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日本が日本であるために

時事、ニュース、政治、経済、国家論について書きます。「日本が日本である」ということを政治、経済の最上位目的と前提します。

 

     
  

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グローバル化とグローバリズムの違い 


 世間では、

「グローバル化(グローバリゼーション)」

 と

「グローバリズム」

 は同じような意味で使われることが多い。

 これは教科書などでさえ用法が曖昧だったりします。

 ですが、これら2つは、ちゃんと区別をつけて使用すべきだと思います。


障子


「グローバル化」

 というのは、「観察者」視点でその現象を指し示す言葉です。

 すなわち、

「(国境を無視して)地球規模的に、情報、モノ、人、資本が移動するようになってきている『現象』」

 というふうに、社会的な「現象」を指す名詞でしょう。

 この単語そのものに価値判断はないのであって、つまりこれだけでは「良い」とも「悪い」とも言っていないという名詞なのです。

 これは例えば、台風という名詞が、「熱帯低気圧の発達した現象」を指し示す名詞であるのと同じです。

 すなわち、当然ながら、このグローバル化という現象をどう見るかは前後の文脈によって変わる。


 ◆


 逆に、「グローバリズム」というのは、「特定の進歩観」を前提した「イズム(主義)」を表す言葉です。


 すなわち、

1 (国境を無視して)地球規模的に、情報、モノ、人、資本が移動するようになれば……

2 ……情報、モノ、人、資本は(平均として)個々の合理的判断の下に均衡するから、地球全体として効率的な資源配分(パレート最適)が実現するはずだ……

3 ……ということを大義名分として、この大義名分の下に決定せられると想定される「価格決定」や「情報、モノ、人、資本の移動」が、「最も正当である」と前提して……

4 ……各国の政府が、国家の産業や地域の既得権益を保護するために敷く規制を「不正当なもの」として糾弾し、これを剥奪しようとする『主義』。

 というふうに、「人類」の「進歩観」としての合理体系を有したイズム(主義)を指し示す名詞です。


 ですから、この単語には、グローバル化という現象を指す意味に加えて、

「グローバル化を進歩として前提し、その実現のために経済から国家を退場させようとする主義」

 という意味合いがある以上、その主義の上では「グローバル化」は「肯定すべきものである」と前提されていることになります。

 また、この主義の上では多分に、

「人間が合理を基礎に、国家から逃れられること」

 を肯定的に見る、ホモエコノミクス(経済人)としての人間性礼賛が底流にあるのです。


 ◆


 で、問題は、なぜ「一般的に広く」この両者が曖昧な使われ方で、同一視されているか……というところです。

 それは、日本人の多くが、別に主流派経済学者でなくとも、新自由主義者でなくとも、経済学を学んでいなくとも、

「ナチュラルにグローバリスト(グローバル主義者)」

 だからであろうと、私は強く疑っています。

 つまり、グローバリズムという語を「イズム(主義)」として理解できないのは、もはや日本人にとってそれが当たり前すぎる「進歩観」として、無自覚的に埋め込まれてしまっているからではないか、ということ。

 無自覚的に当たり前の進歩観として前提しているものを「イズム(主義)」として相対化するのは難しいことです。

 それは、民主主義を「イズム(主義)」として相対化するのが難しい のと同じです。



 あるいは、こういう可能性もあります。

 つまり、日本人の多くは、ある社会現象が起これば、それに従って進んでいくのが「人類の進歩」であると前提してしまっているという可能性です。


 と言うか、「人類は進歩するものである」というストーリー、

「進歩主義」

 が、多くの日本人の脳の底に前提されてしまっているから、

「進歩する人類の起こす社会現象は、大枠でいって正しい」
 
 という回路が、ほぼ無自覚的に埋め込まれているから、


「民主化」という現象が起これば同時に「民主主義」が進歩観として前提されるので「民主化と民主主義」という言葉の区別がされなくなる

 のと同じように、


「グローバル化」という現象が起これば同時に「グローバリズム」が進歩観として前提されるので「グローバル化とグローバリズム」という言葉の区別がされなくなる

 という話なのかもしれません。


(了)


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Category: 経済:反グローバリズム

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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内閣支持率を調査するという不道徳   


