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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

     
  

東京都議選(2017)と大衆力学に与する公明党 

 
 7月2日開票の東京都議選が、先の6月23日に告示されました。
 
 定数は127(過半数64)で、259人の立候補があるようです。
 
 
 注目されているのは、「自民党(現有議席57)」と「都民ファーストの会(現有議席6)」の攻防です。
 
 その中でまず目立つのは、公明党(現有議席22)の問題だと思います。
 


  
 《覆面シンガー三沢カヅチカ、衝撃デビュー!作詞:適菜収》



 と言うのも、公明党は今回、自民党を裏切って都民ファーストの会と相互推薦をしております。
 
 つまり、都民ファーストが注目を集めているから、今は都民ファーストと協力しておいた方が生き残れると判断したからでしょう。
 
 ちなみにこれに類似した昨今の例をあげると、公明党は大阪でも維新の会へすり寄って、住民投票で否決されたはずの大阪都構想の再度の法定協議会設置に与しています。
 
 だのに、いけしゃあしゃあと国政では自民党に追従している。
 
 すなわち、公明党は「各地、各場面でその時々の強いものに媚びへつらっている」だけなのです。
 
 
 ・
 
 
 とは言え、私は別に公明党そのものを別段非難したいのではありません。
 
 こうしたことが問題なのは、公明党の阿諛追従が、常にその場その場で人気の出た改革騒ぎを後押しする力学となるということです。
 
 というのも、既存の権力構造から権限をはく奪する「平成的な改革」における「敵」は、時の流行りによって「あの既得権益を滅ぼせ!」「この既得権益を滅ぼせ!」とて移り変わってきましたが、その流行の中心では「既得権益を打破する改革者」への「人気」として発露されているケースが散見されてきました。
 
 だから、「流行を捉えた改革」を言えば、人気者になり、浮動票を中心にそれなりの票を得ることができる……というのが、国政では小選挙区制度導入以降顕著になった大衆力学であり、都市部の地方選挙ではより過激にその傾向が見て取れたのであります。
 
 大阪における維新の会などはまさにそれでしょう。
 
 
 
 さて、この都議会選挙も、小池新党たる「都民ファーストの会」と「公明党」の併せた議席が過半数を超えて、
 
「都議会改革」
 や
「都庁の役人組織の改革」
 
 をやれるかどうか……が大きな焦点になっています。
 
 
 すなわちこれは、「自民党の旧来的な都議会構造や役人から権限をはく奪する」というような使い古された……また、これまで平成の間、何度も失敗してきたストーリーを、東京の高度に大衆化された市民たちが性懲りもなく欲しているということです。
 
 一方、小池知事は豊洲新市場に関するちゃぶ台返しの失態を他党から厳しく追及されておりますけれど、そして、おそらく都民は豊洲の件については「マズい話だった」と心の奥では思っているのでしょうけれど……いや、そう思っているからこそ、
 
1「豊洲の件は置いておいて」
 
2「より大きな話の都議会改革や役人改革について考えよう」
 
 というような精神的逃げ道に流れ込む可能性が非常に高いのではないでしょうか。
 
 
 こうした浮動票的な大衆力学に対して、「安っぽい改革ストーリーからは距離を保っておこう」とする常識的な固定票層が、どれだけ旧体制を保守できるか……という攻防でもあるはずなのですが、そこで公明党の力学が、改革大衆、浮動票側へゲタを履かせてしまうという話になっている。
 
 公明党だけが悪いのではないですけれど。
 
 
 
 ただ、特に国会議員の応援演説では(国会議員は自分には直接関係するものではないから)、当の自民党すらこれに引きつられる形で「改革」を述べ立ていたりするのだから、「選挙」というのはいつでもどこでもおおよそ悪いことしか起こらないものだなあ……とつくづく思います。
 
 
(了)


