主に政治、経済、時事、国家論についてなどを書きます。日本が日本である、ということを主軸に論を展開していきたいです。
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石川

Author:石川

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 今思えば私の子供時代、昭和後期から平成の初期……ほんの二十年から三十年前でも、昔の年寄りというのは、なんと立派だったことでしょう。

 昔の年寄りは、近頃の年寄りみたいにチャラチャラしていなかった。

 たとえ当時スマートフォンが市場に出ていたとしても、昔の年寄りは見向きもしなかったに違いありません。

 昔の年寄りは、新しいものに飛び付いていかないで、生活の色々なことを知っていて、場をわきまえるということが上手で、言葉づかいも巧みで美しかった。

 着るもの、身に付けるもの、所作、ふるまい、色々なところに土地や文化や人間交際の素養が息づいていた。

 そして、生活的に神仏を信じていたものです。



 そういうわけで、昨今はまったく決定的に年寄りが滅びた時代なのです。

 今の年寄りは単なる若者の劣化バージョンで、皺の出た分、若者に劣る存在でしかない。

 でも、そんな今の年寄りが可哀想なのは、別に彼ら一人一人が生まれつき悪いヤツだったから年寄りになれなかったというのではないからです。

 近頃の年寄りがチャラチャラしているのは、彼らが年寄りになるために得るべきリソースを、土地、国家、共同体から得ることができないまま浮遊した市民的人生を送らざるをえなかった結果、年寄りになれなかったということに違いないのです。

 すると、土地感覚、国家観、共同体の網の目がより霧散してしまった昨今を生きる我々は、その中でリソースをまったく獲得できていないことになりますから、もはや日本人は、子供は大人になれず、大人は年寄りになれない国家だということになります。

 30年後、40年後、私が年寄りになった頃には、少なくとも今の年寄りが年寄りでないという以上には年寄りでないだろうし、国土の上から日本の大人は消失しているでしょう。

 これは非常に醜いことです。

 国家が滅びてゆくというのは、人間が醜くなってゆくということなのです。


(つづく)
2017/01/26 13:57 未分類 TB(0) CM(0)




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 長らく更新しておりませんでしたが、ブログを再開しようかと思います。

 ブログという形では「自分の研ぎ澄ませた考え」みたいなものを発表しても意味が薄い気がしていたし、精神衛生上にも悪かったので、更新を止めていたのですが、自分なりに愛着のあったブログでしたし、もう少し気楽に違った雰囲気で再開すれば気分転換にもなるかなあと思い始めたわけです。

 あと、ブログは休止していましたが、文章自体は続けていました。

 それに、基本的な考えは変わっていないので、別に以前と何が変わるかといったら変わるところもないかもしれませんが、もう少し一般的に広くコミットできるように短文で簡単なことからサッ、サッと書いて行こうかと思っています。


2017/01/25 17:37 未分類 TB(0) CM(0)




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日本が日本であるために

 当ブログはタイトル通り、「日本が日本であること」へのこだわり(ナショナリズム)に高次の「基準」を置いています。
 これは、人間として生まれたからには「私」の運命(我々の場合は大きな領域で「日本」というネイション)に強いこだわりがなければ、真、善、美にこだわる事もまたできないという人類普遍の理を根拠にするものです。また、地球がかように狭くなった以上、ネイションの保守には強いステイツ(政府)もまた必要不可欠だというのが当ブログの立場です。

 そして、真、善、美にこだわる意思を持たない卑俗な生ける屍の群れを「大衆」と呼ぶことを許していただければ、大衆による「政府権限の剥奪」と「政府へのケンリの請求」が、今日のあらゆる問題における諸悪の根元であるとも断定できます。
 よって、当ブログでは「大衆」を一貫して仮想敵とみなし、「大衆理論を圧殺する」ということに力を傾注している次第であります。



大衆理論圧殺のための具体的な立場

一、構造改革、行政改革、政治制度改革、郵政改革、農協改革……などなど改革と名のつくあらゆる「平成の諸改革」に全て反対。

一、徴兵制の必要を主張。
一、核武装の必要を主張。
一、軍事立法の必要を主張。

一、大東亜戦争を「日米100+70年(継続中)戦争」と考え、日本の勝利と独立を祈願。
一、司馬史観からの脱却の必要を主張。

一、政府の権限と支出の拡大(大きな政府)を主張。
一、資本主義、自由市場主義、民主主義への懐疑。
一、既存の国内産業既得権益とコネ、シガラミを擁護。
一、自由貿易に反対

