史観という言葉には、多くにおいて「大東亜戦争以前の日本の行いをすべからく否定している史観に対する憤激」が、込められているのでしょう?
 しかし、おそらく、今を生きる日本人の一人一人は、『大東亜戦争以前の日本』を、自分とは思っていないんですよ。

 というより、『大東亜戦争以前の日本』を否定すれば否定するほど、『今の自分ら』を肯定する事ができるんです。



 さて、今現在の日本おける『価値観』というものは、「今生きている人間の一人一人が大切だから」というところに依拠していますよね。
 それが、例えば、社会主義的に「一人一人の平等」が大事だったり、自由民主主義的に「一人一人の自由」が大事だったり、色々なバリエーションはあったとしても、その根幹には「今生きている人間の一人一人が大切だから」という価値観に基づいているわけでしょう。
 究極的な事を言うと、「一人一人の『命』が、この世で最大の価値あるものである」というようなおかしな話に、多くの者が首を縦に振るような狂気の状態なのです。


 勿論、実際はこの「今生きている一人一人の人間が最も大切」という事そのものが、極めて根拠薄弱な理屈ですね。
 だって、人間は誰しもが必ず死ぬのであり、「いつか死ぬのに生きる」という大矛盾を遂行しているんですよ。するとちゃんと脳味噌の動くヤツなら誰だってこう思うわけです。
「俺って、何の為に生きているんだろう?」
 って。(こういう事って大抵小学生くらいの時に考えるんですよねw)
 人間の生きる価値……などというモノを合理的に解明した科学者は未だ存在しませんし、未来永劫絶対に登場しないと断言しますが、こういったことに一定の解釈を持たずに狂わないでいられる程、人間は鈍くできていないでしょう。
 この「生きる理由に対する一定の解釈」を何とか着けようとすると、「自分を生み、育んだモノの一帯」と「自分が生み、育んだモノの一帯」へ、「自分個人の意識」を融解させて保ちうる「世界観、価値観、道徳基準の体系」というものが、どうしたって不可欠です。
 大体、この類の事は、集団、国家に共通する『神秘』とか『歴史』とかによって権威付けられるものですね。そして、その神秘や歴史を共有する者達を構成員(国民)とすることによって、倫理や道徳が筋立てられていくわけです。


 が、今の日本には驚くべきことに、そういったものが殆ど空白状態に見えます。
 このような空白の中では、無理矢理「(いつか死ぬけど)人間一人一人の命が大切」といったような価値に基づく他ないのも、頷けるといったら頷けます。だって、空白なのですから、残ったモノは目に見える『人間の命』ということになってしまって当然ですね。
 しかし、そうなると、当然ながらそれは、「一人一人が生きている間に、どれだけ一瞬一瞬の『快楽』を得ることができるかが大事」という話しになってしまうでしょう?だって、いつか死ぬんだから。
 流行歌の歌詞なんかを眺めると、そういうの多いですよね。
 いや、別にそういうのをどう思おうが良いんですけど、「いつか死ぬ個人が、個人の命を最終価値として、個人の瞬間瞬間の快楽の為に生きる」というのは、中々にキツいものがありますよ。少なくとも俺は、そんな風に考えて生きていけたのは十代後半くらいまででしたし。



 ただ、それは勿論、戦争が終わったあと、急に空白状態に変容したわけではありません。何故なら、戦争が終わって、全ての日本人が一瞬のうちに総入れ替えされたわけではないからです。
 しかし、当然ですが、人間は生まれて死ぬので、ジリジリと入れ替わっていきます。
 そして、戦争が終わった時と現代を結べば、ほとんど総入れ替えされてしまっていますね。(少なくとも現役世代は)

 つまり、よく言う『戦後の価値観』とは、実を言うと「戦後推奨された価値観」の事であり、実際の戦後の日本人は『戦前の価値観』を大きく引きずっていたのです。そして、少し考えれば誰だって分かるはずなのですが、「戦後推奨された価値観」と「現実に生活している人々の価値観」がイコールになっていくには、タイムラグがあるはずなんです。
 そのタイムラグを経て、社会一般に通用する価値観が「戦後推奨された価値観」とイコールになってしまったのが、いわゆる団塊世代が指導的地位に着きだした八十年代から九十年代ほどからだったのではないかと、俺は考えています。(ちょうど、経済的にも二十年失われて行く頃合いですね)



