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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

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構造化した「構造改革」 


 構造改革……という言葉が流行らなくなったのは、構造改革が今やあまりに常識化してしまい、あえて「構造改革」などと言う必要がなくなってしまったからかもしれません。

 つまり、構造改革が国家の構造の一部になってしまったかのように。

 もしそうならば、国家はおしまいですね。


水晶



 構造改革というのは、

 国内においては「規制緩和」
 国外に対しては「貿易障壁を取り払う」

 ……ことによって国内構造の改編を起こし、供給サイドで効率化せしめる改革と言われ、特に小泉政権以来、急激に推し進められてきました。


 ただ、「規制緩和」と「貿易障壁を取り払う」というのは、よくよく考えてみると同じことです。

 すなわち、規制緩和も自由貿易主義も、

「政府の分権構造から統治権力を剥奪する」

 という形で行われるものだからです。


 結論から言えば、「政府の分権構造から統治権力を剥奪するものとしての構造改革」は、国家を強くするという観点から見て、

「あやまち」

 であった。


 何故なら、政府の構造から統治権力取り上げるということは、何らかの国家的「既得権益」に浴しながら生きているすべての各日本国民の構造から権力を剥奪することでもあったから。


※そして、それは「郵政改革」「聖域なき構造改革」の失敗により2000年代には雰囲気的には共有された反省であった。だからこそ、高橋洋一のようなリフレ派(上げ潮派)や竹中平蔵一派は福田内閣以降一線から退出していたでしょう。また、民主党政権の誕生にも、こうした小泉、安倍の新自由主義の反省からだという話ならば3パーセントほどは頷けるところもあった。(私、民主党に投票したことはないですけど)
ただ、実際には民主党も「政治主導」「仕分け」「コンクリートから人へ」などと言って構造改革を押し進めたのですが……。
これが第二次安倍政権前までの構造改革史で、つまりずっと同じようなことを繰り返しているんです。


 ◆


 そもそも政府の構造というのは、ざっくり言って「自民党」や「官僚」の構造でした。

 自民党は地方や産業の権益を代表する形で政治的な「既得権益構造」を構成し、官僚、省庁は組織として複雑で膨大な国家の行政を分担して国家全体を回してきた。

 で、よくよく考えてみれば、こうした
「既得権益」
 と呼ばれるものの諸構造は、日本国民の誰しも多かれ少なかれ浴していたものでした。

 だって、なんらの地域、産業に帰属せずして生活する者はないんですから。



 でも、そのことに気づかなかったのは、「各既得権益構造が、他の既得権益構造を叩く」ということをしてきたからです。

 例えば、郵政民営化では、郵政や自民党の郵政族の「既得権益」をみんなで叩いていたわけですが、その叩いていた日本国民のそれぞれも何らかの「既得権益」に浴している……といった具合に。