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Janre: 政治・経済

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人手不足騒ぎのチャンスと罠 


 昨今、人手不足ということがいわれております。

 すなわち、団塊の世代が引退し始めておおよそ十年。

 一方、少子化が進んでいるので、新卒数は減ってきている。

 ということは全体を見ると、

「引退する数」>「新入社員」

 となって「現役世代」の絶対数が減ってゆく……というものです。


レゴ






 このことはずっと言われていたのだけれど、昨今の有効求人倍率の上昇を受けてか、

「人手不足騒ぎ」

 とも言える騒がれ方をしているのが非常に気になります。

 それは、どちらかと言えばネガティブに、

「現役世代~人で、引退世代~人の暮らしを負担しなければならない」

 などと言われてきた、その筋を再燃させるという形で。


 ◆


 しかし、私はこの「人手不足」は現今の(経済問題、大衆社会問題、政治問題を含んだ)長期デフレ状況においては、

「チャンス」

 の要因と見ます。

 何故なら、「人手不足」はデフレギャップ(潜在供給力の過剰)を是正する要因になるはずだからです。



 第一に、労働市場が売り手市場になれば、当然、全体としては給与が(名目値で)上昇するわけで、所得に裏打ちされた需要が増える要因になる。
(また、人口の減り自体は少ないので、ありがたいことに老人たちは資産と年金で需要だけはしてくれるのです)



 第二に、人手不足で供給サイドが不足し、総需要がこれを上回る状況になれば、

「(1人が1時間あたりに取り扱える仕事量を改良していかなけれなならないという意味での)生産性」

 が、これまた需要(投資)される要因になる。
(※この投資需要増には、政府規制の強化が必須)



 これらの力学が循環し、「一定期間(例えば1年間)における全体の取引回転量」(GDP)を高めることができれば経済成長できるので、国家全体としてはそれで良いでしょ。


 つまり、この「国家の経済全体のフロー(流れ)」という観点でいけば、

「求人」>「求職」
 と、
「潜在供給」<「総需要」

 は、むしろ「国力増進に資す、適切な状態」と言えるのであります。


 ◆


 余談ですが、団塊の老人たちは、「いつまでも現場に残って年甲斐もなく口を出す」のではなくて、「引退して金を使う(需要する)」ことこそ、若者のためになり、国家のためになる……ということでもあります。

 すると、社会保障は、「ベーシックインカムや若者向けの社会保障」などではなく、むしろまず「引退世代の老人の暮らしをより保全すること」こそが、「若者に良質な労働環境と土地や国家に埋め込まれ得る席を用意する」ことにも繋がるはずでしょう。

 そして、これは一重に、「国力の増進」のためにはそうあらねばならないということなのです。


 ◆


 しかし、これは一つ扱いを間違えば罠になります。


 すなわち国家全体のフロー(流れ)を見ず、これを

「消費者効用目線=供給力の観点」

 で「のみ」捉える形で対処しようとすれば、

「外国人労働者受け入れ」
「規制緩和」
「ベーシックインカム」
「むやみな女性の活用」
「むやみな老人の再雇用」

 など、昨今まことしやかに再燃している安っぽい議論に足元をすくわれることになる。

 そうなれば、せっかくのチャンスをふいにし、文化は破壊され、日本の国力もこのまま地に堕ちることとなるでしょう。

(で、たぶんそうなるんでしょうけれど。)


(了)

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Janre: 政治・経済

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AIと技術的失業の、ナショナル旧産業への帰結 


 技術が進歩して、技術が人間の仕事を代替するようになって失業が産まれる……という力学を、ケインズは「技術的失業」と呼んだそうです。
 
 たとえば、今まで10人でせんべいを作っていた工場に、全部オートマチックにせんべいを作る機械が開発されたとする。
 
 すると、せんべいを作る上で必要とされる仕事はボタンを一つ押すだけの1人分の仕事だけになり、残りの9人は仕事がなくなりますでしょう。
 
 これを社会全体の話として考えると、要は、技術の進歩に伴う市場における分配の不整合の話ということになります。
 
 
 
 母子

 
 
 ただ、技術的失業は、「残りの9人が新たな職へ就けるようになれば良い」という話に、全体としてはなります。
 
 また、技術は旧来の仕事を減らすかもしれないが、新たな仕事を生み出す……というイメージも共有されていました。
 
 これは実際にそうなって、たとえば、機械が導入されて工場労働者(第二次産業)の必要数が全体として減ったとしても、事務、営業、デスクワークやサービス業(第三次産業)の必要数が増えれば仕事、席は創出されることになる。
 
 ですから、みんな学校では、「経済が進むと、第一次産業→第二次産業→第三次産業……と重点が変わってくる」と習いましたでしょう。
 
 
 