 さて、かくのごとく総入れ替えされた日本人は、その前の日本人と、国家全体の『世界観』や『価値観』の体系を共有できているのでしょうか。

 先ほど述べた通り、現代を生きる日本人の一人一人の大多数は、「国家において歴史的に共有される世界観や価値観が空白状態である」が故に、「今生きている一人一人の命の安全と快楽を合理的に最大化すること」が最大の価値だと思っているのですよ。

 そういう思慮の浅はかな人間は、「国家の歴史的経過において共有する神秘性、世界観、価値観、道徳規準」を、最上の価値と思って生きた先人を見て、こう思うわけです。

「そんな得にもならない事に命をかけて、馬鹿じゃあないの? そんなの僕は(私は)マジ勘弁だし。科学的で開明的な現代に生きる賢い自分たちは、そんな非科学的で不合理な真似はしたくないものだぜ」

 と。
 そして、理論上、そうやって自分たちの先人を「非科学的な阿呆」と罵れば罵るほど、真逆に位置する今の自分達の価値観「人命、物質、科学、快楽、合理」といったものを肯定する事ができてしまうのですね。
 その証拠に、同じ戦後でも、八十年代、九十年代と時代が進めば進むほど、いわゆる『自虐史観』と呼ばれるモノの指向は強まって来ています。


 そうなると、やはり『自虐史観』という呼び名はおかしいでしょう? なんというか、そんな謙虚な響きを含んだ、上等なものではありませんね。

 だって、今の自分たちの価値観を肯定する為に、過去の「異質な」価値観を否定しているのだから、結局は最終的に「今の自分たちを肯定するため」なわけでしょう? つまり、先人を馬鹿にして、今の自分らを自己肯定する根拠にしているだけなのです。


 こういった現在を生きるイエローモンキーらの史観に対しては、別に適切なネーミングというものが必要でしょう。
 候補として一例を挙げれば、俺個人はいつも思考の中でこう呼んでいます。

 今、生命を維持している自分たちを慰める為の史観、ということで……

 自慰史観、と。



(了)



※お読みくださってありがとうございます。少しでも記事にご賛同いただけましたら、ランキング、ツイートなど、ご支援いただけたら大変ありがたいです。どうか、お願いいたします。
また、いつもご覧くださっている方、ご支援くださる方には、重ねて御礼申し上げます。


関連記事
スポンサーサイト

Category: 歴史:近代、大東亜戦争

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

tb 0 : cm 6   

コメント

No title

こんにちは。
また来させてもらいました。

おーじ様はお若くていらっしゃるようですのに、洞察力の鋭さに敬服いたします。
確かに自虐ではないですね、私なら「先人冒涜史観」とでもしましょうか。

私は今54才ですが、日本の空気感が変わってきたなと感じたのが正に80年代以降です。
地域性や家族の価値観にも拠りますが、60年代の日本はかなり保守的だったと思います。テレビも学校教育も。
「人の命は地球より重い」と福田(親のほう)首相が言ってテロリストを解放した赤軍ダッカハイジャック事件が77年、それも大きな転換点の一つでした。
私が70年前後に受けた教育を思い出すと、教師の中に従軍経験者がいたり、教えられる事もかなり「戦前からの連続性」あるものだった気がします。運動場の「国旗掲揚係り」もありましたしね。
同級生の中にはお父さんが従軍→シベリア抑留→無事復員という子もいた時代なので余計、旧日本軍を貶めることなど教師の頭には無かったでしょう。

近隣諸国条項なるものまで出来て教育だけでなくテレビの様子も変わりました。
連続性の断ち切られた日本、今後おーじ様のような気付きのある若い人が増えて欲しいものです。

紺屋の鼠 #4TUF.cSM | URL | 2013/06/15 15:52 [edit]

Re: No title

コメントありがとうございます!