 だから、日本国民はいつからか、

「自分が浴していている既得権益以外の既得権益はズルだ」

 と考えるようになったというわけです。



 そして、こうした日本人の俗悪な精神を集約して、理論的な正当性を与えるのが「知識人」というものです。

 知識人は、「規制緩和」という便利な言葉で、「政府と既得権益の構造」から、「統治権限の剥奪」を請求してきた。

 これは一見、「権力から権限を剥奪して、非権力へ権限を解放している」感があるから良いことに見られがちですが、そうではありません。


 規制緩和論というのは「権力と非権力」という話ではなく、理論上、

「土地や産業に埋め込まれていない滞在人(大衆人)」

 が、

「各土地、各産業に埋め込まれた国民」

 から、その前提構造を奪い取るという話なのです。



 だって、

「各土地、各産業に埋め込まれた国民」

 というのは、当たり前ですが「政府の統治機能(省庁)」「政治的権力(自民党)」と深く地繋がりなのです。

 だから、統治と政治権力の構造なしには国民的な地域も産業も存立しえない。

 その各国民組織の「構造」を維持するため、官僚組織による「規制」と政治的な「既得権益」があったわけですから。



 だのに、これを「緩和して、緩和して、緩和すれ」ば、国家のあらゆる地域構造や産業構造はバラバラの無前提に堕すはずでしょう。

 そして、この「バラバラ」を好むのが「知識人」=「大衆人」=「滞在人」なのです。

 知識人は、産業や地域に埋め込まれていない、都市市民的な「疎外者」である場合が多い。

 彼らは、自分が土地的な価値に組み込まれていないから、土地的なものに組み込まれた人々の「あり方」へ異様な「敵意」を燃やします。

 その敵意はおおよそ嫉妬からくるのでしょうが、彼らはそのことに無自覚で、むしろ「規制緩和によって非権力者を権力者から解放する」とすら考えている。

 その際、そこへ正当性を付与するのは「民主的」という俗悪なイデオロギーです。



 こうした「知識人を中心とした大衆人」と「外国の市場解放圧力」が(いわば「無自覚な売国」的に)結託した形で

「政府の統治組織や既得権益的政治権力から権限を剥奪する改革」

 が、

「規制緩和」「グローバル化」「構造改革」

 という方向性だったのでした。


(了)


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三橋理論と資本主義 


 今日は、私が「三橋理論」と呼んでいる経済に関する考えをご紹介しようと思います。

 ここで「三橋」というのは、『今日から俺は!!』(西森博之)という昔のヤンキー漫画の主人公の名前です。

 私はこの漫画そのモノもとても気に入っているのですが、その話はここでは置いておきます。

 今日は、そこに登場するひとつの天才的なシーンを紹介し、これを資本主義論と貨幣論に応用してみるのが主眼なのです。



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◆三橋理論◆



 まず、三橋くんは学校の友達Aくんに千円を借りていました。
 
「三橋さん。千円返しておくれよ」
 
 当然、しばらくたつとAくんはそうやって催促にきます。

(※三橋くんは金髪のヤンキーで、とてもケンカが強いので、同級生からも「さん」付けで呼ばれることが多いのです)

 しかし、困ったことに三橋くんはおカネを返したくありませんでした。
 
 そこで彼は以下のような天才的アイディアを思い付くのです。
 

 
1 とりあえずBくんに千円借りて、Aくんに千円返しておく

2 しばらくたつとBくんが「返しておくれ」と催促にくる

3 今度はとりあえずCくんに千円借りて、Bくんに千円返しておく

4 しばらくたつとCくんが「返しておくれ」と催促にくる

5 その次はとりあえずDくんに千円借りて、Cくんに千円返しておく

6 しばらくたつとDくんが……(エンドレス)
 
 

 こうすれば、三橋くんは千円を返す必要がなくなる。
 
 しかも以下のようによーく考えると、これは「世の中で回るおカネが千円増えている」ことになるのです。



A 三橋くんの使った千円はお店やさんからすれば買ってもらえて嬉しい。

B 三橋くんは千円を使ってモノが手に入って嬉しい。

C 三橋くんにおカネを貸した学校の友達たちも、結局はおカネを返してもらうので誰も損しない。


 
 すなわち、存在しなかったはずの千円が世の中に回っていき、三橋くんには千円分のモノが手に入る上に、誰も損しない。

 だから、「世の中のためなのだ」と三橋くんは言い張るわけです。
 
 
 
 ……私は、十年以上前だったかココを読んだ時、「これ描いている人は天才なんじゃねえか?」と衝撃を受けた覚えがあります。
 
 
 
 もちろん、この三橋理論が成り立つには「無利子」である必要があります。
 
 そして、友人から無利子で借金ができるのは、友人という間柄だからであり、それを利用して上記アイディアにて千円を生み出すのはお話的にイカンでしょう。
 
 だから、漫画ではヒロインにたしなめられて、三橋くんがこのアイディアを実行することはなかったんですけれどね。

 でも、この三橋理論は経済のいろいろなことについての説明に応用が効きます。


 

◆応用1◆


 
 たとえば、三橋くんがこの借りた千円を投資に回していたらどうでしょうか。
 
 仮に、千円を借りるのに年利10%かかるとする。

 しかし、千円の投資で生み出す利回りが年11パーセントだとしたら利子は消化できるし、サヤの1パーセントは三橋くん自身のおカネになる。
 
 また、その1010円を一年投資すれば……と続けて行けば、「借りて返して、借りて返して」とやっても彼のおカネはどんどん増えていきます。
 
 だったら、どうせなら1000円ではなくて1万円借りておけば仮に同じ1パーセントの利幅だったとしても、一年間で100円が三橋くんのおカネになりますでしょう。

 こうして、借金して投資をして資本を増やしていこうとする連中が増え、事業やお金の流れが増えていく経済が「資本主義経済」です。
 
(この場合、投資家にとって「利回り-金利」の将来見積もりが大きければ社会全体の借金が増えて経済は成長します。逆に見積もりがマイナスで現金を資産として保有しようとする意識が上がって、社会全体の借金が減れば、デフレで資本主義は成り立たなくなります)