 しかし、今度はコンピューターができて、スマートフォンができて情報社会になると、第三次産業の仕事もコンピューターに奪われることになる。
 
 すなわち、工場労働者が機械に仕事を奪われたのと同じごとく、デスクワークやサービス業がITに仕事を奪われるという話になった。
 
 たとえば、税理士、会計士などは、コンピュータの高度な会計ソフトがこれを代替してしまって厳しい状況が続いている……というのは、もし自分で個人事業などやられていたらすぐわかることでしょう。
 
 だって、個人事業レベルならば帳簿も確定申告も、少しパソコンで伝票を打てば素人にでも簡単に出すことができるご時世ですから。
 
 あるいは、下級役人や会社組織でも数々の人間がやっていた諸事務は、コンピュータのおかげ(せい?)で、以前よりはるかにわずかな人員でこれをこなすことができているのであろうことも容易に想像できることです。
 
 つまり、社会全体で言うと、コンピュータがサラリーマンから仕事を奪ってゆくというのが21世紀の紛れもないイチ力学としてあった。
 
 
 
 では、このサラリーマンの席が減った分、あらたに創出される仕事というのはなんだ……というと、おおよそ
 
「人には、まだそのITを創る側の仕事があるじゃないか」
 
 という話になった。
 
 まして、インターネットだからグローバルで、クリエイティブな感じがしてカッコいいので、期待感は膨れ上がります。
 
 ……そうやって、膨らんでいったのが2000年代のITバブルだった。
 
 時価総額が何百億とか言って、これを背景にベンチャー企業が膨大な資金調達を行って、結局野球チームやテレビ局を買って失敗する、みたいな騒ぎは記憶に新しいはずです。
 
 この00年代の時点で、そもそもIT産業、IT事業に、全体としてはそこまでの席、仕事なんてない……ということがバレていたワケですが、昨今まるでこのことがなかったかのようにITイノベーティヴに浮かれているのは、まったくなんという記憶力の欠如かと驚かれることです。
 
 
 
 しかも、さらに言えば、昨今はAI(人工知能)というのがもてはやされだしました。
 
 これは肯定的にせよ、否定的にせよ、
 
「人の仕事をこれまで以上に劇的に減らす」
 
 ということで、見解は一致しています。
 
 
 
 これを否定的に見る見方は、「とうとう人間のやる仕事がなくなって、みんなが失業者になる」という暗い見方です。
 
 肯定的に見る見方は、単に「とうとう人間のやる仕事がなくなって、みんな遊んで暮らせるようになる」という楽観的な見方です。
 
 後者は、例えば

「人間の仕事がなくなれば、ベーシックインカム(最低所得保障)などの社会保障で分配すればよい」

 というような中学生じみた発想が知識階級にすら(知識階級だからこそ?)まかり通るようになった背景でもある。

(※嘘みたいな話ですが、「AIで失業が増えるからベーシックインカムで解決」みたいな議論は最近随所で見られます。例えば、
AIで失業 ベーシックインカムは正しい解決策か』)


 ◆

 
 しかし、私は、AIがいくら発達しても、人間のやる仕事は「本質的には」充分に残されていると確信しています。
 
 根拠は、「人間が本質的には国家を基礎に生きている」というところにあります。



 具体的に言うと、一つに旧産業の職はむしろ人手不足にあるということ。
 
 土木建築現場の作業員やトラック運転手、あるいは飲食店員など、機械で代替できない現場の肉体労働というものは、この現実の複雑さを見れば無数に残るはずです。
 
 そして、分配というならば、こうした職種に対して給与所得が大きく割り振れるように「政府規制を強化」していく方が、単純な社会保障よりも労働の活力に資す上に、国力の増進にも資するはずなのです。

 
 
 もう一つは、判断する者としての公務員です。
 
 AI(人工知能)やITでは絶対にできないのは、「公に判断したり、需要する」ということでしょう。
 
 だって、AI(人工知能)には、「国家や人間にとってなにが大切か」という価値判断は論理的に言ってできませんから。
 
 仮にしたとて、AIが「超人間的」な判断で「それが国家にとって大切だ」と言っても、人間視点ではその価値判断が正しいかどうかを確かめる術はない以上、これに従うわけにはいきません。
 
 つまり、人間が……というより、有機的な人間組織が「状況判断」するとともに循環するのが国家である以上、それは「我々が判断した」ということそのものが求められるものであり、仕事なのです。
 
 そして、国家は膨大で複雑ですから、多くの部門や地方に分かれ、各単位ごとに微細な判断をしてゆかなければならない。
 
 各省庁、各部門、各地方で、より細かく、さまざまな領域へ「(市場経済から超然した)国家」としての判断の効くよう、人員を増強して行く必要があります。
 
 むしろ、技術の進歩で社会はより複雑になり、グローバル化から国家を守る必要がある中では、より「市場から超然した行政、公共機関」を二重、三重、微細に張り巡らさなければならないはずです。

 つまり、技術が進めば進むほど、より多くの役人が必要になるのは当然の帰結なのです!


