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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

     
  

経産省若手官僚120万DLレポートに見える古くさい平成大衆根性 


 私は昭和59年生まれだから、物心つけば平成で、その後ほとんど平成を生きてきたわけだけれども、

「平成の大衆人」

 というものがこの世で一番大嫌いです。


 ……と言ってもなかなか抽象的でわかりずらいと思うのですが、この度、かっこうの

「古くさい平成大衆サンプル」

 を見つけました。


 それは、経済産業省の若手官僚が

『不安な個人、立ちすくむ国家 ~モデル無き時代をどう前向きに... 』

 と題して発表しているレポートです。


 何やらこのクソレポートがマスコミ、ネット界隈で話題のようなのですが……


橋1



 私、こういうレポートがあるということを今日拝見したばかりで、一読して今まさに

「ゲロ」

 を吐きそうになったばかりのところです。

 誰がこの低劣な心持ちをわかってくれるでしょうか?(反語)

 こうした「知識人の大衆性」に対するムカつき、苛立ちこそ、私がブログなんて書いている根元の理由でもあります。


 ◆


 ざっくり言ってこのレポートは、第一に

A「社会が液状化して、個人がバラバラになって不安が増幅している」

 ということを言う。

 それはそうだからよいとして、だったらどうすべきか……と言えば、

B「バラバラな個人にもっと選択肢を与えなければならない」

 と言うワケ。



 でも、社会が液状化して個人がバラバラになってしまったのだったら、「社会や共同体を再形成して、国家としてまとまっていかなければならない……」と考えるのが、本来の

「統治者目線」

 というものでしょう。

 それが、

「昭和とは違って社会が液状化して『昭和すごろくのコンプリート率が下がっている』から、バラバラの個人のあーしたい、こーしたいをより実現できる社会にしなければならない」

 ということを言っているに過ぎないのは、あえて「テンプレ若者」を演じているようにしか見えぬほど安っぽく、生臭い。

 到底20代、30代の大人の見解とは思えぬガキっぷり。

 だって実際、液状化した社会で、より個人をバラバラにすれば、さらに社会は液状化し、日本国家が溶けて流れていっちまうだけでしょう。


 ◆


 さて、この論筋を下支えしている前提は、

「少子高齢化で人口減少しているから、社会が液状化している」

 という使い古された筋です。


 で、

「世界では少子高齢化に対応して多用な選択肢がしつらえられている一方、日本は年寄りが人口の増えていた旧来的な昭和システムにしがみつき、若者の選択幅が狭められている」

 みたいな話にしたてられているワケ。



 しかし、まずこの、
「少子高齢化だから、社会が液状化するのは必然 」
 みたいな「前提」は根拠薄弱で、薄弱な根拠をとっとと「前提」とすることでゴマカしているところは卑怯というものです。

 もっともこの卑怯はきっと無自覚で、「なんでもかんでも少子高齢化と人口減少のせいにしてりゃ話がまとまる」的な大衆力学が背景にあるからこそ許される前提だから、まさに「平成の優等生的」とコキ下ろしておく他ないでしょう。



 さらに、それでは、かように社会の液状化に対して「個人、個人、個人、個人」とやって、

「狭くなる地球の中で日本国家を千年続かせること」

 は可能なのでしょうか?

 そういう問題意識は「皆無」なのです。

 むしろ、その先に想定されているのは「国家から自由になる個人」であり、「国家はいつかなくなるもので、それで何が問題だ?個人の選択肢のための国家だろ」というような未来観が前提されている。

 公に仕える僕……すなわち、天皇に仕える政府官僚のあり方としては、甚だ軽薄でカッコ悪い「あり方」と評す他ありません。


 ◆


 もし、「少子高齢化」が「社会を液状化」させていて対応が必要なのだとすれば、それは

「そういう世代構造でも共同して国家をやっていける共同体構造を再建すること」

 であり、

「こうした共同体構造を再建するための、大きく、層の厚い政府構造をしつらえること」

 のはずです。



 だのに、彼らの政府観ときたら、

『個人の人生の選択肢を支える』

 ものとしてのみ前提されているのです。

 ハナクソの方がまだ重みがあるというものでしょ。



 また、彼らは、
『共通目標を政府が示す』
 ことも言うには言うが、それも結局、
個人の『多様な人生』
 を最終価値として、
「個人の多様な人生の幸福を実現するサービス機関」
 として、政府の大義を設定しているのです。



 これは暗に、「国家を続かせる」という政府の最大目的を「放棄」していることでもあります。

 彼ら「政府をやっている人」なのに!