◆応用2◆


 
 あるいは、「借りて返して借りて返して……」というのは、実は「日本円」がそれなのです。
 
 そもそもおカネというのはどのようにして生まれるか。
 
 それは企業間の「売掛」「買掛」の概念が分かれば簡単です。
 
 もし、未開社会のようなごく単純な社会ならば、この「売掛」「買掛」の概念でなんとなく互いにすべて記憶できるので、おカネは必要ありません。
 
 たとえば、「アイツにはあの時あれくらいの借りがあったから、今度はこれくらいのことをしてやろう」というような感覚がありますでしょう。

 未開社会ではこれを高度に記憶し、数ではなく感覚で互いに「貸し」と「借り」を了解しつつ社会をやっているわけ。

 そして、これが「おカネ」という考えの素なのです。
 
 その上で、社会が複雑で膨大になると未開社会のように「記憶で了解しておく」ではやっていけないので、証書や貨幣でやり取りしなければ済まなくなる。

  これはよくよく考えてみれば「借りの常態化」でしょう。
 
 おカネとは「常態化した借りが流通している」ということなのです。
 
 そして、「日本政府の借り」として常態化したものが「円」ということになるのです。
 
 
 
 だから、三橋理論は、もし三橋くんが「政府」であればまったく正しい。
 
 だって、よくよく考えると「政府の支出」というのは、政府が国民に対して「借り」を持つということと同義です。
 
 対して「政府の税収」というのは、国民の「国家に貢献しなければならない義務」を円によって「貸し」にしておいてやっていることと同義でしょう。

 だから、そもそも「円」というものの価値も三橋理論によってできがっているわけです。


(了)

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ヤマトとAmazon問題から考える価格決定観 


 昨今、「Amazonや楽天などのeコマースによって、ヤマトを初めとした宅配事業が圧迫されている問題」が、かなり大きく叫ばれてきていました。

 eコマースの持ってくる仕事が増えると、宅配事業者からすれば「単価の低い小さな荷物をたくさんの家へ送り届ける」ことになってしまうので、現場の宅配員の仕事量は多くなるが、事業収益も圧迫することになるわけです。



 そんな状況であるから、ヤマトは再び宅配料の値上げを発表したりAmazonと宅配料の交渉などを始めました。

 こうした動きは、世論でもおおむね「宅配サービスの適正価格」という単語で肯定的に受け入れられてはいるようです。
 私も、このことそのものに関しては大賛成……というより「当然のこと」だと思う。

 ただ、これを肯定的に捉えているらしい世論の「動機」の方には、少し気になる点があるのです。
 それは、その肯定も多くの場合は、「サービス価格の適正化」に関心があるというよりは、「ITイノベーティヴな未来観を象徴するeコマース」を否定的に捉えたくないという動機から起こっているように見えるところです。
 つまり、eコマースによる宅配事業の圧迫はあんまり赤裸々だから、ここでそのサービス価格の適正化にコミットしておかなければ「ITイノベーティヴな未来観を象徴するeコマース」 の正当性を担保できないと無自覚ながら狡猾に察知しているだけのように見えるということ。

 というわけで、ここで重要になってくるのは、この「eコマースによる宅配価格の圧迫の問題」は、これをもうひとつ掘り下げて考えて、その「ITイノベーティヴな未来観」そのものがチープで子供っぽくて成立しないガラクタの未来観だということを理解することです。

 そのために、ここでは「価格決定」ということについて焦点を当ててみましょう。

 ◇

 そもそも、ヤマトは値上げに先んじて、社員、サービスドライバーに対しサービス残業などの実態を調査した上で未払い残業代を払うという決定をしています。

 つまり、事業を健全に運営するための「人件費」と「労働環境の是正」と「企業収益」のために値上げをする……と、そういう筋なのです。

 この経緯を含めて考えれば、この場合の「適正価格」とは、労働価格から事業の成り立つコストが先に立ち、コストに一定の利益分を上乗せした価格を後から消費者に承認させる……という経路で成されるということになります。

