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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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三橋理論と資本主義 


 今日は、私が「三橋理論」と呼んでいる経済に関する考えをご紹介しようと思います。

 ここで「三橋」というのは、『今日から俺は!!』(西森博之)という昔のヤンキー漫画の主人公の名前です。

 私はこの漫画そのモノもとても気に入っているのですが、その話はここでは置いておきます。

 今日は、そこに登場するひとつの天才的なシーンを紹介し、これを資本主義論と貨幣論に応用してみるのが主眼なのです。



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◆三橋理論◆



 まず、三橋くんは学校の友達Aくんに千円を借りていました。
 
「三橋さん。千円返しておくれよ」
 
 当然、しばらくたつとAくんはそうやって催促にきます。

(※三橋くんは金髪のヤンキーで、とてもケンカが強いので、同級生からも「さん」付けで呼ばれることが多いのです)

 しかし、困ったことに三橋くんはおカネを返したくありませんでした。
 
 そこで彼は以下のような天才的アイディアを思い付くのです。
 

 
1 とりあえずBくんに千円借りて、Aくんに千円返しておく

2 しばらくたつとBくんが「返しておくれ」と催促にくる

3 今度はとりあえずCくんに千円借りて、Bくんに千円返しておく

4 しばらくたつとCくんが「返しておくれ」と催促にくる

5 その次はとりあえずDくんに千円借りて、Cくんに千円返しておく

6 しばらくたつとDくんが……(エンドレス)
 
 

 こうすれば、三橋くんは千円を返す必要がなくなる。
 
 しかも以下のようによーく考えると、これは「世の中で回るおカネが千円増えている」ことになるのです。



A 三橋くんの使った千円はお店やさんからすれば買ってもらえて嬉しい。

B 三橋くんは千円を使ってモノが手に入って嬉しい。

C 三橋くんにおカネを貸した学校の友達たちも、結局はおカネを返してもらうので誰も損しない。


 
 すなわち、存在しなかったはずの千円が世の中に回っていき、三橋くんには千円分のモノが手に入る上に、誰も損しない。

 だから、「世の中のためなのだ」と三橋くんは言い張るわけです。
 
 
 
 ……私は、十年以上前だったかココを読んだ時、「これ描いている人は天才なんじゃねえか?」と衝撃を受けた覚えがあります。
 
 
 
 もちろん、この三橋理論が成り立つには「無利子」である必要があります。
 
 そして、友人から無利子で借金ができるのは、友人という間柄だからであり、それを利用して上記アイディアにて千円を生み出すのはお話的にイカンでしょう。
 
 だから、漫画ではヒロインにたしなめられて、三橋くんがこのアイディアを実行することはなかったんですけれどね。

 でも、この三橋理論は経済のいろいろなことについての説明に応用が効きます。


 

◆応用1◆


 
 たとえば、三橋くんがこの借りた千円を投資に回していたらどうでしょうか。
 
 仮に、千円を借りるのに年利10%かかるとする。

 しかし、千円の投資で生み出す利回りが年11パーセントだとしたら利子は消化できるし、サヤの1パーセントは三橋くん自身のおカネになる。
 
 また、その1010円を一年投資すれば……と続けて行けば、「借りて返して、借りて返して」とやっても彼のおカネはどんどん増えていきます。
 
 だったら、どうせなら1000円ではなくて1万円借りておけば仮に同じ1パーセントの利幅だったとしても、一年間で100円が三橋くんのおカネになりますでしょう。

 こうして、借金して投資をして資本を増やしていこうとする連中が増え、事業やお金の流れが増えていく経済が「資本主義経済」です。
 
(この場合、投資家にとって「利回り-金利」の将来見積もりが大きければ社会全体の借金が増えて経済は成長します。逆に見積もりがマイナスで現金を資産として保有しようとする意識が上がって、社会全体の借金が減れば、デフレで資本主義は成り立たなくなります)



