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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

     
  

加計学園問題は、安倍政権が「政府の国家権力を放棄する」問題である 

 世論では、何か

「安倍政権が強権を振るって政府機関を扶養し、我々国民(自分)を圧迫している!」

 という筋での「不満」を述べ立てる者があります。

 あるいは逆に、

「安倍政権が強権を振るって政府機関を扶養し、我々国民(自分)を守ってくれているのだ」

 と擁護する者もある。



 しかし、それは両方間違っているのです。

 だって、安倍政権のおおよその実際は、

「強権を振るって、政府機関から権力を剥奪している」

 のですから。

 そして、こうした「政府機関から権力を剥奪すること」は、実のところ国家そのものを毀損することでもあるから「問題」なのです。

 ここらへんのところ、よくよく考えていただきたいところです。


(ちなみに、これを「安倍政権は、政府機関から権力を剥奪しているから良いのだ」という連中もいるので話がややこしくなる。と、言うか、こういうやつが一番多い気もするし、私が一番ムカつくのもこういう連中)


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炎


 まず、世論の大衆的気分としては、以下の前提がほぼ無自覚に敷かれています。


1 国家権力や政府機関からは、その権限を剥奪した方が民主的で楽チンできる。

2 時の政治権力は、国家権力や政府機関を扶養しようとするもので、これによって個人が国家に縛り付けられてしまいそうで嫌だ。 

3 故に、強権的な政権は、国家権力、政治権力を扶養しようとする。これが嫌だ。


 ……そういう物語を前提しているから、「手続き的に強権的な感じのある安倍政権」については、当然、「国家権力、政府権力を扶養している者」として捉え、その前提の上で「支持」だの「不支持」だのと騒いでいる。

 しかし、それはまず前提が間違っているから、ちゃんちゃらおかしな話になっているわけです。



 例えば昨今、加計学園問題というのが持ちあがっていますが、あの問題の筋は、

「文科省という政府機関の、『今、日本国家で獣医学部の増設が必要かどうか』の判断と設立許可を施す集権的国家権力」

 を、首相の地位を利用して都合のいいふうに剥奪したんじゃねえの?……という疑惑でしょう。

 つまり、

「規制緩和」=「政府機関が国家権力を手放すこと」

 を、首相の都合の良いふうにしたんじゃないの?……という疑惑じゃないですか。

 これを国家戦略特区という「一定区域において強権的に国家権力を手放すことができる」という政策を利用して行っている……という話なわけでしょう。

(つまり、竹中平蔵のパソナが戦略特区を利用して外国人家政婦を派遣している筋と同様なのです。)


 ・


 だから、加計学園問題は「規制緩和論者」や「規制緩和という言葉を知らなくても、その物語を前提している大衆」からも「安倍擁護」の力学として現れるのであります。

 故に、案の定あまり燃え上がっていない。

(リベラルはリベラルで共謀罪でもちきりですし。)

 大衆動向として森友学園と違うのはそこらへんなのです。

 何度も言っていますが、「森友学園問題は大衆にとって都合が良いもの」で、加計学園問題は「大衆にとって都合の悪いもの」なのです。

 森友学園問題を騒げば「戦前コスプレ保守」を「踏み絵」にして政府が国民(自分)を制限してくるのを牽制できる……という「大衆的都合の良さ」があるわけですが、加計学園問題を騒ぐとこれは今まで自分達が請求してきた論筋上の疑獄であるから大衆的に都合が悪いのです。


 ・


 この大衆力学に抗うためには、安倍政権一般の問題が、

「強権を振るって、政府機関から権力を剥奪していること」

 だという根本的な理解が必要になります。

 それはすなわち、「安倍政権の問題」とはイコール「平成の大衆の問題である」と反省することと同義なのです。



 ……もちろん、誰もそんな反省はしないに決まっているでしょうけれど。


(了)