 安倍内閣の支持率は未だ高い水準を維持しているらしいですね。
 
 加計学園問題で少し下がったらしいですけれど、毎日新聞以外ではそれほどでもないという。
 
 たぶん、世の中の大多数の人は安倍さんしか政治家の名前を知らないので、(あるいは、「世の中の大多数の人は安倍さんしか政治家の名前を知らないだろう」と大多数が見ているので)
 
「他にやれる人がいない」
 
 などと思うのでしょう。
 
 本当は、他にやれる人がいないだなんてことは絶対にないと思いますけれどね。
 
(もちろん、安倍さん以外なら誰でもイイというわけにはいかないし、政党としての政権担当能力という意味で「自民党政権であること」は必要条件ですが)
 
 
 
 でも、そーゆー具体的な話の前に、そもそもこうして
 
「内閣支持率を調査すること」
 
 そのものが議員内閣制の下では「不道徳」であるということを我々は知らねばなりません。
 
 我々の犯してきた多くの間違いは、8割方こうした「前提」からして間違っていることから発生しているはずだからです。
 
 
 カメラ

 
 
 言うまでもなく、我々は議員内閣制度の前提で国家全体の政治をまかなってきました。
 
 議員内閣制度とはすなわちこういう話です。
 
 
 
1 まず日本国民全員が各選挙区などから「国会議員(立法府)」を選ぶ。
 
2 で、その国会議員が「内閣総理大臣」を選出する。
 
3 天皇が内閣総理大臣を任命する。
 
4 内閣総理大臣が「内閣(行政府)」を形成する。
 
 
 つまり、我々一人一人が配分されていて然るべき政治権力は、1の「国会議員(立法府)」を選ぶというところ「のみ」のはずなのです!
 
 
 なぜこんなふうにするかと言えば、大きく分けて二つあります。
 
X 「立法府」と「行政府」の連絡を担保するため。
 
Y 「民主主義」に「間接性」を担保するため。
 
 です。
 
 
 
 今日は特に「民主主義に間接性を担保する」ということに着目しましょう。
 
 上記のように、議員内閣制度では、国民の一人一人が「直接」に「行政」へ介入しないようにすることが可能です。
 
 つまり、「直接民主主義」を制限し、民主主義に間接性を保たせる工夫なのですね。
 
 だから、そもそも国民の一人一人が総理大臣を直接的に「支持する」とか「不支持だ」とかピーピー述べ立てては、せっかくの間接性がだいなしでしょう?
 
 
 
 この、「だいなし……」ということの意味をもう少し具体的に詳らかにしてみます。
 
 たとえば、ある時に内閣支持率が高水準だったとする。
 
 すると、
 
A「内閣総理大臣や党執行部」
 
 と
 
B「国会や自民党」
 
 という力関係において、Aの力が「世論の支持」の背景を背負って増大します。
 
 
 つまり、例えば「内閣総理大臣が世論で人気のようだ」となったら、「党の意見」をある程度無視してしまえる。
 
 とりわけ小選挙区制度が採用されてしまっている現在では、「党の存立」そのものが「内閣総理大臣の人気(内閣支持率)」の如何によって左右されてしまうケースが多くなってしまっています。
 
 
 この場合、「党内の意見」の方も各選挙区や産業既得権益の代表(政党=Party)という意義をきれいサッパリ忘れて、内閣総理大臣が人気を得ている内容に沿うよう屈服するようになる。
 
 とりわけ、政治資金規制法の改正後は、政党助成金や党の公認が非常に大きな意味を持つようになってしまっているので、すなわち(総裁を中心とした)党執行部の権限が増大していることになっています。
 
(政治資金規正法の問題は、「政党をまかなうために税金が使われるなんてオカシイ」みたいな安っぽい話ではないんです!)
 
 こうした状況では、内閣総理大臣は、党や国会の力を排除するために、「内閣支持率(世論の人気)」を得ようとする。
 
 というか、そうせざるを得なくなっていて、逆に「内閣支持率(世論の人気)」を得ていない内閣の政権基盤は極端に脆弱になってしまっていたし、党そのものの存立にも大きくかかわってきてしまう。
 
(くどいようですが、小選挙区制度を採用してしまったのでより一層!)
 