 ◆


 ただ、誤解して欲しくないのですが、私は経済産業省(旧・通産省)という組織そのものは、国家にとって非常に大事な官僚組織のひとつであると考えています。


 むしろ、現今こんな稚拙なレポートをやるような若手が30人もばっこするほど官僚組織が(大衆にイジメられて)疲弊しているなら、それこそ「日本ヤバイ」なので、こんなクソレポートに従うよりも、

「官僚の給与と採用を2倍にして、もう少しまともな人材を集める」

 という私の提言に従った方が、絶対に国家のためになると思いますよ?


(了)

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Category: 経産省「次官・若手プロジェクト」批判

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Janre: 政治・経済

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「橋下徹入閣説」や「9条2項据え置き改憲」に見える大衆的改憲論 


 私は、「日本国憲法」というものは、
 
「日本という天下観を時間制限つきにすることと引き換えに、一時一時のニホン人が(属)国民主権のウマ味を当たり前のものとしてしゃぶりつつも、イイ人であるフリをしておくための章典」
 
 と見ています。

 
 つまり、日本国憲法とはクソッタレ憲法なのです。
 
 
 ただ、しかし、だからと言って、
 
「憲法が改正されればなんでも良い」
 
 というわけにはいかないに決まっています。


20170612142005336.jpg


 とりあえず、前提の確認から。

 日本国憲法をどーにかするには理論上、以下の二つの道筋があります。


X 憲法を「超法規的」に廃止する

Y 憲法96条の「改正条項」に従い法的に改正する


 まず私は、Xの「超法規的」な議論がもっと必要だと思うし、それには「暴力による解決」の可能性も、真剣に考えられられていなければならないと思います。

 そもそも、「日本国憲法」が暴力によってしつらえられたものならば、原理的にはその廃棄もまた暴力によってしか成されようもない……ということは、三島由紀夫のクーデター未遂を持ち出すまでもなく、いわば「人類普遍の原則」であり、個人の良心、ヒューマニズムに問えば、ある種常識的なことであります。



 ただ、暴力は痛いし、人を殺すのは怖いので、今生きている我々はイモを引いてヤれていないというだけのことでしょう。

 また、実際に暴力行動を起こしてもいない者がいくら「憲法を廃棄するための暴力」を訴えても、キャンキャン吠えてるだけという話になってしまう……という難しい問題もある。



 ですから、「政治」が法の論理の延長線上で働き、「政治家」の存在が日本国憲法に依拠するものである以上、やむをえず

Y「96条の改正条項」

 に従った改正の議論も経路のひとつとして考えなければならない……というところまでは認めざるをえないでしょう。

 そりゃあ一瞬一瞬の短期的な現実を継続して執り行うための「政治」や「政治家」の「現実」も、とても重要なものだからです。



 しかし、それでも「96条の改正条項」による改正というものは、理論上「日本国憲法の論理の中での憲法改正」に閉じ籠ったものである以上、それ相応の危険性……すなわち、

「日本国憲法を、より日本国憲法にする危険性」

「(属)国民主権の都合を事後承認してしまう危険性」

 を孕むものであることがわかられていなければなりません。



 そういう意味では「96条改正条項」での憲法改正の議論でもやはり、

「本筋であれば、日本国憲法は暴力によって廃棄されるべきである、けれどもそういうわけにもいかないから……」

 という前提を「常識」として共有した上で議論されて然るべきなのです。


 ◆


 さて、そこまで確認した上で、改正条項を見てみましょう。

 皆さんご存じのように、改正条項で謳っている改正の要件は、

・衆議院と参議院の両方で3分の2以上の賛成が必要

・国民投票で過半数の賛成が必要

 ということになっています。



 ここで、まずよくよく考えていただきたいのは、前提がこのような場合、思考経路としてはまた二つの道筋が生じてくるということ。


 すなわち、


a 「~という改正が必要」
   ↓
 だから、
「衆参3分の2」と「国民投票の過半数」を得なければならない」


b 憲法改正には 「衆参3分の2」と「国民投票の過半数」を得なければならない」
   ↓
 だから、
「~という改正にしなければならない」


 という二つの経路。



 で、もし憲法改正議論が「b」の道筋に堕せば、必ず「大衆迎合」が起こることは火を見るより明らかでしょう?