一、アベノミクスにおいては第二の矢「財政出動」を最重視し、ケインズ政策化させることを主張。
一、リフレ、ダメ、絶対!
一、軍備増強と公共土木事業を重視。
一、国債の増刷とのセットでの、財政ファイナンスとしての金融政策には賛成。(政府が円を刷って、政府が使う)

一、長期的には消費税の増税に大賛成。
一、長期的には所得税と法人税の増税の必要も主張。

一、政治家、官僚組織に対する寛容の必要を主張。
一、政治家の定数拡大と中央官僚組織、軍事組織の強靭化を主張。
一、中央の指導と援助による各地方の発展と、各地方による中央政府組織形成の均衡を志向。
一、前項の目的を達成するため、道州制に反対。

一、皇室を尊重


2015/01/14 11:57 未分類 TB(0) CM(0)




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・『妹にアベノミクスなどを解説してみた(前編)』の続きです。




妹:「じゃあ、アベノミクスってのはどんな感じなの?」

俺:「あのさ。イントネーションが違えよ。『アベノ・ミクス』じゃなくて、『アベ・ノミクス』な」

 杏子は、細かいところを指摘された事に少々機嫌を悪くしたようだったが、ちょうど煙草を吸い終わった彼女にもう一本マルボロを差し出すと、素直に発音した。

妹:「アベ・ノミクス?」

俺:「そうそう。つーか、『エコノミクス』って言うだろ。だから、レーガンのエコノミクスは『レーガ・ノミクス』だし、安倍さんのエコノミクスは「アベ・ノミクス」なんだよ」

妹:「えっと、エコノミクスってなんだっけ」

俺:「経済学とか、経済分析とかって意味だけど……まあ、日本人が英語なんて知らなくたっていいよな」

妹:「うん、英語わかんないし。それより、結局、その安倍さんの経済ってどんなんなの?」

俺:「……うーん」

 実を言うと、この問いに答えるのは随分と面倒臭い事のような気がしたから、何とかはぐらかそうと思ってイントネーションの違いなんてどうでも良い事を指摘したのだった。
 だが杏子は、台所の窓から差し込む陽がチンダル現象を作っているのを背に、ロックミュージシャンのようなふわふわな栗毛を前へ垂れさせ、鋭い目をもってギロリといった風にこちらを睨む。
 これは、きちんと解説しないと、怒られそうだった。

俺:「えっと、聞いた事あると思うけど、『アベノミクスの三本の矢』って言うよね? 『金融政策』『財政政策』『経済成長戦略』って」

妹:「うん、言う言う」

俺:「アベノミクスっていっても、その中でどれにどう肩入れするかってので、随分話が変わってくるわけさ」

妹:「ふーん」

俺:「まず、デフレ脱却にはとにかく『金融政策』で日銀がお金を沢山刷って云々……ってなると、これは『リフレ派』の論理になるのね。どういうことかって言うと『世の中のお金の量を増やせば、その分お金の価値が下がるはずだから、裏を返せばお金に対して物の価値が上がるだろう』って理屈なのよ」

妹:「えっと、ちょっと待ってね……うん、そっか」

 杏子は、少し頭に理屈を巡らせるかのように唸ったが、すぐに二、三頷いた。

俺:「でもさ、これは『政府はお金の量さえ上手くやっとけば、あとは自由な民間市場が上手い事やるもんだ』って事を前提にしてる話なのね。リフレ派からすると、悪かったのは『物に対するお金の量』であって、『民間市場そのものが失敗する』っていう事は想定してない。これはさっき言った中で言うと『政府よりも、民間をより信用する』って指向が強いわけさ」

妹:「ああ、そうか」

俺:「だけど実際、『自由な民間市場』が上手くいくとは限らないよな。例えば、日銀がお金を刷っても、世の中でお金が回るとは限らないだろ?」

妹:「うん」

俺:「日銀がお金を刷ると、その円で普通の銀行が持ってる国債を買うのね。そうなると、普通の銀行の中にあった国債がお金になるってことだから、実際は『日銀がお金を刷る』っていっても、『銀行の中のお金が増える』って事だろ」