 こうした価格決定観はいわゆる経営学の「コストプラス方式」と呼ばれる価格決定の論理です。

 そして、コストプラス方式という価格決定観は、経済学の「市場原理主義」からは何事か離れる価格観でもあります。

 そもそも市場原理では「需要と供給の均衡によって価格が決まる」とされており、なおかつそこには「市場均衡価格が適正価格である」という価値観も多分に含まれています。

 つまり、価格に対する政治的恣意のない(プライステイカーな)自由市場において、消費者の選好で価格が決定し、その価格によって売上が決まり、コストが配分されていく……という経路で成されるとされるのが市場原理主義の価格決定観なのです。

 これはコストプラス方式とは真逆でしょう?

 すなわち、

A『コストプラス方式の価格決定観』

1「供給者側が価格を決める」
2「消費者がこれを承認する」

B『市場原理主義の価格決定観』

1「消費者一人一人の選好と供給量の均衡で価格が決まる」
2「先に均衡価格があって、生産者側はそれを人件費、コスト、収益といったふうに分配する」

 こういうわけです。

 その上で、「通信販売の宅配価格が、到底適正価格ではない」という赤裸々な事実が突きつけられ、コストプラス方式が一定程度世論で認められているということは、どういうことなのか。

 それはイコール、価格について以下の三つのことを認めるということになりますでしょう。


1、「自由市場における市場価格は、必ずしも適正価格とは限らない」

2、「価格が消費者の選好によってのみ決定されるべきだと構えると、価格は過度に抑制され、労働価格も抑制される可能性(=過剰サービスの可能性)がある」

3、「価格を消費者に承認させるために、産業側が政治力(談合やカルテル)を発揮すべき局面もありうる」
(※例えば、ヤマトが値上げしてもより体力のある日本郵便が値下げしてシェア獲得に走れば、適正価格は実現されないんですからね!)


 さて、そうなるとですよ。

 そもそもeコマースというもののSF的未来観は、その基礎に「市場原理による価格決定の徹底」があったわけでしょう。

 だって、「小売、中間業者を省き、生産者側から価格決定権を剥奪する」という日米構造協議から始まった平成の物流の合理化を、もっとも体現しているのはeコマースでしょ。
 ダイレクトにメーカーと消費者が繋がることができ、「レビューやらなんやらの情報で不完全情報社会の乖離を埋めることができる」とかなんとかみんな言っていたものです。

 でも、宅配価格でコストプラス方式の価格決定観を認めねばならぬなら、eコマースで売買される製品も「過剰な低価格」で売買されている可能性のあることを認めねばならないはずじゃないですか!

 この製品価格の過剰な低価格の実現は、全体としてなにを削ることでされてきたかと言えば、かつての「卸し」や「小規模店舗」という共同体的なラインを削ることでされてきたのであり、また、そこを繋げていた小規模運送業者を削り、「暗黒大陸」を解消する「ロジスティック」な物流などといって実現されてきたのです。
(これはイオンなどの巨大ショッピングモールの問題と同じであるから、別にeコマースに限定した問題ではないけれど)

 こうやって言うと、もしかすると、
「中間業者が省かれて価格が下がるならいいじゃん」
 と思われる人もあるかもしれないが、それはつまり中間業者として成り立っていたお金の流れがなくなり、共同体的な消費形式による消費動向の一貫性がなくなるということでもあります。

 製品価格の抑制によって、中間業者として成り立っていたお金の流れがなくなるということは、経済全体で見れば需要的な経済(パイ)の縮小要因でしょ。

 さらに言えば、物流としてはその最終形態として「宅配」に集約されているわけで、「物流を宅配に頼りすぎていること自体」が物流全体における過剰サービスの助長であるということも留意しておくべきでしょう。
(別に「過剰サービスで可哀想」と言っているのではなくて、過剰サービスということはイコール価格の抑制だから、経済全体のパイを減らす要因だろうということ)