 言い方を変えれば、そーゆー内閣総理大臣でなければ、一定期間政権を維持できなくなってしまっているのです。
 
 
 
 でも、これってようするに事実上は「首相公選」と何ら変わらない、世論による直接的な民主主義が実現されてしまっているということになるでしょう?
 
 つまり、「世論の圧倒的なパワー」が「内閣総理大臣」を支配し、「内閣総理大臣」が「自民党」を支配する力学が大きすぎるので、結局のところ世論が直接政治を執ってしまっているのと何ら変わりのないことになってしまっているということです。
 
 
 
 そして、むしろ
 
「それでいいのだ」
 
 としてきたのが、平成のインテリ連中であり、政治制度改革に乗っかって来たすべての大人たちであり、民主主義者たちなのです。
 
 すなわち、自民党の部分部分の意見を排除して、世論が直接政治に介入するのを「進歩」として前提してきた、「ナチュラルな民主主義者」たちです。


 ◆


 このことがまず不道徳であった……という反省から始めなければ、安倍首相の問題も何も解けないのです。
 
 すなわち、本来我々一人一人は「内閣、行政」へ直接口を出すケンリなどないのであるが、首相を中心に内閣、行政の方が「世論全体の雰囲気を直接導入する気配」が濃厚であるならば、そのことを糾弾する限りにおいて万やむを得ず直接糾弾しないわけにはいかない……というのが現状最も正当性のある組み立てではないでしょうか?
 
 そして、この正当性を担保するためには、それこそ是々非々というか、「腑分け」や「論理」「そもそも論」など言葉にこだわる必要があり、「乱暴を避ける気力」を手放さないことが求められるはずなのです。
 
 だって、簡単に言えば、
 
「安倍首相が乱暴を言うからと言って、私が乱暴を言って良いという話にはならない一方、乱暴を乱暴と言わないと世の中オカシなことになる」
 
 のであるし、そういうことの基準は、例えば議員内閣制度とか、過去の制度や構造を引用し、そこから現状いかに逸脱しているか、またどこまでの逸脱が不正当と見積もられるべきかを丁寧に論理立てられて初めて生じるはずでしょう。



(了)
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Category: 政治:安倍「批判・擁護」問題

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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東京都議選(2017)と大衆力学に与する公明党 

 
 7月2日開票の東京都議選が、先の6月23日に告示されました。
 
 定数は127(過半数64)で、259人の立候補があるようです。
 
 
 注目されているのは、「自民党(現有議席57)」と「都民ファーストの会(現有議席6)」の攻防です。
 
 その中でまず目立つのは、公明党(現有議席22)の問題だと思います。
 


  
 《覆面シンガー三沢カヅチカ、衝撃デビュー!作詞:適菜収》



 と言うのも、公明党は今回、自民党を裏切って都民ファーストの会と相互推薦をしております。
 
 つまり、都民ファーストが注目を集めているから、今は都民ファーストと協力しておいた方が生き残れると判断したからでしょう。
 
 ちなみにこれに類似した昨今の例をあげると、公明党は大阪でも維新の会へすり寄って、住民投票で否決されたはずの大阪都構想の再度の法定協議会設置に与しています。
 
 だのに、いけしゃあしゃあと国政では自民党に追従している。
 
 すなわち、公明党は「各地、各場面でその時々の強いものに媚びへつらっている」だけなのです。
 
 
 ・
 
 
 とは言え、私は別に公明党そのものを別段非難したいのではありません。
 
 こうしたことが問題なのは、公明党の阿諛追従が、常にその場その場で人気の出た改革騒ぎを後押しする力学となるということです。
 
 というのも、既存の権力構造から権限をはく奪する「平成的な改革」における「敵」は、時の流行りによって「あの既得権益を滅ぼせ!」「この既得権益を滅ぼせ!」とて移り変わってきましたが、その流行の中心では「既得権益を打破する改革者」への「人気」として発露されているケースが散見されてきました。
 
 だから、「流行を捉えた改革」を言えば、人気者になり、浮動票を中心にそれなりの票を得ることができる……というのが、国政では小選挙区制度導入以降顕著になった大衆力学であり、都市部の地方選挙ではより過激にその傾向が見て取れたのであります。
 