◆応用2◆


 
 あるいは、「借りて返して借りて返して……」というのは、実は「日本円」がそれなのです。
 
 そもそもおカネというのはどのようにして生まれるか。
 
 それは企業間の「売掛」「買掛」の概念が分かれば簡単です。
 
 もし、未開社会のようなごく単純な社会ならば、この「売掛」「買掛」の概念でなんとなく互いにすべて記憶できるので、おカネは必要ありません。
 
 たとえば、「アイツにはあの時あれくらいの借りがあったから、今度はこれくらいのことをしてやろう」というような感覚がありますでしょう。

 未開社会ではこれを高度に記憶し、数ではなく感覚で互いに「貸し」と「借り」を了解しつつ社会をやっているわけ。

 そして、これが「おカネ」という考えの素なのです。
 
 その上で、社会が複雑で膨大になると未開社会のように「記憶で了解しておく」ではやっていけないので、証書や貨幣でやり取りしなければ済まなくなる。

  これはよくよく考えてみれば「借りの常態化」でしょう。
 
 おカネとは「常態化した借りが流通している」ということなのです。
 
 そして、「日本政府の借り」として常態化したものが「円」ということになるのです。
 
 
 
 だから、三橋理論は、もし三橋くんが「政府」であればまったく正しい。
 
 だって、よくよく考えると「政府の支出」というのは、政府が国民に対して「借り」を持つということと同義です。
 
 対して「政府の税収」というのは、国民の「国家に貢献しなければならない義務」を円によって「貸し」にしておいてやっていることと同義でしょう。

 だから、そもそも「円」というものの価値も三橋理論によってできがっているわけです。


(了)

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ヤマトとAmazon問題から考える価格決定観 


 昨今、「Amazonや楽天などのeコマースによって、ヤマトを初めとした宅配事業が圧迫されている問題」が、かなり大きく叫ばれてきていました。

 eコマースの持ってくる仕事が増えると、宅配事業者からすれば「単価の低い小さな荷物をたくさんの家へ送り届ける」ことになってしまうので、現場の宅配員の仕事量は多くなるが、事業収益も圧迫することになるわけです。



 そんな状況であるから、ヤマトは再び宅配料の値上げを発表したりAmazonと宅配料の交渉などを始めました。

 こうした動きは、世論でもおおむね「宅配サービスの適正価格」という単語で肯定的に受け入れられてはいるようです。
 私も、このことそのものに関しては大賛成……というより「当然のこと」だと思う。

 ただ、これを肯定的に捉えているらしい世論の「動機」の方には、少し気になる点があるのです。
 それは、その肯定も多くの場合は、「サービス価格の適正化」に関心があるというよりは、「ITイノベーティヴな未来観を象徴するeコマース」を否定的に捉えたくないという動機から起こっているように見えるところです。
 つまり、eコマースによる宅配事業の圧迫はあんまり赤裸々だから、ここでそのサービス価格の適正化にコミットしておかなければ「ITイノベーティヴな未来観を象徴するeコマース」 の正当性を担保できないと無自覚ながら狡猾に察知しているだけのように見えるということ。

 というわけで、ここで重要になってくるのは、この「eコマースによる宅配価格の圧迫の問題」は、これをもうひとつ掘り下げて考えて、その「ITイノベーティヴな未来観」そのものがチープで子供っぽくて成立しないガラクタの未来観だということを理解することです。

 そのために、ここでは「価格決定」ということについて焦点を当ててみましょう。

 ◇

 そもそも、ヤマトは値上げに先んじて、社員、サービスドライバーに対しサービス残業などの実態を調査した上で未払い残業代を払うという決定をしています。

 つまり、事業を健全に運営するための「人件費」と「労働環境の是正」と「企業収益」のために値上げをする……と、そういう筋なのです。

 この経緯を含めて考えれば、この場合の「適正価格」とは、労働価格から事業の成り立つコストが先に立ち、コストに一定の利益分を上乗せした価格を後から消費者に承認させる……という経路で成されるということになります。