 だって、

「憲法を改正することそのもの」

 が目的化すれば、

「衆参3分の2と、国民投票の過半数を得ること」

 が、目的化することと同義じゃないですか。


 ◆


 そもそも、言うまでもなく「政府の目的」とは、

「狭くなる地球の中で、日本国家を千年先まで継続させようとすること」

 でなくてはなりません。
(※実際には200年先までも続かないとは思いますけれど、「続かせようとすること」にのみ政府の最終的な大義があるということ)

 ですから、憲法をどーにかしようとするその内容もこの大目的に資するものでなくてはならないはず。

 が、

「衆参3分の2と、国民投票の過半数を得るため」

 が目的化してしまうと、むしろ本来の目的を棄損してしまう可能性が非常に高くなる。

 と言うのも、
1「衆参の3分の2を無理矢理まとめようとする力学」
 や
2「国民投票で過半数を動員する大衆迎合の力学」
 が、国家の大義からの乖離として働く危険性が容易に推察できるからです。

(言い換えれば、96条による憲法改正という「強い民主主義」が「国家を棄損する」ということ。)


 ◆


 もちろん、「bの現実」を踏まえての「aの理想」でなければ、

「じゃあ暴力でやれば?」

 という人類的原則論へ戻ってしまいます。
(結論としてそれならそれでも良いですけれど)



 ですから問題は、
「衆参3分の2と、国民投票の過半数を得るため」
 という「目的化」に、どれほどの行きすぎがあるか……つまり、「理想」と「現実」の間で、どれほどの「偏り」が認められるかということになるでしょう。



 で、私から見ると、昨今のそれは明らかに「現実主義」とも言える傾きを強くした改憲論がばっこしているように見えます。

 しかも、それは単に中国や北朝鮮、テロの驚異から

「俺の生命と財産を守れ!政府!」

 と言うだけの「一人一人の日本人の短期的な都合に『迎合』する」という意味での「現実」であるがゆえに、「日本を千年先まで続けようとする」という「日本国民の義務」に反する改憲論である可能性が非常に高い。



 その証拠として提出できるのは、



 官邸の「日本維新の会」との連携に下心を見せ続けている政治的態度。


 安倍首相の言う、
「9条2項を据え置いた上で自衛隊を明記する」
 という属国体制を事後追認する改憲論の内容。

 ……が上げられます。



 Aは 、1「衆参の3分の2を無理矢理まとめようとする力学」 に対応し、

 Bは、 2「国民投票で過半数を動員する大衆迎合の力学」 に対応する。


 その結果、

 Aで「手続き的」に国家を棄損し、
 Bで「内容的」に国家を棄損する改憲論に成り下がっている

 ……と、評すのがだいたい正しい表現のような気がします。


(了)

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Category: 憲法:日本国憲法問題

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Janre: 政治・経済

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そもそも「骨太の方針」は民主主義的すぎる   

 
 今では毎年のように経済財政諮問会議が「骨太の方針」を出して、省庁(役所)を縛る方針を出していますけれど、これはみなさんご存じのように「小泉純一郎首相」の時代からのことです。
 
 だから、別に伝統的な制度でもなんでもない。
 
 
 で、そもそもこの
 
「経済財政諮問会議」
 と
「骨太の方針」
 
 って制度は、良いものなのでしょうか?
 
 
 私はあまり「民主主義的」なこの制度は
 
「不必要かつ有害」
 
 だと思っています。
 
 
 ガール1


 
 
「経済財政諮問会議」と「骨太の方針」が民主主義的すぎる……というのは、小泉政権のことを考えてみればよりわかりやすいです。
 
 
 そもそも経済財政諮問会議で「骨太の方針」を出し、各省庁へ強い影響を及ぼし始めたのは、小泉政権からのこと。
 
 
 これは
 
「聖域なき構造改革」
 
 というヤツの一環だった。
 
 
 どういう意味合いで言われていたかと言うと、
 
A「官僚組織」
 
 への
 
B「抵抗勢力(自民党)」
 
 の影響を排し、
 
C「(支持率の高い首相が率いる)内閣」
 
 が方針を決め、これに従わせる……という話だった。
 
 
 
 そして、こうした話はいわゆる、
 
「既得権益の打破」
 
 として礼賛されてきたワケ。
 
 
 
 これは、例えば「郵政改革」と構造は同じなので、その方がわかりやすいでしょう。
 
 郵政改革とは、
 
1 「自民党の郵政族」と「郵政」が既得権益でケシカラン
 
2 「国民」は「首相の政策」を支持している
 
3 故に、国民の支持する政策によって、既得権益が打破される
 
 というガキのようなストーリーの上で成り立っていました。
 
(そー言えば、今ならみんな「郵政民営化騒ぎは低劣だった」と、口に出さないまでも心うちでは思っているでしょ?でも、同じようなことをそれ以後ずっと続けているのがニッポン人なので、この点において「ニホン死ね」というのはマジで思います。)