 大阪における維新の会などはまさにそれでしょう。
 
 
 
 さて、この都議会選挙も、小池新党たる「都民ファーストの会」と「公明党」の併せた議席が過半数を超えて、
 
「都議会改革」
 や
「都庁の役人組織の改革」
 
 をやれるかどうか……が大きな焦点になっています。
 
 
 すなわちこれは、「自民党の旧来的な都議会構造や役人から権限をはく奪する」というような使い古された……また、これまで平成の間、何度も失敗してきたストーリーを、東京の高度に大衆化された市民たちが性懲りもなく欲しているということです。
 
 一方、小池知事は豊洲新市場に関するちゃぶ台返しの失態を他党から厳しく追及されておりますけれど、そして、おそらく都民は豊洲の件については「マズい話だった」と心の奥では思っているのでしょうけれど……いや、そう思っているからこそ、
 
1「豊洲の件は置いておいて」
 
2「より大きな話の都議会改革や役人改革について考えよう」
 
 というような精神的逃げ道に流れ込む可能性が非常に高いのではないでしょうか。
 
 
 こうした浮動票的な大衆力学に対して、「安っぽい改革ストーリーからは距離を保っておこう」とする常識的な固定票層が、どれだけ旧体制を保守できるか……という攻防でもあるはずなのですが、そこで公明党の力学が、改革大衆、浮動票側へゲタを履かせてしまうという話になっている。
 
 公明党だけが悪いのではないですけれど。
 
 
 
 ただ、特に国会議員の応援演説では(国会議員は自分には直接関係するものではないから)、当の自民党すらこれに引きつられる形で「改革」を述べ立ていたりするのだから、「選挙」というのはいつでもどこでもおおよそ悪いことしか起こらないものだなあ……とつくづく思います。
 
 
(了)


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Category: 法制:規制緩和批判

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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人手不足騒ぎのチャンスと罠 


 昨今、人手不足ということがいわれております。

 すなわち、団塊の世代が引退し始めておおよそ十年。

 一方、少子化が進んでいるので、新卒数は減ってきている。

 ということは全体を見ると、

「引退する数」>「新入社員」

 となって「現役世代」の絶対数が減ってゆく……というものです。


レゴ






 このことはずっと言われていたのだけれど、昨今の有効求人倍率の上昇を受けてか、

「人手不足騒ぎ」

 とも言える騒がれ方をしているのが非常に気になります。

 それは、どちらかと言えばネガティブに、

「現役世代~人で、引退世代~人の暮らしを負担しなければならない」

 などと言われてきた、その筋を再燃させるという形で。


 ◆


 しかし、私はこの「人手不足」は現今の(経済問題、大衆社会問題、政治問題を含んだ)長期デフレ状況においては、

「チャンス」

 の要因と見ます。

 何故なら、「人手不足」はデフレギャップ(潜在供給力の過剰)を是正する要因になるはずだからです。



 第一に、労働市場が売り手市場になれば、当然、全体としては給与が(名目値で)上昇するわけで、所得に裏打ちされた需要が増える要因になる。
(また、人口の減り自体は少ないので、ありがたいことに老人たちは資産と年金で需要だけはしてくれるのです)



 第二に、人手不足で供給サイドが不足し、総需要がこれを上回る状況になれば、

「(1人が1時間あたりに取り扱える仕事量を改良していかなけれなならないという意味での)生産性」

 が、これまた需要(投資)される要因になる。
(※この投資需要増には、政府規制の強化が必須)



 これらの力学が循環し、「一定期間(例えば1年間)における全体の取引回転量」(GDP)を高めることができれば経済成長できるので、国家全体としてはそれで良いでしょ。


 つまり、この「国家の経済全体のフロー(流れ)」という観点でいけば、

「求人」>「求職」
 と、
「潜在供給」<「総需要」

 は、むしろ「国力増進に資す、適切な状態」と言えるのであります。


 ◆


 余談ですが、団塊の老人たちは、「いつまでも現場に残って年甲斐もなく口を出す」のではなくて、「引退して金を使う(需要する)」ことこそ、若者のためになり、国家のためになる……ということでもあります。