 また、消費をよりバラバラに大衆的にするということは、生産者として「消費者が需要するものの予測」ができなくなるということであり、ほとんど運任せの企画で製品を市場へ問わなければならなくなるので、そりゃあ企業も「それくらいだったら現金を持っていた方がマシ」だと考えます。
 すなわち「消費のさらなる大衆化」は「何に需要があるか」をさらに読めなくさせ、「民間投資が減る」ことを助長するから、これも経済全体を見れば縮小要因でしょう。


 すると、もはやeコマースというコンセプトそのものが、過度に大衆消費者サイドの形式であり、全体を成り立たせなくさせるものなのではないかと疑われれ然るべきなのではないでしょうか。

 というか、それを宅配価格に「だけ」限定して、「eコマースで取り引きされる製品の価格も不適正に低く抑制されているのではないか」について考えを及ばさないでおれるのは、ちょっと都合良すぎです。

 別にeコマースみたいなのもちょっとくらいあったってイイけど、これを大々的に押し進めて大衆消費者目線の便益を高めても、全体としては価格の下げ要因として経済を縮小させることにしかならないし、ましてや「成長の伸びしろとか未来の展望」にはなろうはずがないのです。


 ◇


 さて、これからも物流やeコマースについてはさらに突っ込んでやっていこうと思います。

 これを詳らかにするには、日米構造協議から起こった「大店法改正」とそれに付随した中間業者を省く「ロジスティックな物流」とやらの方針が、「まるで大間違いだった」というところまで遡らなければならないでしょう。
 でもそれはそれで気合いが必要なのでまた今度。

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eコマースと宅配事業 



 eコマースが宅配事業を圧迫している……という問題が、注目を集めています。

 とりわけ、ヤマトが通販宅配の総量規制を敷く方針を固めて、世間でもかなりメジャーな話題になってきているようです。
(ヤマトの労組も会社側もエライと思う)

 私は、この問題は結構「ツボ」だと思うので、しばらくこれについて特に論を深めてゆくことにしました。

 そもそも私は、現在の日本国家全体の経済力の増強のためには、「土建」や「物流」といった産業がかなり重要になってくるはずだと思うのです。

 そしてこれを機に、この問題をみんなでもっともっと強調して、日本経済界全体で大議論がされればそれは国益なんだと思います。




 そういうわけで今日はとりあえず、考えるべき領域について、四区分してみました。




1、「実際の把握」

 まず、今起こっている「eコマースによる宅配サービスへの圧迫」の実際をもっと見極めて解釈する必要があります。



2、「物流の産業構造改革についての反省」

 次に、この問題が、平成日本人の「国家における物流組織」を蔑ろした態度そのものを示している可能性を見る必要があります。

 そもそも、少なくとも十年くらい前(私が学生だった頃)には既に、「物流の産業構造改革」というのが世間で盛んに言われておりました。

 簡単に言えば、「日本の物流は中間業者がたくさんあって非効率で既得権益なので、アメリカ風に『生産』→『消費者』と直繋がりに近い形にしろ……」というふうにみーんな言ってたわけです。

 その最終形態がeコマースなわけでしょう。

 でも、この「宅配事業への圧迫」という問題によって、「そもそも物流の中間業者の構造を省いて消費価格を下げても、国家全体の経済の循環に悪影響を及ぼすこともありえるんじゃない?」というところまで議論が広がればいいなぁ……と思っています。



3、「価格についての思想」

 また、この問題が話題にされる時、一般に「適正価格」という言葉が使われ始めてます。

 これは平成日本人としては画期的なことです。

 だって、みんなこれまで「自由市場でついた価格が適正価格だ」っていう前提でいろいろ言ってきたわけでしょう。

 それがなかったことのように急に「適正価格」などと臆面もなく言えるのは実に面の皮が厚いことだなぁとは思う。

 けれど、これは価格についての思想転換を促す論筋を立てうる可能性があるように思われます。

 すなわち、「市場価格=適正価格ではない」と認められれば、政治的に相対価格を管理する必要があるという筋が立ち、『談合』や『産業組合』も時と場合によっては必要だという筋も立つからです。