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SNSをやめよう 

「タッチパネルじゃないのはグローバル市場から見ると日本市場のガラパゴス化だ!」

 ……などというグローバル企業と経済ジャーナリズムのゴリ押しキャンペーンによって、大量の大衆から「選好」(?)されていったスマートフォン。

 それと共にTwitterやFaceBook、インスタグラムなどのSNS(ソーシャルネットワークシステム)の利用も急激に増えていきました。

 しかし、昨今では「SNS疲れ」などということが言われたりもしているそうですね。

 事実、冷静な生活的個人としてこれを外から見れば、SNSに溢れるゴミ溜めのごとき通信や情報ほどおぞましいものはない……と感じる場面は多々あるでしょう。



フラミンゴ



 そもそもSNSに限らず、高度情報化は、

A「生活上の便宜で通信する私」

 というところから、

B「不特定な個人として通信する私」

 というところまでその領域を広げてしまいました。



 例えば、このブログを書く私は、みなさんからすると不特定の個人でしょう。

 また、私からしても、みなさんは本来通信の前提としてあるべき「生活的繋がり」の無い、不特定の個々であります。

 つまり、不特定の個人として、不特定の個々へ情報を提示しようと試みているのがブログというものの振るまいなのです。



 で、このような

「不特定の個として情報にアクセスし、不特定の個々と繋がりを持つ私」

 というのは、めちゃくちゃ「大衆人」の性質を保有するものなのです。



 というのもブログを書く私や、読むあなたは、今この瞬間は土地性、生活性、身体性から浮遊しているでしょう。

 このように浮遊したバラバラの自意識を「大衆人」というのであり、それが砂鉄のように大量に群れる現象を「大衆現象」と言うのであります。



 ですから、ブログというのも実はそういう邪悪さを持ったものなのです。

 だから私は去年、それなりに大事に思ってきたこのブログをもうやめてしまおうかとも思っていたのであります。

 ただ、IT社会化をどれだけ憎んでも、今日に至っては現代人としてIT社会化から逃れられないようです。

 それは、車社会から逃れられないのと同じごとく逃れられないのであり、いわば徴兵のようなものでしょう。

 そして、ブログというのはSNSに比するとまだマシだと思われるところもあったので、こうして再び書き出しているというわけです。



 ちなみに、「ブログのマシなところ」とは、いわばこれが自分の「城」であるという点です。

 ブログを書く私は、土地や生活から浮遊してはいるものの「群れる」必要はないでしょう。

 その点、まだマシである可能性を残しているんです。


 ◇◆◇◆◇


 対して、SNSは、いわば「とりわけ男女の出会いを想定しない出会い系」のようなものです。

 そもそも男女関係に関してならば、「出会い系」や「街コン」などの不特定多数の大衆市民的文脈は軽蔑されるものとして想定されるでしょう?

 当然、地元の繋がりや学校、職場といった生活上の文脈から発生した男女関係の方が正当で上等な関係に感じられるはず。

 でも一方で、みんな「社会的なネットワーク」をSNSの「出会い系的システム」で構築することの大衆市民性をおぞましく感じない様子なのは、まったく不思議なことです。



 本当にそこらへん、よくよく考えてみていただきたいのです。

 例えば、恋愛において考えれば、土地や生活や身体性の「あらかじめの前提(運命)」から延びた文脈がなければ、実のところなんらの官能性すら生じないことは明白でしょう。

 それと同様、「社会的なネットワーク」というものも、土地や生活や身体性の「あらかじめの前提(運命)」から延びた文脈がなければなんらの活力も生じないに決まっているのです。

 運命から浮遊した個々の過剰な馴れ合いは、「馴れ合いそのもの」が目的化する他なく、偽善や欺瞞、あるいは偽悪やニヒリズムに堕落してゆくのは火を見るより明らかでしょう。

 それは、出会い系や街コンで知り合ったカップルほどわざとらしく「好き」を強調しなければならなくなるのとほとんど同じことなのです。



(つづく)

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再び日本海へ北朝鮮のミサイル~「国際社会視点」という欺瞞 

 昨日5月21日の4時59分ごろに、北朝鮮から弾道ミサイルが発射され、日本海に落ちたそうです。

 今回は日本の排他的経済水域の外であったとは推定されている模様。

 北朝鮮国営の朝鮮中央通信は今日22日、地対地中距離弾道ミサイル「北極星2型」の発射実験に成功したと報じました。

 これに対して日本では、安倍首相が「国際社会の平和的解決に向けた努力を踏みにじるものであり、世界に対する挑戦です」と強く非難した……と報じられています。


参考:
『弾道ミサイル「実戦配備承認」=「北極星2型」量産指示―発射成功と報道・北朝鮮』
時事通信 5/22(月) 6:57配信


参考:
『北朝鮮ミサイル 安倍首相「世界に対する挑戦」』
フジテレビ系(FNN) 5/22(月) 0:41配信



 ここで気になるのは、首相に限らず日本人全体が、北朝鮮の問題を「アメリカを中心とする国際社会」VS「北朝鮮」という視点で見過ぎだということです。

 でも、拉致の問題がある中、「アメリカを中心とする国際社会」の視点で北朝鮮問題を見過ぎるのは、「いま日本にいる日本国籍を持ったホモサピエンンス」が「拉致被害者」を「見捨てている」ということを意味する可能性は非常に高いでしょう。