 すると、社会保障は、「ベーシックインカムや若者向けの社会保障」などではなく、むしろまず「引退世代の老人の暮らしをより保全すること」こそが、「若者に良質な労働環境と土地や国家に埋め込まれ得る席を用意する」ことにも繋がるはずでしょう。

 そして、これは一重に、「国力の増進」のためにはそうあらねばならないということなのです。


 ◆


 しかし、これは一つ扱いを間違えば罠になります。


 すなわち国家全体のフロー(流れ)を見ず、これを

「消費者効用目線=供給力の観点」

 で「のみ」捉える形で対処しようとすれば、

「外国人労働者受け入れ」
「規制緩和」
「ベーシックインカム」
「むやみな女性の活用」
「むやみな老人の再雇用」

 など、昨今まことしやかに再燃している安っぽい議論に足元をすくわれることになる。

 そうなれば、せっかくのチャンスをふいにし、文化は破壊され、日本の国力もこのまま地に堕ちることとなるでしょう。

(で、たぶんそうなるんでしょうけれど。)


(了)

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Category: 経済:デフレ問題

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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AIと技術的失業の、ナショナル旧産業への帰結 


 技術が進歩して、技術が人間の仕事を代替するようになって失業が産まれる……という力学を、ケインズは「技術的失業」と呼んだそうです。
 
 たとえば、今まで10人でせんべいを作っていた工場に、全部オートマチックにせんべいを作る機械が開発されたとする。
 
 すると、せんべいを作る上で必要とされる仕事はボタンを一つ押すだけの1人分の仕事だけになり、残りの9人は仕事がなくなりますでしょう。
 
 これを社会全体の話として考えると、要は、技術の進歩に伴う市場における分配の不整合の話ということになります。
 
 
 
 母子

 
 
 ただ、技術的失業は、「残りの9人が新たな職へ就けるようになれば良い」という話に、全体としてはなります。
 
 また、技術は旧来の仕事を減らすかもしれないが、新たな仕事を生み出す……というイメージも共有されていました。
 
 これは実際にそうなって、たとえば、機械が導入されて工場労働者(第二次産業)の必要数が全体として減ったとしても、事務、営業、デスクワークやサービス業(第三次産業)の必要数が増えれば仕事、席は創出されることになる。
 
 ですから、みんな学校では、「経済が進むと、第一次産業→第二次産業→第三次産業……と重点が変わってくる」と習いましたでしょう。
 
 
 
 しかし、今度はコンピューターができて、スマートフォンができて情報社会になると、第三次産業の仕事もコンピューターに奪われることになる。
 
 すなわち、工場労働者が機械に仕事を奪われたのと同じごとく、デスクワークやサービス業がITに仕事を奪われるという話になった。
 
 たとえば、税理士、会計士などは、コンピュータの高度な会計ソフトがこれを代替してしまって厳しい状況が続いている……というのは、もし自分で個人事業などやられていたらすぐわかることでしょう。
 
 だって、個人事業レベルならば帳簿も確定申告も、少しパソコンで伝票を打てば素人にでも簡単に出すことができるご時世ですから。
 
 あるいは、下級役人や会社組織でも数々の人間がやっていた諸事務は、コンピュータのおかげ(せい?)で、以前よりはるかにわずかな人員でこれをこなすことができているのであろうことも容易に想像できることです。
 
 つまり、社会全体で言うと、コンピュータがサラリーマンから仕事を奪ってゆくというのが21世紀の紛れもないイチ力学としてあった。
 
 
 
 では、このサラリーマンの席が減った分、あらたに創出される仕事というのはなんだ……というと、おおよそ
 
「人には、まだそのITを創る側の仕事があるじゃないか」
 
 という話になった。
 
 まして、インターネットだからグローバルで、クリエイティブな感じがしてカッコいいので、期待感は膨れ上がります。
 
 ……そうやって、膨らんでいったのが2000年代のITバブルだった。
 
 時価総額が何百億とか言って、これを背景にベンチャー企業が膨大な資金調達を行って、結局野球チームやテレビ局を買って失敗する、みたいな騒ぎは記憶に新しいはずです。
 
 この00年代の時点で、そもそもIT産業、IT事業に、全体としてはそこまでの席、仕事なんてない……ということがバレていたワケですが、昨今まるでこのことがなかったかのようにITイノベーティヴに浮かれているのは、まったくなんという記憶力の欠如かと驚かれることです。
 