 こうした価格決定観はいわゆる経営学の「コストプラス方式」と呼ばれる価格決定の論理です。

 そして、コストプラス方式という価格決定観は、経済学の「市場原理主義」からは何事か離れる価格観でもあります。

 そもそも市場原理では「需要と供給の均衡によって価格が決まる」とされており、なおかつそこには「市場均衡価格が適正価格である」という価値観も多分に含まれています。

 つまり、価格に対する政治的恣意のない(プライステイカーな)自由市場において、消費者の選好で価格が決定し、その価格によって売上が決まり、コストが配分されていく……という経路で成されるとされるのが市場原理主義の価格決定観なのです。

 これはコストプラス方式とは真逆でしょう?

 すなわち、

A『コストプラス方式の価格決定観』

1「供給者側が価格を決める」
2「消費者がこれを承認する」

B『市場原理主義の価格決定観』

1「消費者一人一人の選好と供給量の均衡で価格が決まる」
2「先に均衡価格があって、生産者側はそれを人件費、コスト、収益といったふうに分配する」

 こういうわけです。

 その上で、「通信販売の宅配価格が、到底適正価格ではない」という赤裸々な事実が突きつけられ、コストプラス方式が一定程度世論で認められているということは、どういうことなのか。

 それはイコール、価格について以下の三つのことを認めるということになりますでしょう。


1、「自由市場における市場価格は、必ずしも適正価格とは限らない」

2、「価格が消費者の選好によってのみ決定されるべきだと構えると、価格は過度に抑制され、労働価格も抑制される可能性(=過剰サービスの可能性)がある」

3、「価格を消費者に承認させるために、産業側が政治力(談合やカルテル)を発揮すべき局面もありうる」
(※例えば、ヤマトが値上げしてもより体力のある日本郵便が値下げしてシェア獲得に走れば、適正価格は実現されないんですからね!)


 さて、そうなるとですよ。

 そもそもeコマースというもののSF的未来観は、その基礎に「市場原理による価格決定の徹底」があったわけでしょう。

 だって、「小売、中間業者を省き、生産者側から価格決定権を剥奪する」という日米構造協議から始まった平成の物流の合理化を、もっとも体現しているのはeコマースでしょ。
 ダイレクトにメーカーと消費者が繋がることができ、「レビューやらなんやらの情報で不完全情報社会の乖離を埋めることができる」とかなんとかみんな言っていたものです。

 でも、宅配価格でコストプラス方式の価格決定観を認めねばならぬなら、eコマースで売買される製品も「過剰な低価格」で売買されている可能性のあることを認めねばならないはずじゃないですか!

 この製品価格の過剰な低価格の実現は、全体としてなにを削ることでされてきたかと言えば、かつての「卸し」や「小規模店舗」という共同体的なラインを削ることでされてきたのであり、また、そこを繋げていた小規模運送業者を削り、「暗黒大陸」を解消する「ロジスティック」な物流などといって実現されてきたのです。
(これはイオンなどの巨大ショッピングモールの問題と同じであるから、別にeコマースに限定した問題ではないけれど)

 こうやって言うと、もしかすると、
「中間業者が省かれて価格が下がるならいいじゃん」
 と思われる人もあるかもしれないが、それはつまり中間業者として成り立っていたお金の流れがなくなり、共同体的な消費形式による消費動向の一貫性がなくなるということでもあります。

 製品価格の抑制によって、中間業者として成り立っていたお金の流れがなくなるということは、経済全体で見れば需要的な経済(パイ)の縮小要因でしょ。

 さらに言えば、物流としてはその最終形態として「宅配」に集約されているわけで、「物流を宅配に頼りすぎていること自体」が物流全体における過剰サービスの助長であるということも留意しておくべきでしょう。
(別に「過剰サービスで可哀想」と言っているのではなくて、過剰サービスということはイコール価格の抑制だから、経済全体のパイを減らす要因だろうということ)

