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日本が日本であるために

 

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安保法制運動と集団安全保障の欺瞞 



 安保法制への反対運動はムカつきますね。
 でも、「安保法制でリスクを減退できる」という賛成派の理屈もムカつくのです。


 そうだ、安保法制反対をピーピー言うくらいだったら、いっそのこと日米安保からして反対してはどうなんでしょうか。

 実際、安保法制という法制自体は別に何ら一切問題はありませんでしょう。
 問題は、「集団安全保障」という欺瞞なわけです。

 よりアメリカの召使としてお役に立てるように、あるいは国際社会の多数派から仲間はずれにされないように……そうすることが、国民の生命と財産を守るという話になる。今の安保法制における「リスクを減らす」という理屈は、要するにこういう話なわけでしょう。

 我々には、イラク戦争の事例が脳裏にある。
 イラク戦争にひっついていくことが、アメリカへの覚えよろしき召使度を上げることができるので、ひっついていった。
 こういう文脈で「リスク」が減ってよござんすという程、日本人は骨の髄まで召使に成り下ったわけで、安保法制もそういう文脈であることには違いない。

 でも、こういう発想はどうでしょう。
 例えば、イラク戦争のようなことが起きた時、「イラクの味方をする」という発想です。
 アメリカを敵に回すかもしれませんが、こちらも不屈の構えでアメリカ基地に対峙すれば、そうそう言いなりにならずとも済む様になるでしょう。

 それは言い過ぎだとしても、こういう疑問は確かなもののはずです。
 すなわち、「中国に対する抑止力」を考えるのはまことに結構なことだが、「アメリカに対しての抑止力」はどう考えているのか、ということ。
 これは安保法制に賛成でも反対でも同様に突きつけられている問題ですよ。



 ちなみに私は、集団安全保障ではなく、「バランス・オブ・パワーポリティクス」の発想を目指すべきだと思っていて、それは伊藤貫先生が随所でおっしゃられていることです。以下に、氏が西部邁ゼミナールにご出演された際の動画一覧を貼り付けます。

西部邁ゼミナール 伊藤貫一覧



(了)


Category: 軍隊:軍事制度

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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経済と軍事の交差点 




 自由市場の礼賛が平成の日本大衆民達の都合によって推し進められてきたということは、
「大衆迎合としての自由市場礼賛」 http://shooota.blog.fc2.com/blog-entry-272.html
 にて論じました。

 これに対して、「いや、アメリカが新自由主義を押し付けてきたのだ」という反論があるかもしれません。
 これは確かにその通りだといっても良いかもしれませんが、やはりそれは少し違うでしょう。
 やはり、日本の国を一番毀損しているのは、日本人全体の人間的劣化と卑しさなのです。


 というのも「アメリカに新自由主義を押し付けられること」を良しとしてきたのは、やはり「日本大衆民の軍事的な都合」に起因するからです。これは、「自由市場礼賛」を多少懐疑する者であっても、結局取り込まれる都合であります。

 つまり、「アメリカによる軍事的な養護」と「政治・経済的な制度改変」では前者の方がより短期的な問題に属することは誰が見ても明瞭ですね。ですから、「政治・経済的な制度改変」を犠牲にして「アメリカによる軍事的な養護」の方をその時々で優先するほうが、その時々の「民の請求的な都合」に迎合する姿勢となる。

 この経済と軍事の問題の交差関係は、ごくごく明瞭なことでしょう。誰も口にしませんが、誰もが多かれ少なかれ分かっていることでもある。

 アメリカは、意識的にも無意識的にも、「自由と民主」を普遍的な価値、進歩の光の先として押し広げる傾向が非常に強い国です。そして、これに反する精神は「非自由主義」「非民主主義」の傾向と判断されるのであるから、「国際社会の少数派」として(アメリカから)見なされる。こうした関係も雰囲気として誰しもが察しているところでありましょう。
 すると、政治・経済の制度を「自由」「民主」へ「進歩」「改革」させてゆく姿勢を取らないとなると、アメリカから軍事的に庇護されうる対象から外れる。

 誤解しないでいただきたいのですが、ここで私はアメリカを非難してなどいません。アメリカはこういう国だと誰しもが思っている事実を描写しただけで、別にこのことを良いか悪いかと判断する立場に私はない。私はアメリカ国民ではないのですから。


 私にとって非難する価値のあるのは、いつだって日本人全体です。

 つまり、日本人は、長期的に国家の体制を守るためには、「国際社会多数派筆頭」=「アメリカを中心とした国際社会のスーパーパワー」による庇護から外れる、あるいはそれを敵に回す可能性を認めなければならない……のが嫌だっただけだろう、ということ。
 なぜ嫌なのかといえば、それは職業軍人が多量に戦死するケースが誰にだって想定される可能性であり、つまりは徴兵の必要性も想定され得ることが明白になる可能性だからです。