妹:「それは学校で習った気がする」

俺:「うん、公民系の教科で『買いオペレーション』ってやるよな。だけどさ、普通の銀行はそれこそ民間企業だから、利益を出さなきゃいけない。でも、デフレだと他の一般企業で『投資をして、生産を増やす』っていう流れが無いわけさ。何故なら、需要より生産が多くなっているのがデフレだから。そうなると、いくら銀行にお金があっても、貸し出し先がなくて、お金は海外へ行っちゃうよねっていう話がある」

妹:「お金が日本で回わらなかったら意味ないもんねえ」

俺:「そうそう。実際そういうことが起こってたんだよ。小泉さんの時に。だから、政府の支出で強制的に『国内で足りない需要を埋める』っていうのが二本目の矢の『財政政策』なわけだよ。つまり、政府が公共事業とかでお金を使って、『自由な民間市場の失敗』を『修正』するって話なんだけれど、これはほとんどケインズの論理なのね」

妹:「さっき言ってた、『ケインズはどっちかっていうと政府の権限を多く持たせる考え』っていうのはそういうことかあ」

俺:「うん。で、『自由な民間市場』を好むリフレ的な人は、アベノミクスの中でも一本目の矢の『金融政策』に思いを寄せる。逆に、『政府の権限』を強く持たせるべきだとするケインズ的な人は、金融政策にも賛成するけど、『財政政策』に重きを置く立場になって来る。だから、アベノミクスっていっても、『民間か、政府か』の立場によってかなり違いがあるんだよ」

妹:「じゃあ、当の安倍さんはどうなの?」

 当然、そういう質問になる。
 しかし、俺にとって、これこそが『上手く説明できる自信がない問い』なのだ。
 なんと言ったって、このブログでも、安倍さん自身の経済への態度を上手く解説できているとは言えないと反省しているくらいである。
 どう言ったものかと、俺も二本目の煙草を取り出し、火をつけて、一吸いした後こう返した。

俺「俺は安倍さんじゃないから、安倍さん自身が実際の所どういう考えで言っているのかは分からないけど……でも、そうだな。比較論で言うと、例えば、安倍さんと麻生さんだと微妙に経済思想が違うのね」

妹:「あ、アニキ、それ前から言ってたよね」

俺:「うん。安倍さんは、麻生さんに比べると金融政策の方に思い入れがあってリフレ派っぽい所がある。安倍さんも財政出動には長いこと肯定的ではあるんだけどさ」

妹:「じゃあ、麻生さんはケインズ寄りって事?」

俺:「つーか、麻生さんが総理大臣やってた時に、対リーマンショックでやった経済政策があるでしょう?あれは、ケインズだよ」

妹:「ああ、そうなんだ」

俺:「うん。政府の権限を発揮して、強制的に公共事業で国内の需要を補填して、民間市場の失敗を修正するって話だったから。それに、麻生さんは、自分が総裁に就任した時に自民党の中のスピーチで『ケインズで行く』って言ってたからね」

妹:「そっか。麻生さんがテレビとかで『独裁者』とか言われたりするのは、そういう事があるからなんだ。政府の権限を強く発揮する、みたいのがあるから」

 この発言は、このブログをご覧になっている皆様へ誤解を与えるであろうから一言つけくわえておこう。
 杏子は、麻生氏がテレビで独裁者という風に言われる事を、必ずしも悪い事として言っているのではない。
 むしろ、テレビで独裁者と言われる事は良いことである、くらいに思っているのだろう。

俺:「そりゃあ、あんまり政府の権限でガンジガラメじゃあどうしようもならないだろうけど、だからといって、何でも民間の自由にしときゃ上手く行くなんて話、あるわけないだろ? だけど、どうも世の中全体に、『民間の自由にしてる方が素晴らしい』みたいな風潮があると、俺は思うわけさ」