 
 すなわち、機械化、IT化、そしてAI化の押し進めてきた、「技術が人間から仕事を奪う」という流れは、「市場経済で必要とされる労働力の需要」を奪うということだけなのです。
 
 でも、それは国家として必要な仕事量を減らしているとは限りません。
 
 ならば、技術の進むことで「市場経済で必要とされる労働力需要を奪われた」後に復活すべきなのは、
 
「旧産業」と「国家」
 
 であり、そうでなければ我々は格差を公正せしめることもできなければ、価値を創出することもできないはずなのです。
 
 
 そして、問題は! その旧産業と国家に「超市場的」な価値基準を、全体として想定できるかどうかであり、これは根源的には一重に「ナショナリズム」の如何で決まる……としか言えないでしょう。
 
 
 
(了)
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「ニュートラルな知識人」こそ、右翼や左翼よりも邪悪 

 

 現今の日本国家を蝕むもの、それは確かに「ウヨク」であったり「サヨク」であったりする部分もあるかもしれません。
 
 でも、そんなニッチな連中よりも、もっと気の遠くなるほど膨大で、低劣で、反国家的なものは、
 
「ニュートラルな知識人(ソフィスト、詭弁家)」
 
 というものです。
 
 
馬2

 
 
 昨今、右や左の時代は終わった……ということが言われたりもする。
 
 なるほど、確かにそれはそうでしょう。
 
 それは、「右は右の狭い世界」で「左は左の狭い世界」で閉じこもり、お互い都合のイイことばっかり言っているので、保守は「愚鈍」に、リベラルは「屁理屈」に堕して、「普通の人」から見れば甚だ非常識に見える……という、かなり昔から生活民の中では察知されているごく常識的な話でもあります。
 
 特に「冷戦」が終わって、「自由主義」と「社会主義」という対立軸すら失われれば(そんなもの失われて良いのですけれど)、左右の議論とは「単なる趣味」に堕す気配が濃厚になることは、論理的必然とも言えるでしょう。
 
 そして、実際そうなのです。
 
 たとえば、「右!」っというメディア、「左!」っというメディアなんて、ハッキリ言ってせまい市場ですよ。
 
 
 どう見ても一般的に、今の世の中の雰囲気を作っているのは、
 
「右とも左ともつかないニュートラルな知識人」
 
 というものです。
 
 
 そりゃあ一般の「社会人的処世」というものを考えれば当然の話です。
 
 だって、現今の社会人的処世では「右っぽい右の議論」「左っぽい左の議論」など、むしろ「場」を凍らせるだけでしょう。
 
 なのだから、狡猾な知識階級の大多数は、
 
「ニュートラルな知性」
 
 を演じるのが最も都合がイイと思うに決まっているじゃあないですか。
 
 
 ◆
 
 
 さて、問題はここです。
 
 と言うのも、確かに、
 
「右や左の時代は終わった」
 
 というところまでは現状認識の再確認であり、何度も再確認すべきところでありましょう。
 
 
 ただ、右や左ではない、
 
「ニュートラルな知性」
 
 というのが、「右」や「左」以上の「邪悪」であることに、これまで我々「日本国民」は無警戒すぎでした。
 
 
 
 そもそも、「ニュートラルな知性」とは言え、それはほんとうにニュートラル(中立)というのではありません。
 
 そんなものは人間に体現しようがありませんから。
 
 ただ、それが(右でも左でもない)「ニュートラルな知性」と前提されるのは、「合理」を「中立」の基準においているからです。
 
 でも、「合理」というのは、合理そのものから「価値」は出てきませんので、ほぼ無自覚に「合理の前提となる価値基準」が暗黙に了解されているワケ。
 
 そして、その暗黙の価値基準には、
 
「単なる一人一人の人間の命や、快楽・不快の総和」
 
 を「最終価値」に置くことになっている。

 
 