 つまり、日本人は、短期的にその時々の一人一人が「徴兵される可能性を1%でも下げたいから」「政府に民を徴兵する権限など与えるのはムカつくから」といった理由で、「政治制度、経済的な制度」という長期的なものを少しずつ少しずつ犠牲にしてきた。また、少しずつの犠牲を積み重ねることによって時間制限付きの平和と飽食を享受してきたというわけであります。まあ時間制限付きでも、その中にある日本人の一人一人は、時間制限の間に自分の寿命や青春の期間が含まれきるのであればそれで良し、と頭の何処かで計算しているに違いないのです。

 さらに、こうしたことをまさか正直に言うわけにもいかないから、日本人というのは狡猾にも、そうした自由と民主の進歩的な「政治制度、経済的な制度」に『理』をつけてくるわけです。理さえつけば国家を犠牲にしていることにはなりませんので、先人や後継に対して罪を感じないで済みますからね。

 つまり、深く掘れば「徴兵の可能性をとにかく減らしたい」という短期的都合によって、「政治制度、経済的制度」という長期的な問題を犠牲にしながら、日本人の一人一人はまだ「良い者」でいたのです。だから、そうした長期的な犠牲分を「むしろ合理的」と見積もれるような理屈を一生懸命にさがし、構築するわけであります。

 日本人というのは元々極めて優秀な民族です。なので、この卑劣を覆い隠す理屈を、実に狡猾に構築してきました。
 歴史観、宗教観、哲学、政治哲学、社会学、雑誌、新聞、インターネット、人々の喫茶店での会話、職場での世間話……様々な分野の英知が、日本人の卑劣を「合理」と見積もる為だけに総動員されてきた。要するに、それらは民主主義の論筋を正当化するという「日本人の卑劣な都合」の支配下にあったということ。
 また、この「民主主義」「自由」「進歩」の論筋は、日本人の性質のみならず、人類普遍一般として「大衆」の性質にも迎合するものでもあった。

 そして、経済学、経済雑誌、ビジネス雑誌は、「アメリカの軍事的養護の確保による、短期的な徴兵可能性の最小化」を大前提として「経済における政府の退場」という長期的経済体制の改変を容認しつつ、まだ自分達日本人を「良い者」であると思えるように、「自由市場」「市場均衡」「経済における民主主義」という合理を強調し、強調し、強調することで、日本人の卑劣な都合に迎合し続けてきたのであります。

 もう少し柔らかい表現の方が良いですかね。ではこれではどうでしょう。

 自由市場礼賛を強調すればするほど、「アメリカに屈服している感」を少なく見積もることができる、と。

 この論理関係だけは明白でしょう?

 だから、経済学、経済評論、ビジネスマンの喫煙場での会話などなどは、基本的にここの都合に迎合するように自由市場を礼賛するというわけです。
 少なくとも、そういう大衆の都合に迎合する一つのバイアスとして。


(了)


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安保法制から、ネガティブリストと『健軍の大義』および徴兵制度を考える 




 軍事の事を考える際、前回論じた『徴兵制度』つまり「政府に民を徴兵する権限を持たせる」という考えがいかに重要なポイントか。
 このことをさらに詳らかにするためには、自衛隊……軍隊というもの全体を考えてみる必要があるでしょう。

 また、軍隊というもの全体を見る為に、現在話題にされている『安保法制』に関わる所から論筋を伸ばしてゆこうと思います。



 まず、多くの皆さんは今の自衛隊がポジティブリストによって縛られているという問題はご存じでしょう。
 ポジティブリストというのは、つまり、
「これこれこういう場合は軍事力を行使して良いですよ」
 というリストのことです。
 例えば、「敵が撃ってきたら撃って良い」というような専守防衛の問題などはこれに起因しています。

 通常、軍隊は「これだけはやっちゃいけない」というリストによって縛られています。これをネガティブリストと言います。
 つまり、通常、軍人はいかなる状況にあっても武力を行使するものなのです。その前提の上で、「これだけはやってはいけない」というのがネガティブリストです。

 ネガティブリストというとネガティブなイメージかもしれませんが、「これだけはやってはいけない」というネガティブな取り決めの方が実行可能な範囲は遥かに広いのです。
 逆に、「これだけはやってよい」というポジティブな取り決めだと、実行可能範囲はごく狭まってしまいます。

 それを言うと、今の安保法制においても、単にポジティブリスト「これはやっていいですよリスト」の項目が増えるだけで、 「これだけはやっちゃいけませんよ(だけどそれ以外は全部やっていいですよ)」というネガティブリストにはなっていない。
 例えば、今までは「自衛隊の装備が破壊されそうになった場合には武力の行使ができますよ」ということだったのが、自衛隊法の改正によって、「米軍の装備が破壊されそうになった場合も武力行使できますよ」という風になる。あるいは、PKO活動中の自衛隊員が現地民の生命を守る為に「駆けつけ警護」ができるようになる。
 この程度の話なのです。つまり、「やっていい項目」が増えるだけなんであります。