 また、消費をよりバラバラに大衆的にするということは、生産者として「消費者が需要するものの予測」ができなくなるということであり、ほとんど運任せの企画で製品を市場へ問わなければならなくなるので、そりゃあ企業も「それくらいだったら現金を持っていた方がマシ」だと考えます。
 すなわち「消費のさらなる大衆化」は「何に需要があるか」をさらに読めなくさせ、「民間投資が減る」ことを助長するから、これも経済全体を見れば縮小要因でしょう。


 すると、もはやeコマースというコンセプトそのものが、過度に大衆消費者サイドの形式であり、全体を成り立たせなくさせるものなのではないかと疑われれ然るべきなのではないでしょうか。

 というか、それを宅配価格に「だけ」限定して、「eコマースで取り引きされる製品の価格も不適正に低く抑制されているのではないか」について考えを及ばさないでおれるのは、ちょっと都合良すぎです。

 別にeコマースみたいなのもちょっとくらいあったってイイけど、これを大々的に押し進めて大衆消費者目線の便益を高めても、全体としては価格の下げ要因として経済を縮小させることにしかならないし、ましてや「成長の伸びしろとか未来の展望」にはなろうはずがないのです。


 ◇


 さて、これからも物流やeコマースについてはさらに突っ込んでやっていこうと思います。

 これを詳らかにするには、日米構造協議から起こった「大店法改正」とそれに付随した中間業者を省く「ロジスティックな物流」とやらの方針が、「まるで大間違いだった」というところまで遡らなければならないでしょう。
 でもそれはそれで気合いが必要なのでまた今度。

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eコマースと宅配事業 



 eコマースが宅配事業を圧迫している……という問題が、注目を集めています。

 とりわけ、ヤマトが通販宅配の総量規制を敷く方針を固めて、世間でもかなりメジャーな話題になってきているようです。
(ヤマトの労組も会社側もエライと思う)

 私は、この問題は結構「ツボ」だと思うので、しばらくこれについて特に論を深めてゆくことにしました。

 そもそも私は、現在の日本国家全体の経済力の増強のためには、「土建」や「物流」といった産業がかなり重要になってくるはずだと思うのです。

 そしてこれを機に、この問題をみんなでもっともっと強調して、日本経済界全体で大議論がされればそれは国益なんだと思います。




 そういうわけで今日はとりあえず、考えるべき領域について、四区分してみました。




1、「実際の把握」

 まず、今起こっている「eコマースによる宅配サービスへの圧迫」の実際をもっと見極めて解釈する必要があります。



2、「物流の産業構造改革についての反省」

 次に、この問題が、平成日本人の「国家における物流組織」を蔑ろした態度そのものを示している可能性を見る必要があります。

 そもそも、少なくとも十年くらい前(私が学生だった頃)には既に、「物流の産業構造改革」というのが世間で盛んに言われておりました。

 簡単に言えば、「日本の物流は中間業者がたくさんあって非効率で既得権益なので、アメリカ風に『生産』→『消費者』と直繋がりに近い形にしろ……」というふうにみーんな言ってたわけです。

 その最終形態がeコマースなわけでしょう。

 でも、この「宅配事業への圧迫」という問題によって、「そもそも物流の中間業者の構造を省いて消費価格を下げても、国家全体の経済の循環に悪影響を及ぼすこともありえるんじゃない?」というところまで議論が広がればいいなぁ……と思っています。



3、「価格についての思想」

 また、この問題が話題にされる時、一般に「適正価格」という言葉が使われ始めてます。

 これは平成日本人としては画期的なことです。

 だって、みんなこれまで「自由市場でついた価格が適正価格だ」っていう前提でいろいろ言ってきたわけでしょう。

 それがなかったことのように急に「適正価格」などと臆面もなく言えるのは実に面の皮が厚いことだなぁとは思う。

 けれど、これは価格についての思想転換を促す論筋を立てうる可能性があるように思われます。

 すなわち、「市場価格=適正価格ではない」と認められれば、政治的に相対価格を管理する必要があるという筋が立ち、『談合』や『産業組合』も時と場合によっては必要だという筋も立つからです。