 この最終価値を基礎に「合理」を組み立ててゆくのが、
 
「ニュートラル(中立)」
 
 で、
 
「知性的である」
 
 という話に、何となくなってしまっているのです。


 ◆


 そして、この前提に従い合理をしつらえるのが、知識人であり、専門人なのです。
 

 と言うか、我々一人一人は

「イチ社会人」
 
 たるもの、
 
「単なる一人一人の人間の命や、快楽・不快の総和を前提して『合理』を組み立てた体系の流行」

 に敏感でなければならない……ということになっていますでしょう。

 職場や、電車や、喫煙所での「社会人としての処世」をやりくりするためには!



 ので、必然「ニュートラルな知識人」というもののニーズも、こうした大衆社会的に確保される。

 また、政府組織も「民主主義」であるからして、この

「ニュートラルな知識人と、知識の大衆消費の邪悪な循環」(大衆世論)

 に屈服するハメに陥っているワケです。


(これはもちろん、みんな無自覚のことでしょうけれど、「言われりゃあ気づく」という程度には自覚的なんじゃあないですか。)


 ここまで来ると、

「単なる一人一人の人間の命や、快楽・不快の総和という価値前提」

 そのものを問うことは絶望的に困難になってきます。

 もしこの価値前提に刃向かおうとする者があらば、大多数は「わからないフリ」か「キチガイ扱い」してうやむやにするに決まっているのです。


 ◆
 
 
 でも、私から見れば、こうした空疎な前提を基礎に合理をしつらえる
 
「ニュートラルな知識人」
 
 こそキチガイであり、
 
「19世紀以降、せまくなってしまった地球の中で、それでも日本国家を千年先まで続かせようとする正統な全体事業……に仇する者たち」
 
 にしか見えないのです。
 
 
 
 そして、現今では、こうした「ニュートラルな知識人」は、自覚的にせよ無自覚的にせよ、ぼぼ例外なく「土地的、封建的な既得権益」を嫌う「構造改革論者」であり、「国家を時間制限付きのもの」として前提している。

 なるほど、国家は時間制限付きのものかもしれないが、その運命に刃向かうのは「国民の歴史的義務」であり「政府存立の大義」であるはずです。



 でも、大衆はこれを放棄しておける「前提」を基礎にした合理を好むワケ。

 土地や国家に縛られなくって済む前提が合理によって支えられれば、国民の歴史的義務を放棄しても自分で自分をイイ人であると思っておけるから。

 だから、知識人は、大衆の好む前提の上で、自分の専門的見地から合理をしつらえる。

 そして、そのニュートラルな合理が、前提を補強するワケ。

 つまり、「前提によって合理がしつれらる」のではなく、「合理によって前提が補強されている」のです。


 ◆

 
 すなわち、ニュートラルでナチュラルに売国する者たち……それが、
 
「右でも左でもないニュートラルな知識階層」
 
 であり、私の生涯の「敵」なのです。
 
 
 
 この「敵」と闘うためには、むしろ彼らを圧倒するほどの「知性」が必要になる。
 
 でも、問題は、その「知性の積み方」を誤ると「ミイラ取りがミイラ」で、知らず知らずのうちに自分が「ニュートラルな知識人」になっちまう危険性が容易に察知されるのだから、そこには第一級の注意を要するのですけれど……。
 
 
(了)
 
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Category: 政治:「右と左」論

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Janre: 政治・経済

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経産省若手官僚120万DLレポートに見える古くさい平成大衆根性 


 私は昭和59年生まれだから、物心つけば平成で、その後ほとんど平成を生きてきたわけだけれども、

「平成の大衆人」

 というものがこの世で一番大嫌いです。


 ……と言ってもなかなか抽象的でわかりずらいと思うのですが、この度、かっこうの

「古くさい平成大衆サンプル」

 を見つけました。


 それは、経済産業省の若手官僚が

『不安な個人、立ちすくむ国家 ~モデル無き時代をどう前向きに... 』

 と題して発表しているレポートです。


 何やらこのクソレポートがマスコミ、ネット界隈で話題のようなのですが……


橋1



 私、こういうレポートがあるということを今日拝見したばかりで、一読して今まさに

「ゲロ」

 を吐きそうになったばかりのところです。

 誰がこの低劣な心持ちをわかってくれるでしょうか?(反語)