 本当ならば日本は、日本の視点での「日本」VS「北朝鮮」の(敵対)関係を作らなければならない。

 隣国であるし、拉致被害者を取り戻さなければならないからです。

 この事情は、アメリカも国際社会も共有してはくれません。

 しかし、(果敢にも)世界に挑戦している北朝鮮目線で言っても、もはや日本は「アメリカのポチとして経済制裁に加わっているコバンザメ」に過ぎなくなってしまっている。

 これでは拉致被害者の「ら」の字も出なくなるのは当然の仕儀でしょう。



 でも、こうしたいわば「裏切り」の状況は「いま日本にいる日本国籍を持ったホモサピエンスたち」が「自分の安全と生存」を「保持」するためには、最も合理的でもあるのです。



 つまり、安倍首相が代弁しているのは、

「国際協調を言ってアメリカの後ろに隠れ、拉致被害者を見捨てておくのが自分の生命と財産を安全たらしめるのに最も合理的である」

 という狡猾な計算をうまくゴマカシて「それほど悪いことでもない感」を醸しておきたい……という大衆の都合なのです。


(了)

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国家戦略特区のガキ性 

 国家戦略特区のガキ性は、

 特定の区域で「政府が統治権力を手放す」

 ことによって、「グローバルな競争力をつける」

 という思想構造にあります。



 これは単に、

「労働者をコキ使えるように、労働者を保護する法律を緩和する区域としての問題」

 ということに留まらない。



 むしろ、平成で言われてきた「経済思想」を、集約して純粋化したものが国家戦略特区というものだというふうに見ておくのが適切なのです。



 そのストーリーは、「規制緩和」で日本の構造を改革して、経済におけるグローバルな競争に勝つ……というもの。

 そして、これは人生で一度も「規制緩和」「構造改革」「グローバリズム」などという言葉を使わなかったり、大して意味を把握していない者でも、

 社会人としての「処世」

 で、そのストーリーを前提して時事諸々を語ってきたのであります。

 その上、大衆はそのような前提で集約された「改革」が民主的に断行されてゆかないことに不満を述べ立てたりさえした。


ゴリラ



 平成大衆市民は、自分が恩恵に授かっている既得権益以外の既得権益を「ズルい!」と述べ立ててきました。

 で、「政治権力が既得権を構成し、経済合理性を阻害している」という経済ジャーナリズム的な物語を好む。



 また、国内の既得権益の打破の理論は、常にグローバリズムを引き連れてきた。

 この辺りは、「日米構造協議」や「年次改革要望書」など以来の関係性であるから、

「冷戦構造が弱まった中でも、徴兵される確率を1%でも下げておきたいからアメリカに軍事依存しておきたいので、市場開放で屈服しておこうとする力学を、グローバリズムの想定でゴマかしておく」

 ために、規制緩和の方向性に合理性を付与してきたのかもしれない。


 なので、

1 「規制緩和構造改革で既得権益を壊したい」→「グローバリズム」

2 「グローバリズムで徴兵される確率を1%でも下げておきたい」→「規制緩和、構造改革へ合理性を言う」

 という二つの大衆力学が、この方向性を押し進めていった。

 少なくとも、私には平成という時代はそのように見えた。



 そして、この平成の時代を用意したのは、丸山正男的な「日本的な組織を脱して、近代民主主義の合理性を極めるべき」という民主主義的なインテリ思想でもあった。

 政治における民主主義の徹底は、経済における民主主義の徹底とほぼ構造としては同じなのです。


 ・


 しかし、よくよく考えてみれば、真の日本の庶民の生活は「政治的な既得権益」の中にあったのです。

 各地方共同体や産業の構造に「政治的既得権益」として残された「封建的前提」が、政治の基盤になり、市場経済の土台にもなっていた。

 そこから切り離された「バラバラな大衆」は、原理的に言うと「どうなってもいい者」でしょう。

 だって、国民が国民であるのは、国民的な慣習を土地や共同体、組織などに埋め込まれて存在しているからであって、そこから切り離されて「バラバラの大衆」と堕したならば、「単に日本国籍を持った人間」ということになるから、そんな連中が別に死のうが生きようがどうでもイイじゃないですか。