4、「eコマースの大衆性、不健全性」

 そして、eコマースという事業形態そのものが、国民の大衆性を強めてしまう不健全性を持ち合わせているのではないか、という部分も考えられれば良いなと思います。



 以上、四つの領域について論の繋がるように組み立ててみようと思います。

 でも、そのためには物流について少し勉強しなきゃいけないですけれど。

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独占禁止法など 


 最近は独占禁止法のことをよく考えています。
 私は、「独占禁止法と公正取引委員会が自由競争を前提づけている」という市場原理主義的ストーリーが嫌いなのです。



 もっとも、私とて「資本の集中による独占を防ぐ」という志向には、文句はありません。

 しかし、企業と企業の間で話合いをもって、価格を維持するための協約を結んだりするといった談合やカルテル的なものを、「自由競争を阻害するもの」として厳しく取り締まろうとする志向には、大いに抵抗したい。

 企業間の談合やカルテル、協約がなくして、単に自由市場で適正価格が均衡するだなんて話はウソっぱちです。経済のモデルの中でしかなしえない机上の空論――お花畑というものです。


 でも、世の中では、こうした「企業の談合や既得権益」が批判にさらされている一方、、独占の話でも「資本集中」の方は大目に見られている傾向が強い。特に2000年代に入って以降。これは「国際競争力」とやらが盾にされて大目に見られているのです。

 でも、「企業の談合」と、「資本の集中」では、どちらがより独占性を強めてしまうかと言えば後者でしょう。
 だのに、談合やカルテルのほうがヤリ玉にあげられるのは、そちら方が威張っている感じがして腹が立つというルサンチマンが根底にあって、それを発露しているだけでしょう。
 また、資本の集中の方は、「市場における消費者一人一人の一票という経済の民主主義」と「効率的資源配分(パレート最適)」が、なんだか自由で民主的に聞こえるという話で大目に見られるのであって、つまりは単なるキレーゴトなのです。



 我々は、「国際競争力とやらのために資本集中を大目に見る」という態度を捨てるべきです。
 そして、国内の各既得権益を守るために、適正な不自由――つまり、政府による規制や、企業間の協定、談合といった人間交際による経済を志向すべきなのです。

 そうなると、われわれは対外的には保護主義を考えるべきだし、保護主義には外交力が必要であり、外交力には軍事力が必要です。
 この場合、軍事力というのは、単に「攻めてきたら守る能力」という話ではなく、「攻撃されたらやりかえす能力」という抑止力を「自前で持つ」ということです。
 つまり、具体的には「核武装」か「徴兵制と本土決戦の覚悟」の少なくともどちらかが必要ということです。

 実のところ、これくらいのことはみんな分かっているのでしょう。でも、世間で核武装を言うのは憚られるし、自分が徴兵されるのは嫌だから、保護主義的政策をとるための軍事力を実現させることも嫌で、だからTPPなどのグローバル化はやむを得ないという話になり、国際競争力のために資本の集中もせざるをえない……こういう筋立てが、半ば無自覚的に前提されていしまっているわけです。

 でも、この筋立て、前提の上では、資本の集中が「孫子の代への負荷」となりますね。

 そこで、資本の集中を大目に見るのは国際競争力のためであり、国際競争力をつけなければならいのは保護主義を回避するためであり、保護主義を回避するのはそうした軍事力を実現するのが嫌だからで、何故軍事力の実現が嫌かというと核武装や徴兵を考えなければならないからだということを考えると、こうなりますでしょう。

 すなわち、今の日本人達は、「今の自分が核武装を考えたり徴兵されたりなどしないために、孫子を犠牲にしている」ということです。
 資本の集中という形でそれをツケておけば、少なくとも自分たちが軍事について関わることをしなくて済む。そして、そのツケが、自分の生きている間に、自分に降りかかってこなければ良しと考えているわけです。