 
 で、「経済財政諮問会議」と「骨太の方針」というのもそうなのです。
 
 すなわち、
 
 
1 「旧来的な自民党の各勢力」が「省庁」と繋がると既得権益でケシカラン
 
2 「国民」は「首相」を支持している
 
3 故に、国民の支持する「官邸」によって「省庁」を縛る「太い骨」をめぐらし、「旧来的な自民党」を排除する。
 
 
 
 こういう話だったのですよ。
 
 
 
 その証拠に、2017年の骨太もどのような内容になっているかと言えば、
 
「世論で広く通りの良いものとされる議論」
 
 を全部突っ込んだという形になっている。
 
 
 
 つまり、
 
1 「民主主義」が「官邸」を支配する。
 
2 「官邸」が「自民党」を排除する。
 
3 「官邸」が「官僚」を縛る。
 
 このような形で、おおよそ
 
「直接民主主義」
 
 が、まかり通ってしまっているというのが昨今の出来事なのです。


(了)

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2017年骨太の方針、素案からの変節~閣議決定で急激な移民推進論調へ 


 先日、経済財政諮問会議を経て「素案」の出ていた「2017年骨太の方針」が今日「閣議決定」されました。

 しかし、素案から閣議決定へ至る間に「削除・変更」された箇所で、致命的な部分があります。

 それは、より「移民政策容認」の色彩を強めたというところです。


都市1


 まず、「2017年骨太の方針」の「素案」でも「閣議決定」でも「高度外国人材(?)」は積極的に受け入れる……と言っている点は同じです。

 これだって問題ですが、
 素案から閣議決定にかけて削除、変更されたのは、

「専門的・技術的分野とは評価されない分野の外国人材の受け入れ」

 について。

 つまり、

「単純労働力としての外国人」

 についてです。


 ◆


 で、「単純労働力としての外国人の受け入れ」について、「素案→閣議決定」でどう変わったか。


 まず、素案には、以下のような文言がありました。



【内閣府、2017年骨太素案、第2章(1)働き方改革
⑤ 外国人材の受入れ】


> 専門的・技術的分野とは評価されない分野の外国人材の受入れについては、ニーズの把握や経済的効果の検証だけでなく、日本人の雇用への影響、産業構造への影響、教育、社会保障等の社会的コスト、治安など幅広い観点から、国民的コンセンサスを踏まえつつ検討すべき課題である。

> 経済・社会基盤の持続可能性を確保していくため、真に必要な分野に着目しつつ、外国人材受入れの在り方について、総合的かつ具体的な検討を進める。このため、移民政策と誤解されないような仕組みや国民的なコンセンサス形成の在り方などを含めた必要な事項の調査・検討を政府横断的に進めていく。



 ……つまり、素案の段階では、「専門的・技術分野での外国人受け入れ」は従来通り前向きであったものの、少なくとも「単純労働力としての外国人受け入れ」には、

1「国内経済構造への影響を踏まえる」
 や
2「移民政策と受け取られないようにする」

 ということが言われていたわけです。



 しかし、閣議決定では、これらが

「削除」

 され、代わりに以下の文言だけが加わりました。



【内閣府、2017年骨太素案、第2章(1)働き方改革
⑤ 外国人材の受入れ】

> さらに、経済・社会基盤の持続可能性を確保していくため、真に必要な分野に着目し
つつ、外国人材受入れの在り方について、総合的かつ具体的に真摯に検討を進める。


 ◆


 ……まとめると、素案で言われていた、

1「国内経済構造への影響を踏まえる」
 や
2「移民政策と受け取られないようにする」

 は、削除され、

「外国人材受け入れの在り方について、総合的かつ具体的に真摯に検討を進める」

 ということになってしまったというわけ。

 いつのまにか!



 今日は解釈抜きに、骨太の方針がそーゆー態度に出始めたという「事実」だけを強調するに留めます。


(了)