 ・


 第一、既得権を打破してそこから個人として自由になりたい……だんて思想を好むのは、10代後半から20前後のガキの仕方というものです。

 10代後半から20前後のガキは、自分を縛る前提がいかに不合理であり不条理であるかという屁理屈を述べ立て、そこから自由になりたいということばかりを請求するものでしょう。

 子供なら仕方ありませんが、それを大人になっても続けているのが「平成の大人」なのです。



(了)

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加計学園問題でこそ安倍叩きをやるべき! 

 私は、森友学園問題での安倍首相叩きの方は、その騒ぎ方に「卑劣」なものがあったと思っています。

 それは別に安倍首相や森友学園を擁護したくて言うのではなくって、疑惑の筋そのもののショボさに反比例してあれだけ騒ぐということは「コスプレ的な戦前を踏み絵にして、政府を制限し、国家に縛られないようにしておこう」という大衆の都合の力学がその背景にあったようにしか見えないからです。

 それは本当に、(汚い言い方ですみませんが)ウンコみたいな精神集合体なのですよ。



 しかし、一方。

 第二の森友学園問題とも言われる

「加計学園問題」

 は、騒ぐべきです!

 これで安倍首相を叩くべきです!

 積極的に「炎上」すべきです!



 そもそも、森友騒ぎで安倍内閣が潰れても潰れなくても何一つ意味なんてなかった。

 が、仮に加計学園問題で安倍内閣が潰れれば、これは日本国家にとって大きな意味を持つでしょう。

 また、もしこれで安倍内閣が潰れはしなかったとしても、加計学園問題が騒がれる「度合い」は森友学園騒ぎを凌駕しなければならないはずなのです。


月光工場


 もっとも、現時点ではこの加計学園問題とて、確かに疑獄の筋としてはショボいし、朝日新聞の「文科省内部文書」とやらが本当かどうかは知れない。

 でも、たとえ内部文書がどうであっても疑獄の筋は残るのです。

 また、証拠というのは本当とエセが混ざるものでもあるはずで、仮に一つがエセだからと言って、その次が本当でないという話にはなりませんでしょう。

 それに、日本国民は森友学園であれだけ大騒ぎしたのであるから、当然、これくらいの無理筋でも同等に騒いでもらわなければ困る。



 森友学園は、無理筋な疑獄を騒ぐことで「戦前コスプレ右翼」を「踏み絵」にして「政府を制限」して「徴兵される確率を1%でもさげておこうとする」みたいな「無自覚的な大衆の都合」の力学が確かにあった。

 ならば、加計学園の無理筋な疑獄でも、「国家戦略特区」を「踏み絵」にして「規制緩和、構造改革、自由貿易主義的なものを反省しておこう」という力学にすることは理論上『可能』なはずです。


 ・


 ただ、もちろんこれは「理論上には可能」ということであって、おそらく「加計学園問題」は「森友学園問題」に比して100分の1くらいにしか燃え上がらないでしょう。

 何故なら大衆にとって、

X「戦前コスプレ右翼を踏み絵にして政府が個人(自分)を制限しないように牽制する」

 ことの方が、

Y「国家戦略特区を踏み絵にして規制緩和、構造改革、自由貿易主義的なものを反省する」

 ことよりも100倍気になることだからです。


 すなわち、この砂鉄のようにバラバラな大衆の個々の無自覚な都合上、

X:Y
 =
100:1
 =
「森友学園問題の燃度」:「加計学園の燃度」

 というくらいなもんでしょう。

 本当に、どーせその程度なんです。



 私は本当に、こうした大衆クソ力学をどうしたら駆逐できるか……という類いのことばかりを考えているのです。

 もし仮に万が一、加計学園問題が森友学園問題騒ぎ以上の炎上の体を見せたら、そういう意味でも大きなことだと思います。


(了)

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