妹:「なるほど」

俺:「アベノミクスの三本目の矢は『経済成長戦略』じゃん? これが結構、いろんな考え方ができる自由なものだから、厄介なんだよ」

妹:「だろうね。『経済成長戦略』だけじゃ、どんな戦略かわかんないもん」

俺:「うん。例えばさ、経済成長戦略の話題で『規制緩和』ってあるでしょう。あれは、『過度な民間市場への信用』からくる理屈なわけさ。つまり、『政府から規制の権限を取り上げて、民間の自由にさせれば、新しいビジネスアイディアとかイノベーションが起こって、生産性があがるはずだ』っていう話なんだからさ。でも、これって滅茶苦茶ガキくせぇ論理だと思うのね」

妹:「うん」

俺:「普通に考えればさ。『政府が国家経済の発達するような規制を敷く』っちゅー戦略をたてるのが、『経済成長戦略』じゃん。つーか、日本の経済が上手く行ってた時は、通産省やら国土省やらがそういう戦略を立ててたらしいし。でも、『規制緩和が経済成長戦略だ』って理屈は、『政府が戦略を立てる権限を放棄するのが戦略だ』って話でしょ。よく考えりゃおかしな話だけど、世の中全体が『政府は悪で非効率』『民間は善で効率的』みたいに思ってるから、『経済成長戦略』の議論がそういう方向へ引っ張られちゃうのよ」

妹:「確かに」

俺:「TPPとかも、そういう話の上にあるって考えるのが適切だと思うぜ。関税だろうが、保険だろうが、投資だろうが、TPPは、『政府の権限を剥奪して、自由市場に委ねた方が成長する』っていう間違った思想からくるんだからさ」

妹:「そーだね」

 さて、長く話している内に、ここでどうやら杏子の方がだれてしまったようである。
 ただ、ここで俺はちょうど二本目の煙草が吸い終わり、アベノミクスについての解説も一通り済んだと思われたので、経済の話しをやめにした。
 そして、俺はその後、彼女の「韓国がいかに酷い国か」という話しを、おとなしく聞いていたのであった。




2013/05/08 21:43 未分類 TB(0) CM(0)




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「国家共同体は幻想である」
 という主張は、ある意味で的を得ている。なるほど、あらゆる共同体は幻想だ。

 一時、新左翼の思想的な拠り所として猛威を振るった「共同体幻想論」、当時の若者がこれに熱狂した理由も、現世代の若者がこれに見向きもしない理由もなんとなく分かる。
 国家共同体の意識があらかじめ強固な場合「幻想だ」と言われれば大いなる気づきのように思われるが、のっけから共同体意識が希薄な場合はピンとくるはずがない。当時、『共同体幻想論』が受け入れられたということは、共同体意識が現在よりも高かったという証明にもなる。(それはその時代の彼らの功績ではなく、その前の世代の財産なのであるが)
 対して、これだけ個人の権利、個人の意思、個人の思考、個人の考え、個人の自由、個人個人個人、とあらゆる思想に個人の主義が跋扈し、氾濫し、絶対正義のように上の世代が語っていれば、「国家共同体が幻想である! 」などと言われても、「はあ、そうですか」と答える他ないのもうなずける。

 しかし、世の雰囲気、世代の思想潮流から超然的な立場をとってみれば、次のことが言えるだろう。
「国家共同体を幻想だとのたまうのであれば『個人の自我』だとか『個人の思考』或いは『個人の自由意志』などといった概念も実は幻想である」
 ――と。