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Category: 経済:反グローバリズム

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加計学園問題、国家戦略特区こそ悪い 


 世の中の人たちはいろいろ信じられないことを言うけれど、

「とにかく官僚組織から権限を取り上げろ!」

 みたいなストーリーは、少なくとも私にとって中学生くらいの時から信用ならないものでした。


20170609160040603.jpg


 私の中学生くらいと言えば、時代は「行政改革」が流行っていた90年代後半だったでしょうか。

 確かに思い起こしてみれば、当時の大人たちは中学生がヒクぐらい、

「公務員や官僚組織へのヘイト」

 を燃やしまくっていました。

 潰れるはずのない銀行が潰れ、リストラが横行して……という時代で、

「民間が苦しんでいるのに、公務員は涼しい顔しやがって」

 みたいなこと、ばっっっっっかり言っていました。

 私はその「醜さ」を決して忘れないようにしようと思ったし、このツケはきっと自分が大人になった時に払わされるに違いないとも思ったものです。

 ただ、中学生の時は、自分が大人になってもツケを積み続ける時代が続くなどとは思ってはいなかったですけれど、それはまだガキだったから世界に楽観的だったのでしょうね。

 こうして、2000年代に入るともっと狡猾に、

「公務員は不合理である。何故なら市場原理が働かないから」

 という、さらなる市場原理至上主義のおぞましき時代へ突入していったのでした。


 ◆


 その後も、平成の処世では一貫して、

「とにかく官僚組織から権限を取り上げよう」

 という「ストーリー」が重大な「ベタ」として機能してきました。

(それは、驚くべきことに政府官僚自身もこのストーリーで官僚権限を手放してきたらしいのですけれども!)



 このベタなストーリーは、「政府規制の緩和論」が一般論として礼賛されてきた背景でもあります。

 これは極めて子供っぽい力学で、例えて言うなら、

X「仮面ライダーの暴力」
 が
Y「悪の組織」

 に対して振るわれているから、チビッ子から喝采を受けるのと同じく、

X「規制の緩和」
 が
Y「官僚や既得権益」

 の判断権限を剥奪するものだから、大人たちは溜飲を下げる……という構造があるワケ。



 こう言うと、「世の中の大人はそんな単純じゃない、バカにするない」と、おっしゃるかもわからないが、単純なものは単純なのだから仕方ありません。

 そりゃあフツーの大人だって個々人が限られた範囲内で熟考する場合にはそれなりに大人な態度も発揮しようものですが、「大衆」という大量の力学となった場合はそれくらい単純なのです。

 で、その大量の社会力学であるところの「大衆」の「ガキ理論」を専門的見地から援護するのが、

「知識人」

 というものです。

 ですから、「大衆」がいかに単細胞でガキめいているかを知るには、知識人、専門家を見れば証拠立てられる。



 たとえば、昨今は「加計学園問題」というのが流行っておりますけれど、これに対しこんなことをのたまうヤカラがある。


 すなわち、

「加計学園問題は精査すればよいが、国家戦略特区そのものは悪くない」

 ……と。


 どーゆー理屈かというと、

1 「国家戦略特区は規制緩和策である」

2 「規制緩和は官僚から判断権限を剥奪するものである」

3 「だから、国家戦略特区そのものは悪くないんである」

 と、こういうわけです。


 例えば、


・『加計学園問題の本質は何か 〜このままでは政府の勝ちで終わるだろう
既得権維持派が何を言っても…』
(髙橋 洋一)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51813

・ 『加計学園問題、国家戦略特区が悪いのではない』
(駒崎弘樹)
https://news.yahoo.co.jp/byline/komazakihiroki/20170606-00071771/


 など。


 でも、上記の三段論法が成り立つには、

「官僚組織から判断権限を剥奪すること」が「一般的に正しい」

 という前提でなければ成り立たないでしょう。

 冷静に考えればそんな前提が全体として成り立つだなんてあり得ないわけで、少なくとも「政府規制の強化すべきところ」と「政府規制を緩和すべきところ」の両方があるにきまっている。

 また、その「判断」を一体だれがするのかということも簡単な話ではないに決まっています。

 官僚の判断より、市場や専門家や民主主義が正しいなんて、誰が決めたんですか。

 専門家や民主主義(官邸)がそう言っているのだとすれば、そりゃあ「自分が正しい」と言っているに過ぎません。



 それでもその前提が通用するのは、知識人が人々の「大衆的」な精神に媚び、魅惑しうるストーリーを前提してから、論理を組み立てるからです。

 つまり、「官僚組織から判断権限を剥奪しろ!」という大衆ストーリー。



 この場合、彼ら「専門家」は、複雑で膨大な国家を、その限られているはずの個人の視野(スペクト)で裁断し、

a「官僚が不合理な規制を敷いている」
b「既得権益があるからだ」

 というストーリーを二、三仕立て、さも一般論として適用できるかのごとく

「ほら、やっぱり政府官僚による規制は緩和しなきゃならんでしょ(=官僚から判断権限を剥奪しなきゃならんでしょ)」

 と言い、

「政府官僚による規制一般」を「敵視」する古カビの生えた「平成のベタなストーリー」を反芻させた上で、その前提で、

「国家戦略特区は悪くない、何故なら規制緩和だから」

 とやるワケです。


 それで、みんな「そうだ、そうだ」とやるわけでしょ。

 これが国家を蝕む「大衆」というものです。


(了)

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