 だから、保守界隈では、
「自衛隊をポジティブリストではなく、ネガティブリストで運用しなければならない」
 という事は散々言われてきたし、そうでなければ現場の自衛隊員が気の毒だという話も散々されてきた。
 そして現在でも、安保法制に平行してそうした問題意識を持つ人は少なからずいる。

 私とて、当然その通りだと思います。
 しかし、この「ネガティブリストにする」という事は、どういう意味があるのかという所を掘り下げて考えなければ、法律の字面的話題に堕してしまいます。

 ネガティブリストにするというのはつまり、軍隊法を整備し、軍事法廷を持ち、軍律を整備する体制を作るということです。
 これはどういうことか。

 それは、軍事組織が、通常の法律から超然した、別の裁きの体系を持つということです。軍隊法は議会で制定され、命令は行政からおろされるにせよ、司法、つまり、その軍隊法に軍人が違反したかどうかを裁くのは軍事組織ということになる。これが軍事法廷というもの。
 あるいは、敵前逃亡をしてはいけないとか、住民を殺戮してはならないとか、強姦をしてはいけないとか、そういう「軍律」も軍隊組織で作られる。
 ネガティブリストにするというのはそういうことです。

 もちろん私は、このように通常の刑法から超然した、軍隊によって軍人を裁く体系が必要だとは思う。軍事法廷も必要だと思う。
 そして、「自衛隊にネガティブリストで運用して、ちゃんと軍隊にしなければならない」と言っている人達も、そう思っているのだと信じておきましょう。

 しかし、ならばですよ。
 なぜ、そんな風に通常の刑法から超然して、「命令遂行の為なら、ネガティブリスト以外は武力行使してよい」などという暴力機関が存在して良いのか……という所まで思いを馳せなければならないはずです。

 日本人の生命を守る為ですか?

 単に「たまたま今生きているだけの日本人の命を守る」ということなら、「警察の延長線上としての自衛隊」で済むんですよ。

 つまり、その場その場で、国際社会の多数派に屈服し、国際法を遵守していさえすれば、『集団安全保障』という形でその時々の日本人の生命は基本的には守られることになる。少なくとも、これが最も「日本人の生命が脅かされるリスク」を減らす方法でしょう。
 と言うのも、あらゆる局面で「国際社会の多数派」に屈服しておきさえすれば、日本人の生命がリスクに晒されるケースというのは、いわゆる「テロ組織」や「ならず者国家」といった国際社会の少数派からの突発的暴力というものでしょう。
 現在、こうしたものから「日本人の生命を守る」というのが自衛隊であり軍隊である……と考えられている風潮が非常に強いようでありますが、そんなものは単なる「国民の公営用心棒」なんですよ。
 国民の公営用心棒だって「公営」とつけて差し支えない以上、立派な仕事かもしれませんが、少なくともそれは「警察」の範疇に収まるものでしょう。
 もし、このように自衛隊が警察の範疇に収まる活動(日本人の生命を守る事)としか前提としていないのであれば、「命令遂行のためにはネガティブリスト以外は武力行使してよい」という暴力機関に『大義』はないことになるでしょ。
 だって、警察はポジティブリストで動いているんですから。

 つまり、「自衛隊をネガティブリストで運用しなければならない」=「通常の法体系から超然した『軍隊』が必要」というからには、「日本人の生命を守る」という警察の大義以上の目的――建軍の大義――があるという事を前提にしていなければおかしいのです。

 では、「日本人の生命を守る」ということ以上の価値、『建軍の大義』とは何か?

 それは、百年スパンで見て、「日本という文化圏」=「天皇を中心とした文化圏」=「天下」を守るということです。
 これには、単に今生きているというだけの日本人の命を守ることより、崇高な価値がありますね。

 百年スパンでみて「日本(天下)を守る」ということは、「日本文化圏のあり方として、国際社会の多数派に屈服しておれない状況」においては、ちゃんと「国際社会の多数派に刃向かう」ということを前提することです。それは例えば、大東亜戦争のように。
 その場合、相手は「テロ組織」や「ならず者国家」ではなく、国際社会の多数派筆頭……今でいうならアメリカなどのスーパーパワーなわけです。

 そうした、「時のスーパーパワー」に対しても日本文化圏として屈しない……少なくとも百年単位では屈しない。こういう前提があって初めて、「百年スパンで、日本という文化圏を守る」ということになり、日本人の生命を守ること以上の目的が設定され、『建軍の大義』というものが生じる。

 ならばですよ。
 こうした『建軍の大義』に即した軍隊は、「大量に職業軍人が戦死する」という状況もありうる、という事を前提としていますでしょう。
 だって、いざとなったら「時のスーパーパワー」にも刃向かうことを前提するのですから。

 ならば、「徴兵制度」は軍事体系として前提されていなければおかしいでしょ。
 だって、「大量に職業軍人が戦死する」という状況もありうると前提しているのですから。



(了)

Category: 軍隊:軍事制度

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