 日本人はおおむねそういう方向で行っているわけですが、何故ここに至ってイイ人ぶるのでしょう。
 みんな「家族が大事、孫子が大事」という価値を口では言うくせに、実際やっている様には「自分の生存期間内だけは平和と飽食が延長されれば良い」という方向性がありありと透けて見えているのです。


 ならばイイ人ぶるのはやめて、「自分の生存期間さえ平和と飽食が享受できればいいのだ」と言いながら、やってもらいたいもんです。
 でも、もしそれでも「良い」ということに帰着したいなら、もう少し「孫子の代」とやらのことを真剣に考えるべきでしょう。

 せめて、どちらかにしてもらいたいです。



(了)


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現代日本経済における諸問題 




 貨幣経済における自由市場の問題が述べられるとき、おおよそ「格差」というものに焦点があたる場合が多い。もちろん、あまりにも人々が経済的に格差づけられるというのは、問題であるに決まっています。

 しかし、格差の問題のみがクローズアップされることになると、政府による市場の修正が、「所得再分配」のみで事足りるという向きへ傾くことになりますでしょう。

 つまり、
「経済の発展は自由市場に任せ、後から政府が金持ちから金を巻き上げて弱い者に配る」
 というヴィジョンです。

 私はこの考えがそもそも間違っていると思う。




 そもそも、政府の財政政策という非・市場的な主体は、三つの機能があると言われています。

1、所得再分配
2、経済安定化
3、資源配分




 実のところ、社会民主的な経済の発想も、新自由主義的な経済の発想も、経済における政府の役割を「1、所得再分配」だけに限定してものを言っている点では同じでしょう。

 社会民主主義的な経済の発想は、「経済の発展が自由市場によってなされる」ということを認めた上で、「政治的には多数の弱者が、金持ちから金を巻き上げる」という発想へ傾斜します。
 対して、新自由主義的な経済の発想は、「弱者へのセーフティーネットは政府によってなされる」ということを根拠に、「市場の自由化」に大義名分を与えようとする。

 つまり、双方、拠り立つ前提は同じで、単にどちらがより「弱い人が可哀想」と思っているかの違いなのです。




 しかし、いま、我々に一番必要なのは、財政政策(政府による恣意的な自由市場への介入)を、「2、経済安定化」にも「3、資源配分」にすら認めるということなのです。

 経済の安定化というのは、すなわちケインズ的な介入で、短期的な問題解決としての財政政策です。
 現今は、社会全体として供給能力が総需要を上回って、価格が下がり、給与が下がり、投資意欲が減退しています。
 この不足した需要分を公共事業などの政府の支出の増大によって補う。
 すると、事業者たちは投資の必要性を見込むことができ、自ずと人件費がかかるようになる。
 その投資や人件費の(貯蓄を除いた)何割かはまた他の支出となる。またまた、他で支出されたものは何割かは別の支出となって……というように、最初は公共事業としての支出だったものが、民間に広く、社会全体の需要の創造になるわけです。

 これが「乗数効果」のいわゆる呼び水効果ということですが、この短期的な流れを中長期に渡って持続させるためには、事業者に「将来における需要の予測」を多く見積もってもらわなければなりません。

 何故なら、事業者が投資をするときは、常に将来を予測してするものだからです。色々な予測がありえますが、特に「将来における需要の予測」は予測の最も大きな決定要因になります。
 これは事業者として投資をする立場になったと想像してみればよいのです。事業者の投資は将来の生産規模を増やしますが、将来の社会にこの需要がなければ、つまり売れなかった場合、彼は首を括る以外に道はなくなってしまいます。