 
 
 しかも、さらに言えば、昨今はAI(人工知能)というのがもてはやされだしました。
 
 これは肯定的にせよ、否定的にせよ、
 
「人の仕事をこれまで以上に劇的に減らす」
 
 ということで、見解は一致しています。
 
 
 
 これを否定的に見る見方は、「とうとう人間のやる仕事がなくなって、みんなが失業者になる」という暗い見方です。
 
 肯定的に見る見方は、単に「とうとう人間のやる仕事がなくなって、みんな遊んで暮らせるようになる」という楽観的な見方です。
 
 後者は、例えば

「人間の仕事がなくなれば、ベーシックインカム(最低所得保障)などの社会保障で分配すればよい」

 というような中学生じみた発想が知識階級にすら(知識階級だからこそ?)まかり通るようになった背景でもある。

(※嘘みたいな話ですが、「AIで失業が増えるからベーシックインカムで解決」みたいな議論は最近随所で見られます。例えば、
AIで失業 ベーシックインカムは正しい解決策か』)


 ◆

 
 しかし、私は、AIがいくら発達しても、人間のやる仕事は「本質的には」充分に残されていると確信しています。
 
 根拠は、「人間が本質的には国家を基礎に生きている」というところにあります。



 具体的に言うと、一つに旧産業の職はむしろ人手不足にあるということ。
 
 土木建築現場の作業員やトラック運転手、あるいは飲食店員など、機械で代替できない現場の肉体労働というものは、この現実の複雑さを見れば無数に残るはずです。
 
 そして、分配というならば、こうした職種に対して給与所得が大きく割り振れるように「政府規制を強化」していく方が、単純な社会保障よりも労働の活力に資す上に、国力の増進にも資するはずなのです。

 
 
 もう一つは、判断する者としての公務員です。
 
 AI(人工知能)やITでは絶対にできないのは、「公に判断したり、需要する」ということでしょう。
 
 だって、AI(人工知能)には、「国家や人間にとってなにが大切か」という価値判断は論理的に言ってできませんから。
 
 仮にしたとて、AIが「超人間的」な判断で「それが国家にとって大切だ」と言っても、人間視点ではその価値判断が正しいかどうかを確かめる術はない以上、これに従うわけにはいきません。
 
 つまり、人間が……というより、有機的な人間組織が「状況判断」するとともに循環するのが国家である以上、それは「我々が判断した」ということそのものが求められるものであり、仕事なのです。
 
 そして、国家は膨大で複雑ですから、多くの部門や地方に分かれ、各単位ごとに微細な判断をしてゆかなければならない。
 
 各省庁、各部門、各地方で、より細かく、さまざまな領域へ「(市場経済から超然した)国家」としての判断の効くよう、人員を増強して行く必要があります。
 
 むしろ、技術の進歩で社会はより複雑になり、グローバル化から国家を守る必要がある中では、より「市場から超然した行政、公共機関」を二重、三重、微細に張り巡らさなければならないはずです。

 つまり、技術が進めば進むほど、より多くの役人が必要になるのは当然の帰結なのです!


 
 すなわち、機械化、IT化、そしてAI化の押し進めてきた、「技術が人間から仕事を奪う」という流れは、「市場経済で必要とされる労働力の需要」を奪うということだけなのです。
 
 でも、それは国家として必要な仕事量を減らしているとは限りません。
 
 ならば、技術の進むことで「市場経済で必要とされる労働力需要を奪われた」後に復活すべきなのは、
 
「旧産業」と「国家」
 
 であり、そうでなければ我々は格差を公正せしめることもできなければ、価値を創出することもできないはずなのです。
 
 
 そして、問題は! その旧産業と国家に「超市場的」な価値基準を、全体として想定できるかどうかであり、これは根源的には一重に「ナショナリズム」の如何で決まる……としか言えないでしょう。
 
 
 
(了)
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Category: 経済:思想、政府の役割

Thread: 政治・経済・社会問題なんでも

Janre: 政治・経済

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