 そもそも、「人が一人では生きていけない」という多くの理由の一つに、「人は一人では自我を認識できない」というものがある。
 つまり、「私」だとか、「貴方」だとかの人称を使用出来なければ、人は「自分が自分である」という概念を理解出来ないのだ。
 言葉や人称を使うということは他者との『関係』がそこにはあるということであり、よって「人は関係の中でしか自我を認識できない、自分が自分であると理解できない」ということに、どうしてもなるのである。
 ここで一段掘り下げなければならないのは、関係といっても様々なレベル、範囲、というものがある、ということだ。
 親子、親類、学友、同僚、先輩、後輩、上司、部下、恋人、などの目に見える一対一の関係も複雑多枝にわたるが、大変なことにこの自分が関係をもった相手一人一人もまた、それぞれの関係をもつのである。
 そうなると、『関係』はあたかも網の目ように張り巡らされ、世を走り回っているわけだ(勿論、目に見えてこれと指し示すことはできないから、これもまた幻想ではある)。物語などを説明する際に使う相関図が、現実にはもっと複雑に伸びているということである。
 その膨大な相関図の中で、よく見ると密度や種類によって朧気ながら腑分けが可能である事に気づく。
 その腑分けも様々なレベルがあり、これを我々は集団と呼ぶ。
 ただ、『集団』も、個人の自我と同じように幻想であるから、人称による言葉によらねば認識できない。
 それが「私たち」と「あなたたち」という概念である。
 たとえば、いち家族が『家族』を認識できるのは、自分たち以外の家族が存在して、「うち」と「おたく」という言葉を使うからだ。さらに、「うち」は固定的に「うち」であるのに対し、「おたく」は場合によって違う「おたく」となる。
 A山さんというお家があったとしよう。彼らA山家にとっての「うち」は常にA山家のことであるが、「おたく」の方はある場合はB川家であったり、別の場合はC本家であり、ひょっとするとD中家である場合だってあるかもしれない。するとA山さんには「うち」と「おたく」という概念以外に「うち」と「よそ」というという概念もあることがわかるだろう。
 誰が言ったか知らないが、「うちはうち、よそはよそ」という言葉は、それをよく言い表していると言えよう。
 集団の単位が違っても、事が集団であれば基本的にこの点で同じである。学校、職場、地域共同体としての町や村。地区、県、そして、国家もすべて同じだ。
 もちろん、その関係性の網の目の、密度、種類によって性質は当然異なっているが、「私たち」と「あなたたち」という概念によって腑分けされ、認識されるという点においては同一である。
 我が校、よその学校。
 我が社、他社。
 我が町、よその町。
 我が県、よその県。
 そして、我が国、他国。
 ――上から下まで全て幻想と言えば幻想ではある。
 ちなみに、『人類』というのが集団足り得ないのは当然だ。なぜなら、「私たち人類」といっても、「あなたたち人類」と言ってくれる相手が存在しないからである(空想SFならばあり得るが)。
 つまり、人類は人類としての「私たち」という概念を持ち得ないが故に、共同できない。『人類』という枠組みは幻想ですらなく、ただのフィクションなのである。
(ただし、『関係』することはできる。というか現代においては関係せざるをえない。この『国際関係』については後に触れていこうと思う)

 さて、ここで『個人』に戻ってみよう。
 自我――「自分が自分であるという認識」は、言語がなければ存在しない以上、共同体に依存している。
 自分が自分の物だと思っている「個人の思考」も、言語であるが故に共同体に依存している。

 そうなると、「言語を用いた思考」の段階の自分は、本当に自分そのものであると言ってよいのか?
 自分、とは、受容体である意識の段階での自分が自分なのである。しかし、それは認識されない。
 意識が受容した『気』を思考した時点で、ある基準をもって「分け」られているわけで、その基準は個人から生じたものではないが故に、個人で帰結していない。
 換言すれば、「我思っている我」は、それ自体が言語であるが故に、「我で帰結したもの」ではあり得ないのだ。

 ただ、ここで克服しなければならないのは『懐疑主義』だ。
 個人の自我や思考も幻想。集団、共同体も幻想。となれば、「言葉に表れる確かなものなど何もありはしない」ということになり、「善も悪もない」のであり、「価値の体系」も存在せず、「何をどうしたってどうということもない」ということになりかねない。

 これを回避するためには、幻想を幻想と受け入れながらも、「幻想だから無価値である」とするのではなく、「幻想であり脆いからこそ、保ち守らねばならない」ことに気づくだけで良い。

 そもそも、「我思う我」が実は幻想だからといって、それを『意識』は、「思考と共同体などは不要なもの」とは感じていないはずである。何故なら意識が思考を不要と感じているならば、人間は共同体を作らず、言語も操らず、思考もしないはずだからだ。

 これが人間として、自然なあり方なのだ。
 自我が自我として、個人の思考が思考として、あたかも独立して存在しているかのような思想は極めて不自然であり、空虚であり、妄想である。
 自我をひん剥いていけば、その中にある『自分』は意識の核でしかない。しかし、それを共同体という雪山を転がれば、雪がまとわりついて、その存在が大きく見える。ただそれだけのことなのである。


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2012/07/18 03:16 未分類 TB(0) CM(0)
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