 ですから、社会全体として投資を存在させるためには、持続的な需要の見込みが前提された社会が想定されていなければ不可能なのです。


 しかし、ここで問題があります。
 というのも、民間消費は、投資を除けばあとは個人消費ですが、個人消費の増大の予測には限界があるということです。

 もちろん、短期的には、個人消費の増大を見積もることができるでしょう。
 しかし、根本的に、長期的に、我々の個人消費の増大よりも、機械化、生産性の拡大による供給能力の増大の方が大きくなってしまっているという問題がある。

 ここが自由市場における資源配分の不整合なのです。

 つまり、生産性の増大を、「消費者の選好」による需要で捌ききれないということであります。

 とりわけ、昨今の世の中では、「消費者の選好」を礼賛するケが非常に強い。しかし、大衆化された社会ではそもそも幻を掴むようで低劣な消費が散々されているのであります。要は、「消費者が選ぶ」ということに価値をおきすぎるのは、その消費者達の選好が低劣である可能性を大いに含む以上、よろしくないということです。
 これは別に、禁欲的な精神から言っているのではありません。消費者の選好が低劣だった場合、その低劣な選好に迎合して生産者も生産を行うことになる。そして価格が付き、価格そのものがその低劣なものに権威を与える。すると、社会全体のものとものにおける相対的な価値が狂ってくるのです。
 つまり、本来価値のあった公なものの価値が低く見積もられ、本来何の価値もないものの価値が高く見積もられる。これが大衆的に行われる現象が、「大衆消費社会」というものであります。
(※私が将来の消費税増税に大賛成なのは、この点を見てのことでもあります)


 もっとも、私とて「消費者の選好」のすべてを蔑ろにするわけではありません。
 しかし、消費者による選好を価値の源泉として考えるような経済の見方は、間違っています。
 そもそも、消費者の選好では、事業者による需要の見込みに確実感を与えるのに限界があります。つまり、増大する供給力を消化させる需要を創りだせない。


 ですから、ここは民間需要ではない、政府による公的な需要を考えるべきなのです。
 つまり、先ほど展開した、短期的で呼び水効果的な財政出動に留まらず、長期的に、恒常的に、政府の支出規模を増やして行くという方向です。
 言い方を変えれば、資源配分において、市場に頼っていた部分を、何割か政府の恣意的な決定に預け続けるということであります。

 たとえば、公共事業も、単にデフレの解消という期間限定のものではなく、毎年、恒常的に20兆、30兆の規模を確保する。土木や建築の公的な支出に伴い、我々の供給能力が、土建産業として消化されていくでしょう。その土建産業として消化された供給能力は、国土を整備し、交通をより張り巡らし、国民統合を促すという国家全体の益としての需要を満たすはずです。

 あるいは軍事産業にしてもそうです。高い軍事費を恒常的に政府支出として計上すれば、我々の生産能力を軍事産業として消化させ、国家全体の益としての需要を満たす。

 さらに、国会議員の定数や公務員を増やし、彼らの給与を上げるという策も必要でしょう。
 これは性質的に、短期的な財政出動として考えることは不可能でした。しかし、恒常的な政府支出の増大として考えるならば全く問題はないはずです。
 議員や公務員の増大と潤沢な給与による人材の確保という形で、より我々の人的資源を投入できれば、強靭な政府を形づくることができる。
 また、公共事業、軍事費、社会保障にいたるまで政府支出を拡大していくのであれば、これを捌く政府そのものも大きくしなければならないのは当然のことです。



 対して、我々の増大した供給能力を「輸出によって消化すべき」というヴィジョンを抱いている者が多い気がしますが、そういう考えは決定的な間違いを犯している。というのも、輸出とは、輸入をするために行うものであり、長期的な生産能力の過剰を消化する為には最低限度、軍事力を背景にした国際政治力が必要になるからです。また、もし日本にそうした軍事力があったとしても、過度な輸出、輸入の摩擦は、経済を安定づけることはできないはずです。



 以上のことから、我々の増大した供給能力を消化する新たな需要は、おおむね「大きな政府」として方向づけられるべきなのだと、私は考えるのです。



(了)


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