 以前、紺屋の鼠様にコメントいただいた事で、自分の両親や祖父も似たような事を言っていたのをおもいだしたんですよね。
 つまり、戦後って言っても、昔はそこまで酷くなかったと。

 俺はまさにその八十年代に生まれたワケなのですが、この世代になると、もう嫌う事すらやらない……という印象です。つまり、個人は個人の為に生きるという価値が、もう当たり前になり過ぎて、国家なるものへの興味そのものがないんですね。


 そういえば、五十年代、朝鮮戦争特需の折りに、大きな好景気を『神武景気』『イザナミ景気』といった風に呼んでいたそうです。
 今では、神武天皇や日本神話など、知っている奴の方が少ないです。が、五十年代には、まだ広く共有されていた神秘、歴史だったという事の証拠でしょう。

 よく考えれば当たり前のことなんですが、意外と「戦争終わってすぐ価値観が一変した」という、(それこそ正に非科学的な先入観で)具合に見て取ってしまいがちなんですよね。 

おーじ #- | URL | 2013/06/15 19:11 [edit]

共通認識

先人に敬意を払えないのは教育が原因の一つですが、あまりにも文化が変わり過ぎていることが原因でしょう。同じ話題での会話が出来ないから、なかなか話し下手だと教えられない。

ただ、最近は、文化が廃れてきたのか緩やかになっている気がします。自分は40過ぎですが、自分達の少年の頃のマンガ、アニメは子供にも通じますから。

親から子へと、親の想いを伝えられるようなものが増えると自慰主観も薄れていくのではないですかね?仲間意識を強調しているマンガはよく見ますが、先人の努力とか伝統を全面に出しているのは見ません。

先人の努力を知らないから、理性に限界があることを知らないから、真実が無いことは何千年も前に発見されていることを知らないから…

だから、今の自分達の考えが絶対になるんだと思います。

ただのぶ #- | URL | 2013/07/21 10:56 [edit]

Re: 共通認識

ただのぶ様、こちらにもコメントいただき、ありがとうございます!


 文化、とりわけ大衆文化は時代を映す鏡のように思えます。
 俺は、二十代の若造ですが、そんな風に思います。

 思うに、大衆文化はその性質上、時代の流行や新しいモノを描くという方向性に、どうしてもならざるをえないのではないでしょうか。歴史を見れば、人間の理性の過信が進むのは、おおよそ大衆文化の発達と平行しているように思われます。

 すると、共通認識を世代間でつなぎ止めているものは、創作物や芸術そのものの輝きではなく、文化の中に潜在した慣習にあるのだという風に考えられます。
 これを具体的に言えば、天皇や神話をはじめとする漠然とした宗教観であったり、歴史への憧憬であったり、書き言葉の硬直性であったりです。そういった基礎、土台の上に成り立つ文化であるならば、世代を跨いだ共通認識を生成できるだけの連綿性を確保できるのだと思います。そして、先人へ想いを馳せるには、何かしらのそういった連綿性が不可欠なのでしょう。

 逆に言えば、そういったものの無い、単なる創作性、芸術性を追い求めるだけになった大衆文化の下では、次第と国家そのものが緩やかに離散していってしまうのではないでしょうか。

おーじ #- | URL | 2013/07/22 12:43 [edit]

ありがとう

お若いですね〜(^^)

将来に希望が持てます。

私が現在の若者と昔の人との話題についての意図は、昔は神話とか歴史とか、なんらかの教訓とかを題材にした物語が共通の話題だったと思うんですよね。今も少ないながらも、そういった物語があります。そんな物語が共通の話題として親子が話せるなら、親の思いとかを自然と伝えられるのかな〜と。

ただ、そんな話ばかりだと、説教臭くなりますので、大衆文化もありだと思います。江戸時代の歌舞伎とかもそうだったろうし。

そう考えると、昔は日本昔話って名作があったんですけどね。今は何かな〜^^;

ただのぶ #- | URL | 2013/07/22 20:59 [edit]

Re: ありがとう

ただのぶ様、お返事遅れましてごめんなさい。

 仰ること、本当にそのとおりだなあと思います。
 また、そもそも、神話や歴史についての共通認識の土台の上でなければ、活発な大衆文化は成り立って行かないのだろうと考えます。サブカルチャーというのは、まず、権威的なカルチャーの方がなければ成り立たないはずだからです。

 大衆文化に対しては色々考えがあるので、また記事を書いてみたいと思います。よかったら、またいらしていただけたら嬉しいです。

おーじ #- | URL | 2013/07/25 17:36 [edit]

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://shooota.blog.fc2.com/tb.php/78-788caaf9
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)