4、「eコマースの大衆性、不健全性」

 そして、eコマースという事業形態そのものが、国民の大衆性を強めてしまう不健全性を持ち合わせているのではないか、という部分も考えられれば良いなと思います。



 以上、四つの領域について論の繋がるように組み立ててみようと思います。

 でも、そのためには物流について少し勉強しなきゃいけないですけれど。

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独占禁止法など 


 最近は独占禁止法のことをよく考えています。
 私は、「独占禁止法と公正取引委員会が自由競争を前提づけている」という市場原理主義的ストーリーが嫌いなのです。



 もっとも、私とて「資本の集中による独占を防ぐ」という志向には、文句はありません。

 しかし、企業と企業の間で話合いをもって、価格を維持するための協約を結んだりするといった談合やカルテル的なものを、「自由競争を阻害するもの」として厳しく取り締まろうとする志向には、大いに抵抗したい。

 企業間の談合やカルテル、協約がなくして、単に自由市場で適正価格が均衡するだなんて話はウソっぱちです。経済のモデルの中でしかなしえない机上の空論――お花畑というものです。


 でも、世の中では、こうした「企業の談合や既得権益」が批判にさらされている一方、、独占の話でも「資本集中」の方は大目に見られている傾向が強い。特に2000年代に入って以降。これは「国際競争力」とやらが盾にされて大目に見られているのです。

 でも、「企業の談合」と、「資本の集中」では、どちらがより独占性を強めてしまうかと言えば後者でしょう。
 だのに、談合やカルテルのほうがヤリ玉にあげられるのは、そちら方が威張っている感じがして腹が立つというルサンチマンが根底にあって、それを発露しているだけでしょう。
 また、資本の集中の方は、「市場における消費者一人一人の一票という経済の民主主義」と「効率的資源配分(パレート最適)」が、なんだか自由で民主的に聞こえるという話で大目に見られるのであって、つまりは単なるキレーゴトなのです。



 我々は、「国際競争力とやらのために資本集中を大目に見る」という態度を捨てるべきです。
 そして、国内の各既得権益を守るために、適正な不自由――つまり、政府による規制や、企業間の協定、談合といった人間交際による経済を志向すべきなのです。

 そうなると、われわれは対外的には保護主義を考えるべきだし、保護主義には外交力が必要であり、外交力には軍事力が必要です。
 この場合、軍事力というのは、単に「攻めてきたら守る能力」という話ではなく、「攻撃されたらやりかえす能力」という抑止力を「自前で持つ」ということです。
 つまり、具体的には「核武装」か「徴兵制と本土決戦の覚悟」の少なくともどちらかが必要ということです。

 実のところ、これくらいのことはみんな分かっているのでしょう。でも、世間で核武装を言うのは憚られるし、自分が徴兵されるのは嫌だから、保護主義的政策をとるための軍事力を実現させることも嫌で、だからTPPなどのグローバル化はやむを得ないという話になり、国際競争力のために資本の集中もせざるをえない……こういう筋立てが、半ば無自覚的に前提されていしまっているわけです。

 でも、この筋立て、前提の上では、資本の集中が「孫子の代への負荷」となりますね。

 そこで、資本の集中を大目に見るのは国際競争力のためであり、国際競争力をつけなければならいのは保護主義を回避するためであり、保護主義を回避するのはそうした軍事力を実現するのが嫌だからで、何故軍事力の実現が嫌かというと核武装や徴兵を考えなければならないからだということを考えると、こうなりますでしょう。

 すなわち、今の日本人達は、「今の自分が核武装を考えたり徴兵されたりなどしないために、孫子を犠牲にしている」ということです。
 資本の集中という形でそれをツケておけば、少なくとも自分たちが軍事について関わることをしなくて済む。そして、そのツケが、自分の生きている間に、自分に降りかかってこなければ良しと考えているわけです。

 日本人はおおむねそういう方向で行っているわけですが、何故ここに至ってイイ人ぶるのでしょう。
 みんな「家族が大事、孫子が大事」という価値を口では言うくせに、実際やっている様には「自分の生存期間内だけは平和と飽食が延長されれば良い」という方向性がありありと透けて見えているのです。


 ならばイイ人ぶるのはやめて、「自分の生存期間さえ平和と飽食が享受できればいいのだ」と言いながら、やってもらいたいもんです。
 でも、もしそれでも「良い」ということに帰着したいなら、もう少し「孫子の代」とやらのことを真剣に考えるべきでしょう。

 せめて、どちらかにしてもらいたいです。



(了)


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