 こうした「知識人の大衆性」に対するムカつき、苛立ちこそ、私がブログなんて書いている根元の理由でもあります。


 ◆


 ざっくり言ってこのレポートは、第一に

A「社会が液状化して、個人がバラバラになって不安が増幅している」

 ということを言う。

 それはそうだからよいとして、だったらどうすべきか……と言えば、

B「バラバラな個人にもっと選択肢を与えなければならない」

 と言うワケ。



 でも、社会が液状化して個人がバラバラになってしまったのだったら、「社会や共同体を再形成して、国家としてまとまっていかなければならない……」と考えるのが、本来の

「統治者目線」

 というものでしょう。

 それが、

「昭和とは違って社会が液状化して『昭和すごろくのコンプリート率が下がっている』から、バラバラの個人のあーしたい、こーしたいをより実現できる社会にしなければならない」

 ということを言っているに過ぎないのは、あえて「テンプレ若者」を演じているようにしか見えぬほど安っぽく、生臭い。

 到底20代、30代の大人の見解とは思えぬガキっぷり。

 だって実際、液状化した社会で、より個人をバラバラにすれば、さらに社会は液状化し、日本国家が溶けて流れていっちまうだけでしょう。


 ◆


 さて、この論筋を下支えしている前提は、

「少子高齢化で人口減少しているから、社会が液状化している」

 という使い古された筋です。


 で、

「世界では少子高齢化に対応して多用な選択肢がしつらえられている一方、日本は年寄りが人口の増えていた旧来的な昭和システムにしがみつき、若者の選択幅が狭められている」

 みたいな話にしたてられているワケ。



 しかし、まずこの、
「少子高齢化だから、社会が液状化するのは必然 」
 みたいな「前提」は根拠薄弱で、薄弱な根拠をとっとと「前提」とすることでゴマカしているところは卑怯というものです。

 もっともこの卑怯はきっと無自覚で、「なんでもかんでも少子高齢化と人口減少のせいにしてりゃ話がまとまる」的な大衆力学が背景にあるからこそ許される前提だから、まさに「平成の優等生的」とコキ下ろしておく他ないでしょう。



 さらに、それでは、かように社会の液状化に対して「個人、個人、個人、個人」とやって、

「狭くなる地球の中で日本国家を千年続かせること」

 は可能なのでしょうか?

 そういう問題意識は「皆無」なのです。

 むしろ、その先に想定されているのは「国家から自由になる個人」であり、「国家はいつかなくなるもので、それで何が問題だ?個人の選択肢のための国家だろ」というような未来観が前提されている。

 公に仕える僕……すなわち、天皇に仕える政府官僚のあり方としては、甚だ軽薄でカッコ悪い「あり方」と評す他ありません。


 ◆


 もし、「少子高齢化」が「社会を液状化」させていて対応が必要なのだとすれば、それは

「そういう世代構造でも共同して国家をやっていける共同体構造を再建すること」

 であり、

「こうした共同体構造を再建するための、大きく、層の厚い政府構造をしつらえること」

 のはずです。



 だのに、彼らの政府観ときたら、

『個人の人生の選択肢を支える』

 ものとしてのみ前提されているのです。

 ハナクソの方がまだ重みがあるというものでしょ。



 また、彼らは、
『共通目標を政府が示す』
 ことも言うには言うが、それも結局、
個人の『多様な人生』
 を最終価値として、
「個人の多様な人生の幸福を実現するサービス機関」
 として、政府の大義を設定しているのです。



 これは暗に、「国家を続かせる」という政府の最大目的を「放棄」していることでもあります。

 彼ら「政府をやっている人」なのに!


 ◆


 ただ、誤解して欲しくないのですが、私は経済産業省(旧・通産省)という組織そのものは、国家にとって非常に大事な官僚組織のひとつであると考えています。


 むしろ、現今こんな稚拙なレポートをやるような若手が30人もばっこするほど官僚組織が(大衆にイジメられて)疲弊しているなら、それこそ「日本ヤバイ」なので、こんなクソレポートに従うよりも、

「官僚の給与と採用を2倍にして、もう少しまともな人材を集める」

 という私の提言に従った方が、絶対に国家のためになると思いますよ?


(了)

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Category: 経産省「次官・若手プロジェクト」批判

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Janre: 政治・経済

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